新しい生

田山録弥




 吾々はある意味に於ては、かなければならない。ある意味に於ては、離れなければならない。しかし、吾々は即くばかりで生きてをられるものではない。また離れるばかりで生きてをられるものではない。即くと同時に離れがあり、離と同時に即がある。これが即ち吾々である。あらゆる矛盾があり、あらゆる撞着のあるのが即ち吾々である。更に言葉を更へて言へば、大きい心ほど、自然に近い心ほど、さうしたあらゆる矛盾したものをその中に包含して更に不自然を感じないのである。ところが、これを一度抽象して思想にすると、いくら説明してもさうした細かい心の中には、どうしても入つて行けなくなる。従つて、傍観と言へば、本当に世の中を離れて了つたもののやうに言ひ、観察と言へば、自分一人を人間の中から離して来たやうに言つて了ふのである。傍観は決して単なる傍観であり得ないことを知り得ないのである。また傍観にも非常に度数があつて、そのある者に至つては、全く人生と相即いたと言つても差支ない位のものである。

 即きすぎたのがいけないやうに、離れすぎたのもいけないのである。であるから、実際の人生の渦中にあるものには、貪著を戒め、遁世の道にあるものには、欲に近づくことを勧めるといふのが、一番本当のことである。そして、この権衡は、常に平均を保つやうに――時には際立つた上下動があるにしても、それが全く顛倒てんたうしないやうによく平均を保つてゐるといふことが、最も必要であらうと思ふ。

 表面にあらはれたものの一歩奥を見ることの出来るものでなければ、とても、芸術を語ることは出来ない。否、芸術ばかりでない、人生をも知ることが出来ない。他をも知ることが出来ない。否、さういふものは、本当に自己の如何をさへ知つてゐないものだと言つて差支ない。

 この作のかげには、何がかくされてあるか。この作の表面には、かう書いてあるけれども、作者の本当の心持は何処にあるか。かういふ風に読者は考へて見なければならない。否、さう考へて見てすら、本当にその奥がわからないやうなのが芸術である。否、芸術ばかりでない、人生もさうではないか。吾々が生きて行く上にも、さうした深奥なものが常に吾々の一歩奥に横つてゐるではないか。そしてそれを、何等かの形で――細かい心理や気分で嗅いだり、触つたりしなければならないではないか。

 静かにその奥に。容易につかむことの出来ないその奥に――。これが、この奥に触れることが、何につけても、吾々に取つて一番大切なことである。であるから、一目見て何も彼もわかるといふ人達は、何も饒舌しやべる必要はない。動ずる必要はない。多くは沈黙してゐるものである。寡黙のすぐれてゐるといふのは、このことを言ふのである。

 私はある人に言つた。『何が壊れ去つて了つても、何が移り変つて行つて了つても、変らないのは心です。心の問題です。何処まで行つても、これは容易につかむことが出来ない。つかみ得たと思つても、いつかそれはつるりと滑つて遁げて行つて了つてゐます。何うもならない。そして、今に於ても、矢張、青年時代と同じやうに、絶えずこの心を問題にしてゐます。何うも、為方がないもんですな』
 その人は言つた。
『しかし、年を取つたと、取らないとでは、その心に余程違ひがあるでせう。年を取れば段々その心を統一して行くことが出来るでせう?』
『駄目ですな。同じですな。『時』とか、『経験』とか言ふものが、いくらかそれを変へたやうに表面には見えますけれど、それはごく僅かですな。心は矢張縛られてはをりませんな。何んなことに逢つても、心は決して衰へてじつとしてゐませんな……。それに、何でも、彼でも、皆な心ですからな……。労資の問題だツて、何だツて、皆な、その底は心ですからな』
『それはさうですな』
『だから、仏教なんか、その意味で面白いと私は思ふんです。その捕捉し難い心を、兎に角あれまでに捉へたといふ形が面白いんです。経文は、心を思ひきり具象的につかんでゐますからな。中には、思想化されたやうなところもないではないけれど、それはその弊で、実際は飽まで具象的に心を描き出さうとしてゐますからな』
『さうですかな』
 かう言つて、その人は深くかんがへるやうな表情をした。

 降り頻る雨の中に、赤い、白い桃の花が見える。

『貴様は人間を済度すると言つたが、しかもその人間のことを書いて、そして飯を食つてゐるのは何ういふわけか』かういふ問に対して、私は答へた。『私は人間を済度しやうと思つたことはない。私の書くのは、唯書くのである。書きたいがために書くのである。飯を食つてゐると君は言ふが、それは結果で、決して飯を食ふために書いてゐるのではない』

