豊橋から田原に行く間は、さう大してすぐれたところもなかつたけれども――馬上に氷る影法師と芭蕉が詠んだあまつ縄手が長くつゞいてゐるばかりであつたけれども、田原が近くなると、江山の姿が次第に凡でなくなつて来た。そこには比較的高い山が海に突出して聳えてゐて、豊橋から通つて来るペンキ塗の青い白い小さな汽船のその下を縫つて通つて行くのが、さながら印象派の絵を見るやうにはつきりと手に取るやうに見えた。
田原の町は、水郷らしい感じに於て、海と山とに挟まれた形に於て、また遠く世間を離れて一地方の士族町といふ形に於て、私に忘れられぬ印象を与へた。そこには例の志士で、画家で、ロマンチツクな数奇な一生を持つた渡辺崋山翁の墳墓などがあつた。私はそこから
田原から
これから畠村に至る間は、路は全く衣ヶ浦に添つて、倦むことを知らぬほどそれほど眺望のすぐれたところであつた。次第に漁村らしい、貝殻の屋根の多い、椿の樹の深く繁つた村落があらはれ出して来た。畠村の人家は、その衣ヶ浦の大きい入江から更に小さな入江をつくつたやうなところにあつて、かなりに白堊の多い、富んだ家の多いらしい村であつた。『いかにも、
こゝからは、尾張の知多半島と、豊橋の豊川の河口とに向つて、日夕汽船が発着した。私は渥美半島のすべてを探りたいと思つたために、わざわざ豊橋から歩いて来たけれども、旅客はその豊川の河口から、ぢかに衣ヶ浦の碧い波を横つて、三四時間で此処に着くことが出来た。
畠村には俳人
畠から伊良湖岬までは、全く荒凉とした二里半の話である。そこには最早貝殻の屋根もなければ漁網の高く夕日に
それに、此間は越戸の大山を主峰とした小さな山脈で
『今でも、千鳥なんか、太平洋から、こゝを越えて、伊勢湾の方へ飛んで行くさうですよ』
こゝらのことに詳しい友達は、こんなことを私に説明した。
伊良湖の村、それは半ば松の中に埋れたさびしいさびしい村であつた。しかし今行く旅客は、最早その伊良湖の孤村を見ることは出来ないであらう。磯丸の歌碑のある、または芭蕉翁の鷹の碑のある、湧き出してゐる清い泉の周囲に村の娘達の朝毎に水を汲みに来る、前には美しい伊勢湾、火のやうな雲の夕毎に渦きあがる朝熊山、砂山を越せば、美しい恋路ヶ浦、神島の一
伊良湖岬は、天下の絶勝と言つても、決して
伊良湖に行つたものは、誰でも神島に渡つて見たくなるであらう。それほど島は眼の前に近く、怒濤の中に漂つてゐるのであつた。私は幸ひに、便船があつたので渡つて見た。名だたる水道だけあつて、それは想像することも出来ないほどそれほど波濤が高かつた。血気盛んな船頭が十人近くも曳々声を出して艫を操つても、それでもともすれば、舟は潮に流されるほどであつた。島には桂光院といふ寺があつた。そこに私達は一夜泊つた。
島の西南の隅に、大きな玄武岩の洞窟があつた。かなりに奇観であつたのを私は未だに忘れない。
嵐雪の文集の中に、この附近で、しけに逢つて辛うじて此島の一角に避難したことなどの書いてあつたのが思ひ出された。
帰りは私達は、畠村から汽船で、尾張の知多半島へと向つた。
私達に取つては、その汽船の甲板の上から見た渥美半島がなつかしかつた。衣ヶ浦から見ると、越戸の大山が最も高く、伊良湖はその脈から切れて、全く海中の一孤島のやうになつて見えてゐた。
『矢張、昔は島だつたんだね。此処から見れば、よくわかるね』
『本当だ……』
こんな風に私達は指し合つた。
知多半島の師崎と渥美半島の伊良湖岬とは、相対して、衣ヶ浦の門戸を成してゐるやうな形になつてゐるけれども、こゝらあたりから見ると、それはかなりに離れて、丸で関係がないものか何ぞのやうに見えた。汽船は次第に、佐久島、篠島の方へと進んで行つた。
佐久島は地が赤ちやけてゐて、やゝ殺風景であつたけれども、篠島は海水浴場があつたりするだけに、何処か瀟洒な好い感じがした。それに、ここには、後村上天皇の遺址が残つてゐた。それは天皇がまだ義良親王であらせられた頃、宗良親王や、北畠親房や、結城宗広などと、兵を東国に募るために、伊勢の神社港から出帆した。ところが途中
汽船は午後の一時頃になつて、漸く知多半島の一角師崎に着いた。こゝに来ると、伊良湖は余程形を変へて見えた。成ほど衣ヶ浦の門戸を成してゐるといふやうに見えた。しかし此処では、とても渥美半島に見たやうな山の高さと、境の静けさと、人情の質朴さと、海の雄大さとを見ることは出来なかつた。知多半島の突出してゐる伊勢湾には波がなかつた。
私達はそれから終日、半島の東側について航行した。私達は唯、低い丘陵の連つてゐるのを見た。また、その丘陵の常に頂まで綺麗に耕されてあるのを見た。汽船の埠頭にとまる毎に、乗つたり降りたりする人達にも、全く都会馴れた口のきゝ方をするものが多いのを私達は見た。
知多半島には、源義朝の長田忠致に殺された跡が残つてゐる。それに、西海岸にある大野の海水浴場は、名古屋の人達の常に行つて遊ぶところで、たしか今では電車が通つてゐる筈である。しかし、私はまだそつちへは行つて見たことはなかつた。私達は武豊、半田などを通つて、夕暮近く亀崎に来て泊つた。此処に来ると、気分は今までとは全く違つて了つた。『そんなことあらすかい』などと若い女中は言つて、その時分の私達を驚かした。