男女の争闘のその一歩先にある創造的気分に達しなければ、女は男を理解したといふことは出来ないし、男も亦女を理解したといふことは出来ない。女に子供を生ませて、それで男の勝利だと思つてゐるとそれが却つて敗北の種子となつたりすることがある。これに限らず、何でもさういふ風に単に勝敗できめて了ふことは出来ないものであるが、男女の間柄は、中でも殊にさうであるやうな気がする。
年を取るまで、夫婦喧嘩をしながら、それでも矢張一緒に棲んでゐる人達を他から見ると、非常に馬鹿々々しいやうな気がするが、当人同士には、長い間に築き上げられた気分のやうなものがあつて、別に馬鹿々々しいとも不思議とも思つてゐないらしい。この気分――この細かい心理的な気分の油で、この世の中は滑かに廻つてゐるとしか私には思はれない。
一目見て恋愛に落ちて行つた心持、それが、最後まで吾々には役立つ。
金は男に取つて、
歓楽は
歓楽がもはや歓楽でない境に至つて、始めて、創造的気分が静かに浮び上つて来るものである。
一刻も逢はずにはゐられない恋心と、一生逢はなくなつても好いと言つた恋心と、この二つの間に世間の生温るい、それでゐて一番多数な、妥協的な、煮え切らない色恋があるのである。
まア、好い加減なところで、面白く遊ばうぢやないか。お前だツて死ぬのはいやだらう。一生逢へないのもいやだらう。それよりは、何んなに妥協しても好いから、死なないですむやうにまた時々は逢へるやうにしようぢやないか。その方が面白いから誰でも多くは皆なかう言つてゐるやうである。でなければ、どうせ、添はれない縁だ。一生、
一生逢はなくつても好い。一生、顔を見なくとも、
かういふ境まで行き得る恋は、容易にないやうである。
此方が十分に愛を注がずにゐて、向うに
人は唯、愛することを得ざるを
狭斜の女を単に狭斜の女と思ふのが間違である。稼業ではあるけれど、竟に竟に稼業になり切ることの出来ないのが、かれ等の生活でありまた境涯である。体は売つても、魂まで売り切つて了ふことは容易に出来ないものと見える。此方が悪魔でなしに、向うが単に悪魔であるといふことは、それは不可能のことである。
向ふに見える悪魔は、自分の悪魔が此方から行つて映つてゐるのだ。さう思へば間違がない。さう思つて、女に対してゐれば、女は必ずやさしい美しいものとのみなつて、かれの前に現はれて来るであらう。