『それです……。それで好いんです。その心が金剛不壊なんです。何も周囲を顧慮したり、世の中に気をかねたりする必要は少しもないんです。それを、その真面目な心を真剣に守り立てて行くといふことが、即ち法華経の中にある、この経を保持するものは……云々といふことです。つまり世間の悪魔にも誘惑にも、何にも壊されないのです。一体、世間とか、社会とかいふものは、第二義的のものです。それに従つてゐては、とても本当のことは出来ません。朝に右し、夕に左すといふやうな心持にならなければ、同化しては行かれません。それは、世間に従つて、第二義的に生きてゐれば、楽には相違ない。またある人はその易きを求めて、つとめて世間に苟合こうがふしてゐるやうなものもあります。しかし、それでは本当のことは出来ない。だから、そんなことは考へずに、飽までその金剛不壊な心を保持して行くことが必要なんです』

 書斎から茶の間に行く廊下の硝子戸を透して、隣の梅の咲いてゐるのを見る。雨の日などは殊に好かつた。

 世の常の心に超越せよ。世の常の恋に超越せよ。また世の常の束縛に超越せよ。
 然り、超越である。反抗ではない。世間に反抗するものは沢山にあるが、反抗は妥協の変形であつて、寧る妥協そのものよりも却て卑しいものと言つて然るべきであらうと思ふ。

 ある青年から手紙が来て、栗橋の利根河べりに新たに居を卜したことを報じて来た。利根川べり! 実際、それだけきいてもなつかしいなつかしい気がした。
 私には、十年ほど前に、川俣の土手の上の二階屋にゐたことが思ひ出されて来た。そこは、栗橋よりも上流だが、好いところだツた。そこからは、川を隔てて秩父の山の雪がキラキラと朝日夕日に輝いて見えた。ことに、忘れられないのは、夜半、枕の下に、微かに聞える水の音であつた。あああの水の音!
 しかし、その二階屋も、洪水のために今はなくなつた。土手の上もすつかり変つて了つた。『再び草の野に』の舞台はその近所だが、あそこいらも、今はすつかりその時分とは趣が変つた。

 天才説と平凡論とが、まだ議論されてゐるやうだが、これも、お互ひに、その奥の奥を見ずに、見ても見ないふりをして、単に言葉を弄してゐる様なところのあるのが、厭だと私は思ふ、貧乏は虚栄にはならないと共に、富貴が誇りにはならないといふことを考へて貰ひたい。

 朝霧の深くこめた中から、船が一つ一つあらはれて来た。川に臨んだ生活ほど生々とした感じに富んでゐるものはない。あらゆるものが皆な動いてゐる。水も、舟も、帆も何も彼も……。

 ある時は、ある友達と東京の近郊の梅の話をした。矢張、越生の越辺川の谷の梅が一番好いといふことになつた。『さうだね。好いには好いね。それは、新月ヶ瀬などと言つて本当の月ヶ瀬とは、とても渓が浅くつて比べものにはならないけれども、それでも東京近郊では好い方だね。あの位梅の多いところも沢山にはないね。唯、いかにも交通は不便だが……。それからもう一つ、平林寺の梅がちよつと好いね。勿論、それは梅林と言ふほどのものではないけれど、暗い、陰気な空気の中に白くはつきりあらはれてゐる形が何とも言はれず好かつたね』かう私は言つて、それからあちこちの話をした。

『何うも、此頃の批評は、何が何だかわからなくなつた』かうある人が言つた。『それは為方がないさ。皆な、新しく出て来て、そして新しく議論を始めるんだもの……。何でも自分の見たもの、聞いたものでなければ、満足は出来ないんだもの。本当だとは思へないんだもの……。何うも為方がないよ。吾々はさういふ風に出来てゐるんだから。いや、さういふ風に出来てゐればこそ、吾々はかうやつて生きて来られるんだから。宇宙のあらゆるものが、自分の為に――単に自分の為に準備されてあるといふ風に考へる位張詰めてゐなければ、生きては来られないのだから……。しかしさうした盲滅法は、いつまでもつづいて行きやしないからね。過去と将来とがきまつて、さういふ人達を脅かして来るからね。さういふ人達も次第にあと先を振返つて見るやうになつて行くからね……。破壊だけで満足してゐられずに、建設といふ方に傾いて行くからね。そして、次第にかれ等相応な建設をするやうになつて行くよ。そして其時分には、かれ等の後にも、盲滅法な新しい時代の生れて来てゐることに気がつくだらうよ。何うも為方がない……。これは吾々の世界なんだから、かういふ風に、昔から出来てゐるんだから……。さうだね、破壊だけしかやらないやうな人もあることはあるね。しかし、さういふ人だつて、矢張、後から後へと押されないわけには行かないんだからね。人生は根がさういふ風に出来てゐるんだから為方がないよ。……さア、其間の進歩、それも疑はしいね。障子の目ほど日が長くなつて行つて、そしてまた短かくなつて行くんぢやないかしら……』





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房
   1923(大正12)年4月15日
初出:「文章世界 第十五巻第四号」
   1920(大正9)年4月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「白い桃の花」です。
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2020年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード