間居

田山録弥




自他の問題


 労資問題も自他の問題である。細かい心の問題である。千古常に解決に苦しんでゐる問題である。そしてこれが物質的解決に近づいて行けば行くほど、問題は明快になつて行くけれども、同時に、自他の間を滑かに廻転させて行つてゐる熱のやうなものが次第に冷めたくなつて行く恐れがある。一体、労資に限らず、心の問題は細かいものである。矛盾に富んだものである。時には感情に、また時には意志に支配され勝ちなものである。それを、きつぱりと抽象的な思想で解決しようと言つても、それはちよつと難かしい註文だと私は思つた。

所謂社会


『個』と言へば個人、『全』と言へば社会、唯、かう簡単に考へてゐる人が多い。それではとても私の言つたことがわかりやう筈がない。私の意見では、『個』の中に『全』があるのである。『全』の中に『個』があるのである。そして所謂社会といふことは、その『個』の表面的、または部分的集合にすぎないものを指してゐるのである。

集合といふこと


 集合と言ふことは、問題を益々抽象的にしてゐるものである。従つて多くの『個』の集合である社会が、常に抽象的、妥協的になるのも止むを得ないことであるかも知れない。それは社会は『個』のあらはれであるといふことは出来るかも知れないけれど、完全な『個』、即ち人間が孤棲こせいした時の『個』とその『個』とではそれは同じであるといふことは出来ない。社会に於ける『個』は、抽象された『個』であり、妥協されたる『個』であり、また更に心理の鈍くなつた『個』であるといふことを知らなければならない。

孤棲状態の心理


 人間の孤棲状態の心理と同じ心理を社会が持つやうになるといふことは、それは不可能なことではあるまいか。

箇に近い全


 次第にその『個』に近い『全』が求められてゐるには相違ないけれど、また、さういふ風に、社会といふものゝ心理が、細かに、具象的になつて来る時代があるかも知れないけれども――しかも、『個』の心理と同じまでに進んで来るといふことは、それは夢に近い空想にとゞまつてゐはしないだらうか。

独でゐる時の心


 要するに、人間が独りでゐる時の心――その心がより多く世間にあらはれて来るやうになれば好いのである。さうすれば原始時代の純な社会が、でなければあらゆる術策とあらゆる妥協とをやつた後の社会と言つたやうな社会があらはれて来るのである。

疑問?


 今のやうに、決してはなやかでもなく、にぎやかでもなく、また無益な饒舌と不愉快な技巧とを持つてゐない、静かな、真面目な、生一本な、社会――さうした社会を私はそこに発見するであらう。しかし、それは好い社会であるか、進んだ社会であるかは疑問である。何故なら、『個』の十分にあらはれた社会が、果して社会として理想的であるか否かわからないから。

いろいろな人達


 私は此頃かういふことを考へた。
 何うも、世間には私などと非常に違つた考へを持つてゐる人が沢山にあるやうだ。そしてその人達は、私達よりも、社会とか世間とかを非常に重く見てゐるやうだ。社会といかに渉るべきか、社会をいかに進化さすべきか。また社会をいかに改造さすべきか。さういふ風に考へてゐる人もあれば、世間とか、社会とかいふものなしには、人間は生きてゐられないといふ風に思つてゐる人もあるらしい。そしてさういふ人達に取つては、社会とか、世間とかいふものは非常に大きなもので、いかやうにしても――仮令その自我を全く喪失して了つても、その社会とは妥協しなければならないといふ風に思つてゐるらしい。何うも不思議だ。何うも私にはわからない。さういふ人達は、ひとりでゐる時には何ういふことを考へてゐるのだらうか。矢張、社会と世間のことしか考へてゐないのだらうか。いかにこの社会に生くべきかとより他に何も考へてゐないのであらうか。存在のことなどを考へにも上さないのであらうか。個人があつてそして社会があるといふことなどは考へないのだらうか。何うも不思議だ。で、私はいろいろなことを考へて見た。孤独を行した時のことなどを考へて見た。
 何うも矢張、孤独は淋しいのだ。さうした空気の中には、人間はいつまでもぢつとしてゐられないのだ。矢張、大勢人間が集つたところが好いのだ。弱い人間だ……。最後に私はかうしたことを考へた。

自分のこと


 何故もつと人間は自分のことを考へないだらうか。自分のことが本当にわかりもしないで、社会のことを何の彼のと言つたとて、それはつまらないことではないか。自己の存在、他の存在、私達は先づそこから考へて行かなければならないのではないか。

現象的に生物を見るといふ見方


 現象的に生物を見るといふ見方――さういふ見方をした時代もあつたが、今はそれでは満足が出来なくなつた。草や木のやうに人間を見るといふことは科学としては面白いかもしれないが、哲学としては、何うも物足らない。

第三者の世界


 第三者の噂の程度が、所謂社会である。到底それで箇に徹底することが出来る筈がない。
 第三者の噂の程度は、物語の世界である。自分は痛切にその核心に触れることなしに、無責任に尾に鰭をつけて面白がつてゐる世界である。何うしてさういふ世界にゐて本当の『自』が理解することが出来ようか。

