女と情と愛と

田山録弥




創造的気分


 男女の争闘のその一歩先にある創造的気分に達しなければ、女は男を理解したといふことは出来ないし、男も亦女を理解したといふことは出来ない。女に子供を生ませて、それで男の勝利だと思つてゐるとそれが却つて敗北の種子となつたりすることがある。これに限らず、何でもさういふ風に単に勝敗できめて了ふことは出来ないものであるが、男女の間柄は、中でも殊にさうであるやうな気がする。

喧嘩


 年を取るまで、夫婦喧嘩をしながら、それでも矢張一緒に棲んでゐる人達を他から見ると、非常に馬鹿々々しいやうな気がするが、当人同士には、長い間に築き上げられた気分のやうなものがあつて、別に馬鹿々々しいとも不思議とも思つてゐないらしい。この気分――この細かい心理的な気分の油で、この世の中は滑かに廻つてゐるとしか私には思はれない。

一目見て


 一目見て恋愛に落ちて行つた心持、それが、最後まで吾々には役立つ。

金と女


 金は男に取つて、なさけの表象である。『金で女を自由にした』と言つて女の体を縛ることを罵るけれど、男には、金で示すより他に情の示しやうがないのである。これは狭斜に於てばかりではない。家庭に於てもさうである。従つて金を単に物質だと思つて解釈するものは、まだ本当に人間のことを知つたものと言ふことは出来ない。況んや細かい男女の情事に於てをやである。

真面目と歓楽と


 歓楽は真面目まじめを欲する。しかし真面目はいつも歓楽と伴つて行くものではない。真面目のために昂上こうじやうされた歓楽は、やがてその人達をつらい深い淵に堕さずには置かない。矢張、歓楽には、いくらか遊戯本能が伴はなければ、常に旨く浮びあがつてはゐないものだ。

 歓楽がもはや歓楽でない境に至つて、始めて、創造的気分が静かに浮び上つて来るものである。

深い恋


 一刻も逢はずにはゐられない恋心と、一生逢はなくなつても好いと言つた恋心と、この二つの間に世間の生温るい、それでゐて一番多数な、妥協的な、煮え切らない色恋があるのである。
※(始め二重括弧、1-2-54)まア、好い加減なところで、面白く遊ばうぢやないか。お前だツて死ぬのはいやだらう。一生逢へないのもいやだらう。それよりは、何んなに妥協しても好いから、死なないですむやうにまた時々は逢へるやうにしようぢやないか。その方が面白いから※(終わり二重括弧、1-2-55)誰でも多くは皆なかう言つてゐるやうである。でなければ、※(始め二重括弧、1-2-54)どうせ、添はれない縁だ。一生、おまへなしにはゐることは出来ない、死なう、いつそ死んで了はう※(終わり二重括弧、1-2-55)かう言つて、最初の張詰めた恋心の犠牲となつて了ふやうである。
※(始め二重括弧、1-2-54)一生逢はなくつても好い。一生、顔を見なくとも、そなたを思ふ心は変らない※(終わり二重括弧、1-2-55)
 かういふ境まで行き得る恋は、容易にないやうである。

注げ愛を


 此方が十分に愛を注がずにゐて、向うに欺諞ぎへんの多いのを責めるのは間違つてゐる。注げ、愛を注げ。それに対して、女の心の動いて来ないことは決してない。いかなる女の欺諞でも、虚偽でも、この愛に対しては、決して刃を立て得ないものであることを私は度々見た。
 人は唯、愛することを得ざるをなげき、信ずることを得ざるを悲しむべきではないか。

相対的


 狭斜の女を単に狭斜の女と思ふのが間違である。稼業ではあるけれど、竟に竟に稼業になり切ることの出来ないのが、かれ等の生活でありまた境涯である。体は売つても、魂まで売り切つて了ふことは容易に出来ないものと見える。此方が悪魔でなしに、向うが単に悪魔であるといふことは、それは不可能のことである。

 向ふに見える悪魔は、自分の悪魔が此方から行つて映つてゐるのだ。さう思へば間違がない。さう思つて、女に対してゐれば、女は必ずやさしい美しいものとのみなつて、かれの前に現はれて来るであらう。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房
   1923(大正12)年4月15日
初出:「文章世界 第十五巻第一号」博文館
   1920(大正9)年1月1日
初出時の表題は「女・情・愛」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:hitsuji
2021年12月27日作成
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