伊良湖岬

田山録弥





 豊橋から田原に行く間は、さう大してすぐれたところもなかつたけれども――馬上に氷る影法師と芭蕉が詠んだあまつ縄手が長くつゞいてゐるばかりであつたけれども、田原が近くなると、江山の姿が次第に凡でなくなつて来た。そこには比較的高い山が海に突出して聳えてゐて、豊橋から通つて来るペンキ塗の青い白い小さな汽船のその下を縫つて通つて行くのが、さながら印象派の絵を見るやうにはつきりと手に取るやうに見えた。
 田原の町は、水郷らしい感じに於て、海と山とに挟まれた形に於て、また遠く世間を離れて一地方の士族町といふ形に於て、私に忘れられぬ印象を与へた。そこには例の志士で、画家で、ロマンチツクな数奇な一生を持つた渡辺崋山翁の墳墓などがあつた。私はそこから茅茨ばうじ瓦甍がばうと相連つた町を通抜けて、松並木の凉しい影を成してゐるところから、次第にさびしい、水車などのきしつてゐる、処々に草深い水の咽んで流れてゐる、晨星しんせいのやうにさびしく人家の点在してゐるところへと出て行つた。概して渥美半島は、さう大して高い山もなかつたけれども、それでも何処か辺僻な、さびしい、荒山らしい気分が漲つてゐて、とても知多半島の丘陵のその頂きで耕されてゐるのには比ぶべくもなかつた。山の麓や、野や、丘などにも、まだ開かれない榛莽しんばうが多かつた。
 田原から宇津江阪うづえさかまで二里、此処に来て、私は再び海と相対した。それは東海幹線の蒲郡がまごおり駅から展望した衣ヶ浦を、丁度その反対の方面から見たやうな形になつてゐて、碧い入江に帆が二つ三つ大きなスワンか何ぞのやうに静かに漂つてゐるさまは何とも言はれなかつた。それに、そこからは、正面に、林を隔て、山を隔て、海を隔てゝ、伊勢の遠い碧い山脈がそれと指点された。
 これから畠村に至る間は、路は全く衣ヶ浦に添つて、倦むことを知らぬほどそれほど眺望のすぐれたところであつた。次第に漁村らしい、貝殻の屋根の多い、椿の樹の深く繁つた村落があらはれ出して来た。畠村の人家は、その衣ヶ浦の大きい入江から更に小さな入江をつくつたやうなところにあつて、かなりに白堊の多い、富んだ家の多いらしい村であつた。『いかにも、江村かうそんらしい気のするところだね。日本にも、かうした感じのする村はあまり沢山はない。何うしても、支那の詩にでもありさうな気のするところだ……』その時、私と一緒に行つた友達はこんなことを言つた。
 こゝからは、尾張の知多半島と、豊橋の豊川の河口とに向つて、日夕汽船が発着した。私は渥美半島のすべてを探りたいと思つたために、わざわざ豊橋から歩いて来たけれども、旅客はその豊川の河口から、ぢかに衣ヶ浦の碧い波を横つて、三四時間で此処に着くことが出来た。


 畠村には俳人杜国とこくの墓がある。それが秋から冬にかけて村の人の刈草の下に深く埋められて了つてゐるのは、旅客に詩を思はずには置かぬであらう。兎に角、この半島に芭蕉翁の足跡の残つてゐるのは、なつかしいことである。翁は杜国を訪ふために、今でさへ交通の不便な、この畠村にやつて来て、そしてそこにかなりに長い淹留えんりうをしたらしかつた。『鷹一つ見つけてうれし伊良湖岬』この句が杜国に逢つた喜悦を詠じたものだと言ふのは、それは何うだか知れないけれども、兎に角、こゝから伊良湖岬の絶端まで、翁の足跡が及んでゐることを考へると、私は言ふに言はれないなつかしさを感ぜずにはゐられなかつた。
 畠から伊良湖岬までは、全く荒凉とした二里半の話である。そこには最早貝殻の屋根もなければ漁網の高く夕日にさらされた漁村もなかつた。ところどころに点綴せられる人家すらもなかつた。さびしい、さびしい、北海道にでも行つたやうな荒凉とした路である。
 それに、此間は越戸の大山を主峰とした小さな山脈でおほはれてゐるので、海は全くその路から見えなかつた。しかし、松は次第に多くなつて行つた。伊良湖の村に入る一里ほど手前あたりまで行くと、その小さな山脈は漸く尽きて、その隙間から、太平洋の怒濤が地をうごかすやうにきこえて来た。『万葉集時代には、此処は島であつた。それは何でも此処等あたりが切れて、海水が通じてゐたらしい』こんなことを友達は指しながら言つた。私は万葉集にある伊良湖ヶ島の歌を思ひ出さずにはゐられなかつた。
『今でも、千鳥なんか、太平洋から、こゝを越えて、伊勢湾の方へ飛んで行くさうですよ』
 こゝらのことに詳しい友達は、こんなことを私に説明した。
 伊良湖の村、それは半ば松の中に埋れたさびしいさびしい村であつた。しかし今行く旅客は、最早その伊良湖の孤村を見ることは出来ないであらう。磯丸の歌碑のある、または芭蕉翁の鷹の碑のある、湧き出してゐる清い泉の周囲に村の娘達の朝毎に水を汲みに来る、前には美しい伊勢湾、火のやうな雲の夕毎に渦きあがる朝熊山、砂山を越せば、美しい恋路ヶ浦、神島の一青螺せいらは怒濤の中にとはに聳えて、その向うに菅島、答志島の重り合つてゐる眺望――その眺望は、その風景は、依然として、元のまゝであらうけれども、しかも、その伊良湖の村、私の十日ほどゐた伊良湖の村は、全く見ることが出来なくなつて了つた。何故と云ふのに、そこは、要塞演習地のために取払はれて、その背後に当る日出の一村にすつかり合併せられて了つたからである。丁度その時分、吉江孤雁氏が其処に遊んで、その村の破壊されたさまをその文章に書いたのを私は見たことがあつた。私は悲しいやうな気がした。