間居


 この頃は、全く書斎の中で暮した。滅多に人にも逢はない。裏からきこえて来る工場のエンジンの音と、隣のトヤに飼つてある鶏の鳴声と、障子に映る樹木の影と、唯それのみが伴侶となるばかりであつた。
 この寂寞を破つて、糸魚川の相馬御風君からたよりがあつた。空谷に跫音をきいたやうな気がした。第一に驚いたのは、君の手蹟が非常に旨くなつたことであつた。これを見ただけでも良寛の好い感化が十分に君の精神の上に及んでゐるのを知ることが出来た。嬉しかつた。
 何うしても、人間は一度は静かに落附いて見なければ駄目だ。あらゆるものを捨てて捨てて捨てて見なければ駄目だ。さうすれば、ひとり手に、世間がはつきりと見えて来る。社会と言ふものの本当の価値もわかつて来る。つづいて自己といふものもはつきりとわかつて来る。

芸術とは?


 芸術は主義、思想のために書くべきものでもない。また、生活のために書くべきものでもない。また金のために書くべきものでもない。唯、書きたいがために書く、内部の要求があるがために書くと言ふべきものであらうと思ふ。

何方も好いとは言はれない


 遊戯味の多くなつた芸術と、生活に偏りすぎた芸術と――何方も好いとは言はれない。何方からも非常にすぐれたものが出て来るとは思はれない。

ある女の死に


 ある女の死に、私の、『梅の花色もかをりも清かりしその梅の花ちりにけるかな』といふ歌を詠んだ。非常に平凡だ。しかし、その平凡、それが却つて私には好いやうに思はれた。

社会におくものと人間におくもの


 その標準を社会に置くものと、人間の根本に置くものとでは、その言ふことが非常に違つて来る。丸で正反対と思はれるやうなところさへ出て来る。私は言つた。『でも、もう少し金剛不壊ふえなものを考へて見ても好いではないか。君の議論では、その根本は根本だけのものだから、それを今更言つて見たつて為方がない。それよりももつと実際のことに触れる方が好いと言ふけれどもその所謂君の実際は言はば根本をつつむ雲か霧のやうなもので、忽ち生じてまた忽ち消えて行くものではないか。本当から考へて見れば、そんなことは何うでも好いことではないか。吾々はもつと金剛不壊なもの、何うにもならないもの、滅びても減らないもの、さういふものを考へて見なければならないではないか』
『どうも、しかし、さういふ風に、君のやうな雲か霧のやうに、軽く見て了ふことは出来ない。僕の考へでは、何んなことでも、社会の影響を受けないものはないと思ふ』
 かうその人は言つた。
 それはさうだ。影響を受けないものはないに相違ない。しかしそれにさう深く捉へられなくつても好いではないか。さうしたものを静かに観て、そして深く根本に達する方が本当ではないか。

議論は?


 押し詰めれば、議論はいくら言つても、為方がないやうなものだといふことを、此頃、私はつくづく感じた。

『開かれぬ扉』


 伊豆の海岸を廻つてゐる人から、度々おもしろいはがきが来た。その人は、伊東を発足点にして、天城の麓を稲取に出で、河津の温泉に浴し、それから下田に出て、手石の弥陀窟を探り、長津呂から、今度は半島の西海岸に出で、土肥から三島の方へとくるりと廻つて来るらしかつた。いかにも面白さうな旅の行程だ。体をこわしてゐなければ、自分も一緒に歩いて見たいやうな行程だ。この人は『開かれぬ扉』といふのを私の許に持つて来た。
 私は一読した。少しくだくだしいやうなところはあるけれども、純で、無邪気で、そして飽まで芸術的なのが羨しかつた。全く社会から離れてゐる形も好かつた。私は若い作家からは、常にかうしたものを望みたいやうな気がした。

 娘は条件なしに惚れて好いもの、美しい娘は皆な自分が恋するためにこの世に存在してゐるものといふ風に、手放しに異性にラブして行く形が、何とも言はれず無邪気で好かつた。そこに、この『開かれぬ扉』の価値があると私は思つた。
 私は純な、羨しいほど純な若い心をそこに発見した。それから思ふと、私達の心はいろいろな衣を何枚も何枚も着せられて了つたやうに思はれずにはゐられなかつた。私は情ないやうな気がした。恋をしようにも、私達はもういろいろな打算がある。美しい女を見ても、すぐその裏を見透すやうな知識を持つてゐる。なまなかな知識ではないか。人をけふにしまた人を不純にする知識ではないか。
 さうかと言つて、今になつては、その知識の重荷をほふり出すわけにも行かない。

 純な心、張詰めた心、真面目な真剣な意志――それだけあれば好い。さうすれば、何んな艱難に向つて行つても好い。何んな辛い心の歴史に打つかつても好い。何んな堅い扉をも開くことが出来る……。かう私は思つた。冬の夜は静かに更けて行つた。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房
   1923(大正12)年4月15日
初出:「文章世界 第十五巻第三号」博文館
   1920(大正9)年3月1日
※初出時の表題は「間居して」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:hitsuji
2021年11月27日作成
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