海をわたる

田山録弥





 長い間心に思つたT温泉はやつと近づいた。其処に行きさへすれば、あとは帰つたやうなものである。そこからFへは三里、その埠頭には海峡をわたる連絡船が朝に夜にちやんと旅客を待つてゐて、その甲板の上に乗つて居さへすれば、ひとり手にその身は向うへ運ばれて行くのである。W町からの乗合自動車の中でKはほつと呼吸をついた。
「明日の朝の連絡船では、ちよつと忙しいね」
 一緒に長いこと伴れ立つて歩いて呉れた画家のSは、それを聞くと、一種の微笑を顔に浮べて、
「朝はちよつと無理ですね。何うしても夜のになりますね?」
「さうですかな?」
「まア、T温泉でゆつくり休んでいらつしやる方が好いですね」
 それは早く帰国されたいのは無理はないけれども、私を御覧なさい!、此処まで来てゐながら、国にも帰れずに、Fの埠頭まで貴方を送り届けると、そのまゝすぐ元の方へ引返さなければならないのではありませんか。Sの言葉にはさうした心が籠められてあるのがKにもわかつた。
「さうですね。君にも随分厄介をかけましたね。何しろ北はハルピンから蒙古のパインタラまで行つて、引返して朝鮮では金剛山まで行つて頂いたんですからね。何うです? 君も、海を渡つては――?」
「ちよつと行つて来るかな? 一週間かければ好いんですからな」故国に置いてある細君のことなどを思ひ出したらしく、それが出来れば! と言ふやうな顔をSはしてゐたが、「秋になつてからゆつくり公然に暇を取つて行きます。何しろ随分長く社をあけてゐるんですから……。もう夏の海水浴のポスタアも描かなければならなくなつてゐるんですから。でも、お蔭で、金剛山も慶州も見て好かつたです。両方とも行きたい行きたいと思つて行けなかつたところですから……」
「本当に厄介をかけた。お蔭で、どんなに楽に廻れたか知れやしませんよ」
「いゝえ」
 Sはかう言つたが、笑ひながら「でも、堅い旅行でしたね。誰にきかれても恥しくありませんね。女には振向いても見なかつたんだから」
「…………」
「貴方には意想外だつた」
「何と言つて好いのかな? お気の毒でしたツて言つて好いのかな?」
「この前に来たO君なんか盛んなものでしたね? あれでも困るが――」
「僕でも困るといふわけですね」
 Kはわざと大きく笑つて見せた。
 自動車は頻りに走つた。滑かな路である。両方に靡きわたつてゐる山は漸く尽きて、向うには海を持つた野がそれと次第に展開されて来てゐた。車内にはW町からF町へと客に伴れられて芝居を見物に行く田舎芸者が三人ほど乗つてゐたが、声高に笑つたり、戯談半分に客の膝を打つたりして顫りにわるくはしやぎ立てゝゐた。向うからと此方からすれ違ふやうになつてゐる自動車の立場では、女達は下りて、サイダを客に買つて貰つて、その残つた一二本を運転手や車掌にわけてやつた。


 T温泉はKの眼にもさう大して好いところとしては映らなかつた。田圃の中にぽつんとして置かれてあるやうな温泉場。渓流の潺湲もなければ、海山の眺めもなく、街道から入つて行くと、F町から通じてゐる電車の停留場があつて、其向うに混雑と二階建の家がかたまつてゐるといふやうな温泉場。何方かと言へば、さびしい温泉場。「はゝア、有名なT温泉といふのはかう言ふところかね。何しろ朝鮮では屈指の温泉場だと言ふから、もつと賑かな、温泉気分のするところかと思つたよ。かういふところかね!」H館の玄関口まで自動車を乗入れて、大きな階梯を上つて、二階のはづれの八畳の間に案内された時、裏の硝子戸を明け放してあたりを眺めながらKはこんなことを言つた。
「本当ですね。存外平凡ですね……。これは此処よりもU屋の方が好かつたかも知れませんね。やゝ俗ぢやありませんか。それに、朝鮮人の家族なども来てゐますね」Sもかう言つて失望したやうに言つた。
 暫くしてから、女中の持つて来た座蒲団に腰を下して、
