物事がすべてはつきりときまつてゐないといふことが面白い。善いが善いでなく、わるいがわるいでなく、幸福が幸福でなく、不幸が不幸でないといふやうに、すべて、何んなことでも、有と無と、無と有とが背中合せになつてゐる。
世の中が混沌として捕捉することが出来ないやうに見え、人生が雑多紛々で、何れが本当で、何れがうそだかわからないやうに見え、また、人間の心の趨くところが、果して何うなつてゐるかわからないやうに見えるのも皆なそのため、物事がはつきりときまつてゐないところから起つて来てゐるに相違ないのである。しかも、その反対に、物事が手に取るやうにはつきりきまつてることがないでもなかつた。善の報酬は必ず幸福に、悪の報酬は必ず不幸と言つたやうに、きつぱりときまつてゐるやうな場合もないではなかつた。そこでは『自然』がある理由から、厳として人間に臨んでゐるかのやうに見える。
これに由つても、『自然』は容易に見すかすことの出来ないものであることがわかる。また、その奥の幽深な境には、一にして一ならず、二にして二ならずといふやうな、また、その反対に、一は一、二は二と言つたやうな、
しかし何うも、その境が難かしい。そこまで入つて行くのがむづかしい。何故なら、其処は理由でないからである。また思想でないからである。箇人とその小さな経験でないからである。さうかと言つて、それは気分でもなければ、感覚でもないからである。否、更に言ひかへれば、其処はさうしたあらゆるもの――理由、思想、小さな経験、気分、感覚、さうしたものをすべて包含してゐて、そしてその上に超越したやうなものであるからである。
否、さうした、理由、思想、小さな経験、気分、感覚が、いざとなればその『自然』に肉迫して行く必要な材料として役立つたのであるから面白い。
もし、これが、少しでもきまつてゐれば、きまるやうな傾向があるとすれば、さうすれば『自然』はもうぐつと小さくなつて、『捉えられた自然』になつて了ふのである。また人生も世間も存外見え透いたものになつて了ふのである。
因果の理法などから言つて見ても、善の報酬は必ず幸福、悪の報酬は必ず不幸ときまつて了つては、それでは面白くない。善人必ずしも栄えず、悪人必ずしも悪報を受けぬところがあつてこそ始めて面白い、微妙な捕捉すべからざる味が出て来るのである。ところが多くの人達は、それを統一させやうとする。さういふ法則があるなら、法則としてはつきりきまつたものにさせやうとする。しかしさうきめて了つては、きまつたものにして了つては、ゆとりが取れず、融通がきかないものになつて了ふのを知らないのである。本当の『自然らしさ』をいつの間にか
だから、いくら科学万能の世の中でも、疑問は疑問にして置かなければならないやうな場合が沢山にある。いつの世になつたとて、深秘は何処までも深秘である。疑問は何処までも疑問である。深秘の奥義を探し出せば出すほど、その深秘は奥の方へ奥の方へと引込んで行つて了ふのである。
十年も前には、私などもよくそれを問題にした。『そんなことを言つたつて、何が本当なことがわかるもんか。善の酬ひが幸福だと言つたつて、それは方便だ。唯方便にさう言つてゐるのだ。わるいことをされると困るから言つてゐるのだ』かういふ風に私なども言つたものだつた。しかし、今考へて見ると、そこが面白いのだ。善の酬ひは幸福、悪の酬ひは悪報ときまつてゐないところが面白いのだ。また、そこに自然の見透かされない
有と無との交錯、または
宗教も宗教になつてはいけないのではないか。芸術も芸術になつてはいけないのではないか。僧侶も僧侶になつてはいけなく、詩人も詩人になつてはいけないのではないか。否、々、々、さうきめて了ふことが、既に既に間違つてゐるのである。かう言つて来ると、私にも何だかわからなくなつて来た。『其処だ、其処だ、そのわからなくなつて来たところが好いのだ……』かう誰かゞ私に向つて言つてゐるやうな気がした。