 伊良湖岬は、天下の絶勝と言つても、決して溢美いつびではなかつた。其他に、私は何処にかうした大きな眺めを持つたシインを発見したであらうか。伊豆の海岸か、否。駿河の海岸か、否。紀伊の海岸か、否。それは伊良湖が持つた一部の比較を求めれば、それに匹敵するに足るほどのものはないことはないかも知れないけれども、しかもその大きなシインには――?
 岬頭かふとうに達する路から、伊勢海の静かな波が見えると共に、一度岬頭の砂山を越せば、太平洋の怒濤が凄じい勢で押寄せて来てゐた。それには、南洋からの椰子の実だの、難破船の破片や器の断片などが絶えず打寄せられた。そこからは、神島、答志島を隔てゝ、志摩の安乗の灯台の火光をも望むことが出来れば、沖の汽船の烟の静かに靡くのをも見ることが出来た。岬頭から右に恋路ヶ浦を伝つて行くと、その長い砂浜は漸く尽きて、小さな絶崖の砕けて海中に落ちてゐるさまが次第にその前にあらはれて来た。その海中に落ちたものゝ中には、石門の形をしたものなどがあつて、怒濤が常に寄せて来ては砕けた。
 伊良湖に行つたものは、誰でも神島に渡つて見たくなるであらう。それほど島は眼の前に近く、怒濤の中に漂つてゐるのであつた。私は幸ひに、便船があつたので渡つて見た。名だたる水道だけあつて、それは想像することも出来ないほどそれほど波濤が高かつた。血気盛んな船頭が十人近くも曳々声を出して艫を操つても、それでもともすれば、舟は潮に流されるほどであつた。島には桂光院といふ寺があつた。そこに私達は一夜泊つた。
 島の西南の隅に、大きな玄武岩の洞窟があつた。かなりに奇観であつたのを私は未だに忘れない。
 嵐雪の文集の中に、この附近で、しけに逢つて辛うじて此島の一角に避難したことなどの書いてあつたのが思ひ出された。


 帰りは私達は、畠村から汽船で、尾張の知多半島へと向つた。
 私達に取つては、その汽船の甲板の上から見た渥美半島がなつかしかつた。衣ヶ浦から見ると、越戸の大山が最も高く、伊良湖はその脈から切れて、全く海中の一孤島のやうになつて見えてゐた。
『矢張、昔は島だつたんだね。此処から見れば、よくわかるね』
『本当だ……』
 こんな風に私達は指し合つた。
 知多半島の師崎と渥美半島の伊良湖岬とは、相対して、衣ヶ浦の門戸を成してゐるやうな形になつてゐるけれども、こゝらあたりから見ると、それはかなりに離れて、丸で関係がないものか何ぞのやうに見えた。汽船は次第に、佐久島、篠島の方へと進んで行つた。
 佐久島は地が赤ちやけてゐて、やゝ殺風景であつたけれども、篠島は海水浴場があつたりするだけに、何処か瀟洒な好い感じがした。それに、ここには、後村上天皇の遺址が残つてゐた。それは天皇がまだ義良親王であらせられた頃、宗良親王や、北畠親房や、結城宗広などと、兵を東国に募るために、伊勢の神社港から出帆した。ところが途中颶風ぐふうに逢つて、舟は皆四散した。この時、義良親王の舟は、この篠島に漂着したのであつた。親王は此処に何のくらゐ滞在して居られたかそれは歴史にも詳しく書いてないが、兎に角、その跡が今でもこの島に残つてゐるのがなつかしかつた。しかし私達はそこに寄つて行く暇はなかつた。私はその日は知多の亀崎まで行かねばならなかつた。
 汽船は午後の一時頃になつて、漸く知多半島の一角師崎に着いた。こゝに来ると、伊良湖は余程形を変へて見えた。成ほど衣ヶ浦の門戸を成してゐるといふやうに見えた。しかし此処では、とても渥美半島に見たやうな山の高さと、境の静けさと、人情の質朴さと、海の雄大さとを見ることは出来なかつた。知多半島の突出してゐる伊勢湾には波がなかつた。
 私達はそれから終日、半島の東側について航行した。私達は唯、低い丘陵の連つてゐるのを見た。また、その丘陵の常に頂まで綺麗に耕されてあるのを見た。汽船の埠頭にとまる毎に、乗つたり降りたりする人達にも、全く都会馴れた口のきゝ方をするものが多いのを私達は見た。
 知多半島には、源義朝の長田忠致に殺された跡が残つてゐる。それに、西海岸にある大野の海水浴場は、名古屋の人達の常に行つて遊ぶところで、たしか今では電車が通つてゐる筈である。しかし、私はまだそつちへは行つて見たことはなかつた。私達は武豊、半田などを通つて、夕暮近く亀崎に来て泊つた。此処に来ると、気分は今までとは全く違つて了つた。『そんなことあらすかい』などと若い女中は言つて、その時分の私達を驚かした。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房
   1923(大正12)年4月15日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:hitsuji
2021年9月27日作成
2022年2月27日修正
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