「まア為方がありませんや。場所に対して苦情を言ふわけにも行きませんからな。今度の旅行のお別れの一夜を送るとしてはやゝ物足りないが、まア我慢するのですな!」
「為方がないですな」
Kはかう言つたが、「これで満鉄の大頭達おほあたまだちがよくやつて来るところなんですか?」
「よく来るには来るところです。やめて国に帰る家族なんかは、よく此処に一夜泊つて行くやうです……。この家が好くなかつたんでせう。U屋にすれやよかつた――」
「まア、好いでさ――」
 で、かれ等は浴衣に着代へて、そろつて湯殿の方へと出かけた。Kはその時一足あとに残つて此処で足さなければならない用事を、Sに知られずに足さなければならない用事を足さうと思つたが、今でなくともあとでももつと好い機会があるだらうと思ひ返して、そのまゝSのあとについて階梯を下りた。湯殿は母屋とは別になつてゐて、四角な庭下駄を突かけて、踏石つたひに向うに入つて行くやうになつてゐたが、とつつきの三畳には、大きな鏡が置いてあつて、そこに朝鮮人らしい女が蒼白いほど白い美しい肌を見せて、それに向つて頻に化粧をやつてゐるのをかれ等は眼にした。鏡に映つた女の顔は際立つて美しかつたのをKは見た。
 Kの胸には、すぐかの女が浮び出したが、つとめてそれを押へて、そのまま裸になつて静かに浴槽の中に入つて行つた。温泉場の平凡に引かへて、量は非常に多く、玲瓏として透き徹つてゐて、身を入れるにつれて湯はざぶざぶとあたりに漲り溢れた。
「素敵だね? 君?」
 Sが向うを顎でしやくつた。
「本当だね」
「朝鮮人もあゝいふのがあるんだな? 非常だね?」
「形が好かつたね? それに――」
「本当だ……」Sはかう言つたが、笑つて、「僕等は少し何うかしてゐますね?」
「変だね」
 Kも笑つて見せた。
 実際、長い間の旅、女なしの旅、野郎ばかりの旅、すさまじい蒙古風の連続、赤ちやけた色の山巒、人家があると思へば土壁の汚い※(「火+亢」、第4水準2-79-62)のある室、たまさかにホテルの柔かな寝台の上に身を横たへても、あひにくにそれが二人寝の大きなベツトであつたりして、笑ひながら、嘆きながら、憧れながら、はるばる五十日も旅して来たことをかれ等は繰返した。(まあ今夜一夜だ。あしたからはひとりになる。何でも出来るひとりになる。矢張ひとり旅は好いな)SはSでこんなことを考へながら、安東あたりで、帯に牡丹の絵を大きく描いてやつた女のことなどを頭に浮べた。
 かれ等が出たり入つたりする度に湯はザアザア漲り溢れた。


「君、電報用紙があつたね?」
 大鞄の中を片附けてゐるSの傍に行つてKは言つた。
「え――」
「二三枚呉れ給へな?」
「………」其処にあるのをSは取つて渡した。
「本社のTさんに、お礼を一本打つて置きたいからね」
 かう申訳のやうに、何も疑つてゐもしないのに弁解するやうに言つて、Kはそのまゝ座敷の隅の方にある硯箱や封筒箱などの置いてある紫檀まがひの机の前に行つて坐つた。
 KはTさんあての電報を先づ書いた。「イロイロオセワニナツタコトヲシンシヤス」と書いた。そしてそれを傍に置いた。後を振返つて見た。Sは猶ほ大鞄を前にして何かやつてゐた。
 Kは電報用紙をもう一枚取上げた。
 かれは心の躍るのを感じた。
 かれは書いた。
「アス[#「アス」は底本では「キス」]ゴゴ八ジノキウコウデタテウオソウデマツ」
 で、それに久しくあくがれて旅をして来た女の父親の名と番地とを書いて、それを本社のTさんあての電報の下にして、丁度向うに来てゐた女中を手を鳴して呼んだ。女中はすぐやつて来た。Kは急いで打つて貰ふやうに頼んでそれを渡した。
 今夜此処に泊つて、明日の夜の連絡船で向うにわたる。明後日の朝はそこに着く。魚惣で待つ。大丈夫だ。それでわかる。ちやんと大連からその手筈がしてあるのだから――魚惣といふ旅舎もかの女は曾て行つて知つてゐるのだから――電報が行き次第すぐ立つことになつてゐるんだから。かう思つてKはほつとした。これで逢へる、長い間あくがれて来たかの女に明後日は逢へる! それにしてもKは何んなに長くこの電報を打つ時の来るのを待つたであらう? その時が来たら? 何んなに嬉しいだらうと思つたらう? かれはそれを到るところで繰返した。時にはすさまじく蒙古風の吹荒れる砂漠の中で。また時には行つても行つても尽きない長い退屈な汽車の中で。湯の漲り溢れる温泉場の大理石の浴槽の中で。ホテルの二人寝の大きいベツトの中で。否、いかなる時でも、夜でも昼でも、朝でも、汽車の中でも、ホテルの室の中でも、それを思はないことはないと言つた方が適当である位であつたのであつた。否、そのために、その恋の集中を破壊しないために、かれはあらゆる女に――何うにでも出来る女にも触れずにはるばる旅をして来たのであつた。現に、F町では、大勢の人達にそれを勧められて、止むを得ずにさうした話まで持ち出して、その身にはちやんとさういふ異性がついてゐるのだから、現にそこについてゐるのだから、さういふ心配はして呉れるなと断つて来たのであつた。Kは電報を打つてほつとして立上つた。
 すぐSの傍に行つて、
「町を少し歩いて見やうか?」
「さうですね……」
「何か用があるかね?」
「いや、別に用といふこともありませんけどもね……。ちよつと此処をもう少し片附けて……。もうすぐです」
 しかしKはそこにじつとしてゐるに堪へないほどの喜悦に似た心持を何うすることも出来なかつた。
「ぢや、一足先きに出てるよ」
「どうぞ――すぐあとから僕も行きます」
 で、Kは静かに長い廊下を通つて、梧桐の葉の微かに揺ぐのを眼にしつゝ、下へ下りる階段の方へと向つて行くと、そこの、右の室に、さつきの朝鮮美人が額のところをくつきりと鮮かに見せるために引詰めて結つた髪を此方に見せて、何か頻に母親らしい女と睦じさうに話してゐるのをかれは眼にした。Kはその傍を掠めるやうにして下りて行つた。
 H館を出ると、通りがずつと続いて行つてゐた。さつき入つて来た時とは違つて、成ほどこんな町があつたんだな! これではいくらか温泉場らしいとかれは思つた。ふとその時一軒の理髪店が目に附いた。青いペンキ塗と赤い白いアメン棒とが眼に附いた。椅子には誰も腰かけてゐないのが眼に附いた。Kは入つて行つた。
「入らつしやい」
 中年の主人らしい男が出て来て、すぐかれを椅子の方へと導いた。
 大きな鏡には髭面が映つた。いくらか旅やつれのした、浅黒い、岩乗な、こんな面をして女のことなどを考へてゐるのかしらと思はれるやうな顔が映つた。鏡といふものは不思議なものだ。また皮肉なものだ。主観だけではすまさせずに、何処までも客観にして見せずには置かないものだ。物にして見せずには置かないものだ。さう思ふと、いくらか可笑しくなつて、腹の中で笑つた。運ぶ鋏につれて長い髪のバサバサ落ちるのも好い心持だつた。
 中年の男は矢張主人で、石見の浜田のものださうだが、此処に来てからもう十年になるといふことであつた。「さうです、W町からF町にかけては島根県のものが多いです。何しろ近いですから。直径にしたら七八里のところすらあるんですからな。それに、此処等は内地とはちつとも違ひはしません。人気だつてさうわるくはありません。その代りにうまいこともありませんがな……」その男はこんなことを言つて笑つた。
 さつぱりしてそこから出て来たのは、四十分ほどしてからであつた。Kは化粧品を並べた店や、小料理屋や、魚屋や、牛鳥肉の看板を出してゐる家などの両側に並んでゐる小さな町を緩やかな足取りで歩いて行つた。それにしてもSは何うしたか?、あのあとですぐやつて来て、何処にもかれのゐないのに呆れて、一まはり町を廻つて帰つて行つたか。それともまだ用が片附かないのであのまゝ室から出て来ないか。それともずつと向うの方まで行つたのか。それは何うでも好いが、兎に角少し町を歩いて見やう。のんきな心持で歩いて見やう。こんなことを思ひながらKが歩を運んでゐると、遠くの方から、町のずつと向うの向うの外れの方からSの此方を向いて歩いて来るのが小さく見えた。
 Kが此処にゐるのを見附けても、敢て急いで来やうとするでもなく、にこにこ笑ひながら、Sは静かに此方へと近寄つて来た。
「何うしたんです?」
「これさ――」
 Kは頭を丸めて見せた。
「あ、さうですか。さうとは気が附かなかつた。あそこの床屋ですね。それぢやゐない筈だ。何うしたかと思つてあちこち捜し廻つたんですよ。たしかに出たに相違ないのに、何うしてゐるんだらう。不思議なこともあるものだと思つて、ずつと向うまで行つたんですよ……」
「それは気の毒だつた」
「綺麗になりましたね?」Sは笑ひながらじろ/\とKの方を見て、「満鮮の髭面は内地にはお土産にはなりませんからね?」
「さういふわけでもないがね?」
「内地に行けば、何でも好いものがありますからなアー」
「わるくひやかすね!」
 Kは笑ひながら言つた。
 向うに行つても別に面白いところがないと言ふので、かれ等はそこから引返してぶらりぶらり歩いた。七三に結つた娘がゐたり、土地の芸者らしい女が男と立つて話してゐたりしたが、二人は別にそれについて言葉を交はすでもなく、そのまゝかれ等の泊つてゐる旅舎の入口のところまで戻つて来た。
 丁度その時、旅舎の番頭は電報用紙らしいものを手にして軽く挨拶してすれ違つて行つた。
(今、打ちに行くんだな――)
 かう思つたKはどきりとした。
 それから二人は旅舎の裏の方へ廻つて、半ば庭園になつてゐる広場をあちこちと歩いた。目もさめるほど赤い色に咲いた薔薇がそここゝにあつたりした。
 歩を旋しながら、
「内地はもう五月雨で、びしよびしよ降つてゐますな」
「さうだらうね?」
「こつちももう雨期に近づいて来てゐますからな」
「でも、満州は五月雨でも、さう毎日つゞいて降るやうなことはないでせう?」
「それはさうですな……。二三日降るぐらゐなもんですな」
 かれ等は午後から曇り出して来てゐる、どんよりとした、低い近い山脈が湧きあがる鼠色の雲の中に半ば埋もれかけてゐる空を仰ぎながら、静かに旅舎の方へと戻つて来た。


 その夜一夜とあくる日とをそこで費して、日の暮れる頃、SとKとは自動車で港へと向つて立つた。果してSのいつたやうに雨期はやつて来たと見えて、その日は朝から強い雨で、海が荒れなければ好いがと思はれたが、幸ひにも四時頃からは小止になつて、これでは心配したほどのことはないといふやうな天気具合になつて行つた。
 T温泉を出た時には、もはやあたりは薄暗かつた。電車で行つても好いのではあつたけれども、長い旅の最後の道程ではあるし、大きな鞄なども持つてゐるので、そこで自動車を呼ぶことにしたのであつた。旅舎の番頭や女中達に見送られて、自動車はF街道をそのまゝ驀地に走つた。
「それぢや君の汽車の方があとになるんだね?」
「さうです――」
「一体何時なんだえ?」
「たしか直行は十時二十分です。あそこは連絡船の出帆するのは八時半ですが、九時になりますから、まだ、あなたを見送つてから一時間ほどあそこいらを彷徨ぶら/\しなければなりませんね?」
「そいつはたまらんね」
「なアに、わけはありはしません。馴れてゐますから……」
「でも、本当に、君にはお世話になりましたね。こんなに世話にならうとは思はなかつた――」
「私だつてさうです。お蔭で御一緒に旅行が出来て、多年心にかけてゐた金剛山までも行けたんですから――」
「でも、此処まで来て貰ふのは気の毒だつた。隅から隅だからね」
「なアに、馴れてゐますから」
 かうは言つてゐるものゝ、海を越して明るい賑かな内地に帰るKに引かへて自分は再びあの長い長い退屈な汽車に乗つて遠く大連まで帰つて行かなければならないと思ふと、Sはさびしかつた。何となく心も暗く滅入つて行くやうな気がした。
