『色懺悔』『夏痩』あたりから、私は紅葉の作物を手にした。矢張、毎朝『読売』の一回を楽んだ方で、『おぼろ舟』のお藤『心の闇』のお粂などは、長い間忘れられないほどの印象を私の頭脳に残して居た。
其頃『江戸紫』といふ雑誌が硯友社の人達の手に由つて発行されて居た。それを千駄木の鴎外漁史が評して、『われも紫の一本ゆゑにかの雑誌を愛読するものなり』といふ意味のことを書いた。紫の一本、無論それは紅葉を指して居た。
文壇には其時分いろ/\な異つた流派があつた。根岸派、千駄木派、早稲田派、硯友社派、民友社派など、皆違つた思想と文章とを持つて、
紅葉と露伴とは、西鶴から出て、やがて右と左に分れて行つたやうな光景を呈して来た。そして互に自分の持つて居る特色を発揮して来た。紅葉の文、露伴の想、かういふことが度々言はれた。
紅葉ほど絢爛な文章を書いた人は其頃にはなかつた。かれの文章に対する苦心は惨憺たるものであつた。言葉の選択、辞句の排列、形容詞の配置など、かれほど文章に努力したものはないとさへ言はれた。かれは眺望に富んだ富士のよく見える山の手の明るい二階の一間で、いつも原稿紙を前にして、長い長い苦闘を続けた。
人の心を動かすやうな筆、それを紅葉は、人情とか同情とかいふ境から得て来て居た。通俗な、普通な、水平線からは一歩も出て居ないやうな境に、かれはいつもかれの判断を置いて居た。
寧ろその通俗な処に留つて居ることに常に心を用ひてゐたとさへ思はれる位だ。
『
『むき玉子』の
『心の闇』はかれの前半期に於ける最もすぐれた作として許されてある。それは実際さうかも知れない。『焼継茶碗』だの、『心の闇』だのは、『
『心の闇』のお粂は、作者の書いた女性の中で最もすぐれたものだと言はれてゐる。それに作者は、当時にあつて、最も女性を描くことに長じたと言はれて居た。しかし女性を描くに長じたといふことは、今の作者達のやる描写と言ふことゝは丸で違つて居た。読者の好む女性、完全に理想化の施された女性――さういふ女性を創造することは、当時の批評家はさう言つて褒めて居た。
お藤、お清、お
しかし、かれの作物に――むしろ女性に、実際の面影が見えないとは言はれない。かれは無論、創造以上に、実際の社会から、さういふ女性を探し出して来た。かれの居た頃の明治の社会には、まださうした自覚しないやさしい弱い女が多かつた。親子の間の関係を大きな声で叫んだり、夫婦の間の不平不満を表面に出して言つたりするやうな女は殆どなかつた。
かれは花柳社会の女をもかなり多く書いて居る。そして、それは矢張形式に捉へられて、義理人情で縛られて、それから外へは一歩も出ることの出来ないやうな女である『三人妻』の才蔵のやうな女は、今では、花柳社会でも、前生紀の遺物のやうに思はれて残つて居る。
二葉亭が書いた『浮雲』の言文一致はかれを促がして『二
かれは、美妙の『いちご姫』などに於ける言文一致に満足して居られなかつた。『浮雲』にも満足が出来なかつたらしかつた。『何うせ言文一致だから、もう少し自由に行かなくつては詰らない』かう言つたのを私は幾度も聞いたことがある。『二人女房』は言文一致に於けるかれの最初の試みである。
流暢にして委曲を極めて居た。細かい処にもかなり入つてゐた。他の作者の企て及べないものであつた。しかし、これを『浮雲』と比べて見る。一は内容あつての描写である。他の文章を面白くする為めの描写である。従つて『二人女房』には、書き方の面白味、洒落れやうの面白味などが眼に立つて、却つてそれが為めに内容の意味が十分に現はれなくなつてゐるやうな処がある。
『浮雲』のやうな内容ある作品が其時代に出たといふことが不思議で、作者の考一つで人物を生かしたり殺したりすることの出来る時代には『二人女房』でもすぐれた立派な作品であつたに相違なかつた。
それから後、かれは『紫』と『多情多恨』とを言文一致で書いた。
言文一致とかれの『写実主義』とはいつも
『紫』などは殊にさうした種類の誇張が甚しいやうに思ふ。