 自動車はところどころについてゐる灯を或は右にし或は左にして驀地に走つた。風はまだ吹いてゐるらしく、をりをり大粒の雨を前の硝子に吹きつけるのがアセチリン瓦斯に光つて見えた。それは気にならないことはなかつたけれども、Kの心はそれ以上に明日はかの女に逢へるといふ喜悦を満たされてゐた。少しくらゐ海が荒れたとて、それは問題にするには足りなかつた。
 Kは帯に巻きつけてある時計を出して、それを微なアセチリン瓦斯の光に照して見た。まだ七時を少し過ぎたばかりであつた。しかしそれだけで、かれの空想は遠くへ飛んだ。(もう家を出たらう。あのバスケツトを持つて、あの旅行用の化粧箱をその中に入れて、父親に送られて、自動車で家を出ただらう。丁度今あの川にかけた橋の上を渡つてゐるくらゐだらう!)かう思ふと、赤い青い広告灯がぐるぐると廻つたり、麦酒ビールの鑵の形がひとり手に空に出たり消えたりする東京の夜の賑はひがはつきりとそこに浮んで来た。東京駅のあの混雑もそれと眼の前にあらはれて見えた。
(心といふものは不思議なものだな――)こんなことをかれは考へた。
 海の荒れる響がそれと左側にきこえて、昼ならば磯に砕ける波の白いのも見えるであらうと思はれたが、暫くすると灯の影が沢山に遠くにあらはれて、それが見る/\うちに近く近くなつて行つた。Fの港町はもはやそこにあるのであつた。
「来ましたね……」
「早いもんですね……」
 かれ等がかう言葉を交はした時には、自動車は既にF町の鮮人町を抜けて、ぼんやり動いてる電車の丸い灯をいくつとなく追越して、大きな停車場ステーシヨンの方へと近づきつゝあつた。たうとう別れの時が来た! かうした心持が二人の胸に漲り渡つた。
 停車場ステーシヨンから埠頭にかけては、大小無数の電灯の灯の影が昼をもあざむくばかりにあたりに煌々として、その間を慌たゞしげに群集は往つたり来たりしてゐる。鮮人の苦力が大きな荷物を脊に載せてえつさらをつさら運んで行く。荷役の曳いて行く車の音が夥たゞしくあたりに反響する。埠頭には既にその連絡船の怪物のやうな大きなづうたいが、ぴたりと横附けになつてゐて、をり/\汽笛が人の心を驚かさずには置かないやうにけたゝましくあたりに鳴り響いた。


「昼間はかなりにしけてゐたさうです。そのため一時間から後れたさうです」Sは買つて来た乗船切符をKにわたしながら言つた。
「では荒れますね」
 流石にKもどきりとした。
「いや、それほどではないさうです。さつきよりはぐつと凪ぎになつたさうですから……。何アに、この間は危ないことなんかありやしません。たとへ何んなにしけたつて大丈夫です。この連絡船がちよいちよいとひつくりかへるやうではそれこそ大変です。なアに大したことはありますまい」
「さうですかな。それなら好いですけども……」
「岸近くには少しは波はあるかも知れないさうですけれど、沖は凪いでゐるだらうといふことでした」
「いや、何うも難有う。鞄はもう船に積んだのですね!」
「さつき積込ませました。そらあの一二等の上り口の欄干のところに置いてあります……」
「どうも難有う……。本当にいろ/\お世話になりました。此処まで見送つて戴いては本当にすまないのですけれど……」
「いや――」
 Sは旅行中いつもやつてゐたやうに、ヘルメツト帽を冠り、ロシア皮の脚絆をつけて、太いステツキをついてゐたが、いかにもさびしさうにじつとKの方を見た。埠頭には一杯の乗客で、ことに三等乗船口の方は押すな押すなの混雑で、小さな包を持つたり子供を伴れたりした人達の上に電灯が青白く煌々とした光を眩ゆいくらゐに漲らしてゐたが、ところどころに巡査が万一を警戒して立つてゐるのもそれとはつきり際立つて見えた。「一等の方はさう込みませんから緩くりなすつてゐて大丈夫です!」などゝSは言つてゐたが、やがて三等の方も一二等の方も乗船口が明いて、乗客が潮のやうになだれて行くので、Kは、「それではいろいろ難有う御座いました。東京に入らしつたら、是非一度私のところにも来て下さい!」かう言つて何遍も帽子を取つて暇を告げて、群集と共に船の甲板の上へとのぼつて行つた。
 宛がはれた船室を見たり、大鞄を其処に指図して運んで行つて貰つたりしてやがて再び甲板の乗船口のところに来た時にも、KはSのまだ其処に立つてさびしさうに此方を見送つてゐるのを見落さなかつた、「もう何うか? 十分ですから……」かう声を大きくして挨拶しても、Sはちよつと帽を取つただけで、矢張そこに棒立に立つてゐた。何とも言はれない心持――悲哀とも憂欝ともつかない別離の情が、今しも五十日も一緒にあちこちを歩いたかれ等の心に漲りわたつて来たのであつた。Sも流石に船の出帆するまではそこを離れることが出来なかつた。
 ベルが鳴り機関の音があたりに響き出すと同時に船は少しづゝ静かに動き出して、岩壁との距離が次第にその間をひろげて行つた。と、甲板の上と埠頭との間に悲しい別離の光景が描かれて、帽子を振るもの、ハンケチを振るもの、安全を叫ぶものゝ声が一時あたりに漲りわたつた。行くものは行かなければならない。帰るものは帰らなければならない。Sもやけにステツキを振上げてヘルメツト帽を振つてゐたが、船が岩壁を斜に半ば離れて行つた時には、散らばつて行く群集と一緒に既に向うに歩き出した。その白い大きなヘルメツト帽もその中に全く見えなくなつて了つた。
 Kはたまらなくさびしい気がしたが、その次ぎの瞬間には、Fの港の灯が山の手から下町にかけてチラチラと美しく海に映つてゐるのが眼に入つた。かれはその別離の情をぢき忘れることが出来た。かれはほつと呼吸をついた。やつと他から離れて自分のすべてをかの女の方へ向けることの出来る身になつたことをくり返した。
 船の中は綺麗でそして明るかつた。派手な色彩をしたクツシヨン、青い赤い笠をした電気ランプ、椅子、テイブル、白い服を着たハイカラなボーイの通つて行くのを呼びとめて、麦酒を一本持つて来ることを頼んだが、それをコツプについで貰つて、その液体の美しくチラチラと灯にかゞやくのを仰ぎながらぐつと一杯呷つた時には、今こそその身が人生の快楽の唯中に置かれてあるやうな気がして、何とも言はれない喜悦の情が強く迫つて来るのを感じた。かれはまた時計を出して見た。(もう、乗つたな……。たしかに乗つたな。今が九時十分だから、丁度相模の海岸あたりを通つてゐるな――)かう思ふと、一つの心は船に、他の一つの心は汽車に、かうして両方から刻々に互ひに近寄りつゝあるさまがはつきりそこに絵巻のやうにあらはれだして来た。Kは今度は向うに着いた時に、そこに集つて来る新聞記者をいかにまかうといふことに就いていろ/\に考へ始めた。
 一時間ほどした後には、船はずつと沖に出たらしく、舷側に当つて波の砕ける音がザ、ザ、ザと夥しく手に取るやうにきこえた。船の動揺も急に強く烈しくなつた。船客達もてんでにその室に入つたらしく、そこらに出てゐるものは最早一人二人しかなかつた。そこでかれの話相手になつてゐた大連の知名の一人の紳士も、「今夜は少し揉まれますぜ!」かう言つて急いで立つて自分の室へと入つて行つた。Kは猶ほ三十分以上もそこにゐたが、船の動揺が益烈しく強くなるばかりなので、たうとう立つて船室へと行つて、その下の方のベツトに身を横へた。





底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
   1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
   1925(大正14)年11月10日
初出:「週刊朝日 第七巻第十五号」
   1925(大正14)年4月1日
※「頻りに」と「頻に」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「海を渡る」です。
※誤植を、底本の訂正表の表記にそって、あらためました。
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●図書カード