けれどかれはかなり早くから、『写実』といふことには眼を開いた人だ。『焼継茶碗』を書いてゐる時分(明治二十四年)既にゾラの作などを読んでゐた。扇の襞を明けて見せて、かういふ風に陰から後から書いてゐるやうなところがあるのが豪いなどゝ褒めてゐた。けれど、かれは、西鶴に心酔して、それから得て来たものは西鶴の文章ばかりであつたと同じやうに、矢張ナチユラリズムの内容といふものよりは、この描き方などの方にのみ心を惹かれて居たらしかつた。
『多情多恨』になると、しかし、もう余程、その作者の色をつけた描写法からは離れて来てゐた。
誰とだか忘れたが、ある時、かれは文章を論じて、『ドストイエフスキーの文章の
だから、文体とか文章とかいふ方面に於ては、かれは常にあらゆる苦心をした。雅俗折衷、地の文と会話との関係、言文一致などゝ、かれが小説を新聞に公けにした時には、必ず何等かの新しい試みが施されてゐた。小説の文体と文章とが今日のやうに発展して行つたことについて、かれの
『三人妻』に於て、かれはかれのある芸術の頂点まで行つた。
『伽羅枕』『紅白毒饅頭』それから『三人妻』といふ順序である。かれはその種の芸術に於て、かれの眼に映つた人生を描かうとした。西鶴が元禄時代を描いたやうに。またはゾラがフランスの生活を描いたやうに。
『写実』と言ふことは、兎にも角にも、紅葉其人の旗幟であつた。その写実が何んな写実であつたか、それは今此処で論ずる必要もないが、かれはかなりに実際の事実を重んずるといふ風があつた。ゾラを学んで、その書かうとする土地などによく出懸けて行つた。
かれの明治の社会に対する見方は、西鶴の元禄時代に対する如く徹底したものではなかつた。かれの平凡なる道徳観は常にその聡明な眼と頭脳とを押へて十分な働きを為さしめないといふやうな憾みがあつた。それに西鶴のやうな徹底した判断を有するには、かれはまた余りに若かつた。かれが『三人妻』を書いたのは三十歳前後の時である。寧ろその年齢にして社会に対してのあれだけの知識のあつたのを異とすべきである。
『三人妻』はかれの文章中最も絢爛を極めたものである。其の
『伽羅枕』は西鶴の一代女を真似た書き方をして居る。かれが最も西鶴に読耽つてゐた時代に書いたものだけあつて、文脈にも
かれの芸術は、多くは興味中心から成立つてゐる。対照の面白味、事件の面白味、でなければ、文章の面白味を目的としてゐる。想像力の用ひ方なども、随分空想に近いやうな用ひ方をしてゐる。『面白くなければ駄目だ。現金なものサ。人が読んで呉れないからね』かう言つてかれはよく若い人達の作品を評した。
かれに取つては、作の受ける受けないは大きな問題であつたらしい。かれは新聞の一回一回を面白く変化あらしめることに深い注意を払つた一人である。『紅白毒饅頭』などは、その意味に於ての好箇の新聞小説であつた。
新聞小説を書く以上に、かれはある一種の芸術の憧憬を持つてゐたことは事実である。新聞小説は新聞小説として置いて、他に立派な自己の芸術を打建てやうといふ腹が段々出来て来た。イギリスやフランスの通俗作家の書いた翻案小説に長い努力の疲労を医しながら、かれは『多情多恨』を書かうと思ひ立つて居た。
かれの名声の文壇を圧したのは、『三人妻』や『心の闇』を書いた頃で、明治二十五年乃至三十年時代である。三十年以後には、かれの作品に非難を加へるものが段々多くなつて来てゐた。『国民之友』には八面楼主人(湖処子)が居て、紅葉の想の枯れたことや、紅葉の小説の内容に乏しいことなどを盛に論じた。やゝ後れては、高山樗牛が『太陽』に拠つて、かれの作品を非難した。
新しい時代がその時既にかれに肉薄して居た。かれは『文学界』『国民之友』『
其頃、かれは久しく
『多情多恨は自家の米の飯だ』かれはかう自から表白して筆を執つた。
若い人達は、其文章の例に似ず平淡なのと、抒情的分子の多いのに驚いた。其処では、かれはもはや『三人妻』や『紅白毒饅頭』の作者ではなかつた。つとめて自己の持つてゐるものを出さうとして居る熱心なる作家であつた。
『多情多恨』は二年に
『多情多恨』は『紅葉全集』中最も卓れた作であることは今では誰も拒むことが出来ない事実である。この作で、作者は今まで達することの出来なかつた芸術の境に達した。『三人妻』が文章でのかれの頂点を示したと同じやうに、『多情多恨』はかれの芸術の最頂点を示してゐる。
かれの芸術向上の途を辿つて見ると、かれは一作毎に次第に作者の小さい解釈と言ふやうなものから脱却して来て居る。
『二人女房』『紫』『多情多恨』次第に作者の興がつて筆を執る癖が抜けて来てゐる。世の中を静かに見るといふ心持が段々滲み出して来てゐる。
『多情多恨』は性格描写に於ては、決して全く成功したとは言はれない。フロオベルの『
徳川幕府末世に
葉山は作者自身の描写で、お種は作者の夫人の描写だ。従つて家庭に於ける描写は溌剌たる生気を見せてゐる。
かれは趣味を生命として居た。それからかなり厳粛な道徳説を持してゐた。『青葡萄』を読むと、かれの人生に対し、世間に対し、友人に対し、門弟に対し、いかに押詰めた態度を持してゐたかといふことが解る。かれはまた人情と義理とを重んじた。義理と人情とを欠く奴は駄目だと言つた。それに、通人らしいところもあつた。何んなことをもわかりよく正義に解釈しやうとするやうな
烈しい処もあつたが、やさしい処もあつた。その人間と人生を観る眼が、何物にも蔽ひかくされずに鮮かで明かであつたかといふことは疑問だが、直情径行な、天真爛漫な、他人に対して城府を設けないといふやうな紳士らしい処があつた。江戸生れの男らしい男――それは『多情多恨』の葉山に見るやうな男らしい男であつた。
『金色夜叉』は、かれの集中最も多く世間に知られてゐる作だ。お宮、貫一などゝいふ名は、『
『金色夜叉』を書いて居る時、作者は、
『何うせ、お芝居サ』
かう言つて私に話した。『金色夜叉』は無論、新聞小説としてかれが筆を執つてゐたものである。『多情多恨』のやうな受けない作を書いた報酬として、止むを得ず筆を執つた種類に属するものである。現に西洋の通俗作家の飜案であつたことに
かれが年若くして志を
書斎の机の傍の長火鉢、香ばしい匂ひのする茶、贅沢な甘い菓子――それを私は思出さずには居られない。
かれの文壇に於ける勢力は、かれが硯友社といふ作家の群を率ゐてゐたことが大きな基礎となつてゐた。そしてその硯友社には才能を持つた作家が多かつた。創作と謂へば、其時分は硯友社に指を屈したものであつた、民友社派でも、早稲田派でも、何うも創作家に乏しかつた。
硯友社ほど団結力の堅かつた群は、其頃他に見ることが出来なかつた。紅葉と社同人との関係は、一面師弟のやうな関係があると共に、何事をも隠さない親友といふやうな風もあつた。艱難は互に助け、
人を率ゐるの権威と才能とをかれは十分に持つて居た。
かれはまた後進の為めに力を尽した。かれの門下に秀才が集つたのは、かれの名声に由つたばかりではなく、かれがそれ等秀才の為めに門戸を開いて遣ることに力を惜まなかつたといふことが、矢張大きな動機になつてゐる。かれは師を去る三尺その影を踏まずといふやうな干渉的な教育を其の門弟達に強ひたにも拘らず、門弟達は従順にその鞭と教へを受けて居た。その門弟達のゐる家塾には昔の師弟のやうな純な関係を見ることが出来た。
若い人達の運動は『自由』に向つて行はれた。
西洋に於ける八十年代の烈しい潮流は、其頃、海を越えてわが若い人達の頭に輸入されて来て居た。社会よりは箇人といふことも言はれゝば、芸術の独立といふことも言はれた。人間の血の滴る肌にもメスを当てゝ顧みないといふ意気だの、かれ悪魔たらば悪魔たるに甘んぜんといふ心持だの、犠牲博愛の無意義を説いて古い道徳を破壊しやうとする気分だのが、まだ芽を萠し始めたとまでは行かなくとも、少くとも
一代の小説家尾崎紅葉が、不治の病を得て、病床にその身を横へた時は、若い人達がロシア文学フランス文学に向つて全速力を以て走りつゝある時であつた。モウパツサン、トルストイ、ツルゲネフ、ダンヌンチオの名が若い時代に若い溢るゝやうな泉を漲らして居る時であつた。
箇人の生活、箇人の芸術、箇人の気分といふことの言はれ初めた時代に於て――箇人の道徳、箇人の自由といふ観念の