一夜すさまじく荒れた颱風の朝、Kはいつもよりも少し遅れて家を出た。雨はまだぽつぽつ落ちてゐたけれども、空にはところどころ青いのが見えて、
Kは大学を出て、ついこの夏今の社に出たばかりであつた。また細君を持つてゐなかつた。かれは母と二人で暮した。水入らずの親一人子一人の暮しを。学校を卒業して社に勤めるやうになつても、五六年つゞけて来たのと少しも変らない静かな暮しを。学校に通ふのを社に変へたばかりの暮しを。かれはいつものやうに小さな川をわたつたり、林に添つたりして、通りの向うにある郊外の小さな電車の停留場の方へと足を運んだ。
でも昨夜の風雨はさう大してひどい方ではなかつたらしく、通りへ出るところの角では、そこの主らしい男がその此方の小間物屋の爺と並んで立つて、『まア、このくらゐですんで結構でした。一時はもつとひどくなるかと思ひました……。もう大丈夫です……』などと言つて雲行の早い空を眺めてゐた。
それからは新開町が続いた。顔を白く塗つて耳かくしにしてゐる女給の二三人もあるカフエーだの、肥つた
レイルを越して、階段を上るやうになつてゐる停留場の下に来て、Kは仰向いて思はず立留つた。あたりには人が満ちてゐた。少くとも今までついぞ見たことがないほど人が一杯に溢れてゐた。何うしたんだらう?と思ひながら、しかも躊躇せずにKは上つて行つたが、忽ち一つの知つてゐる顔から挨拶された。それはこのずつと奥の方に住んでゐる農家の一人子息で、市内の高等科の学校に通つてゐる青年であつた。
『何うしたんです?』
『何でも故障が出来てるんださうです』
『あなたもうさつき来たんですか?』
『いや、今、来たばかり――』
こんな風に言葉を交してゐる中にも、Kは知つてゐる顔を其処此処に発見した。冬にはいつも厚ぽつたい外套を着て古びた中折をかぶつてゐる丸の内辺の役所の属僚、肥つて脂ぎつた体格をして、銀の輪の
Kはなるたけその群衆の隅に身をかくすやうにして、その三つの色彩の方から眼を離さなかつた。
『それで、一体、何うしたので御座いませう……?』
『何でもTとIとの間の土手が崩れたのださうで御座います……。電車はさつきまで、折返しで通つてゐたさうで御座いますけども、何ういたしましたので御座いますかしら? ……』
『大抵なことなら、何うにかなりさうなものですがねえ……』
『さう沢山お手間も取るのでは御座いますまいけども……』
かうした中年の女達の話声につゞいて、今度は銀行員らしい二人の男の声がKの耳にきこえて来た。
『それにしても、君、変な気がするぢやないか?』
『何が――?』
『何がツて……?』始めて話し出した方の男が静かな声で、『ここに来てゐる人達は、皆僕等の顔馴染ぢやないか。皆な何処かで見てゐる人ばかりだよ』
『それはさうだね』
『それがこの故障で、かうして一ところに集められたのだから面白いぢやないか?』
『さうだね……』
しかし話しかけられてゐる方は、その話しかけてゐる方の言葉の露骨で、そこにゐる大勢の人達にすぐ振返られさうなのを気にしてゐるらしく、その答をするのにさへ十分気を置いてゐるやうなのが、ぼんやり耳にしてゐるKにもそれとわかつた。実際それと説明するほどのこともなくそこに集つてゐる人達は、誰も皆さう思つてゐるらしく、さうは思はないにしても、滅多にかけちがつて逢へない人がゆくりなく出会して、そこでも、此処でも、『まア、お久振りでした……』とか、『久しく御無沙汰致して居りますが、皆さんお変りありませんか』とか、『それはまア結構です。さやうですか、まあお嬢さんはお片附きになりましたか』とか言つて互ひに不意の邂逅を語り合つてゐるのであつた。中には、互ひにこの近くに住んでゐて、同じにこの電車に常に乗つてゐて、それで少しも知らずにゐたなどと言つて、この故障のためにゆくりなく二人相逢ふ機会を得たのを喜んでゐるものなどもあつた。さういふ人達は、『さうですか、あの森の
それはあの三人の色彩の中では、空色のが美しいにはきまつてゐる。それをかれは三年も前から見てゐる。その眼と眉を夢に見たこともある。否、その住んでゐる家の垣の周囲をぐるぐる歩いて見たこともある。夏の夜の庭のしげみの中にその娘の室の
この間にも向う側のレイルの上を走つて来た電車は、五六人の乗客を載せて、そのままその反対の方へと徐かに滑つて動いて行つた。
『あ、あの電車がNまで行つて、そして引返して来るんですよ』
それを遠く見送るやうにして群集の一人は言つた。
Kはさつきからその向うのところに、ハイカラな、髪を新様に結つた、三十になつたぐらゐな、背の高い、何う見てもピアニストか何かとしか思へない女性が、これも矢張音楽学校か女子大学の女生徒でもありさうな、その女性とはぐつと年若な、その口調から判断しても、その弟子とも思はれるやうな、かなり目に立つシヤンと頻りに何か話してゐるのに眼をとめて、いろいろ想像を逞うしてゐると、ふとそこに、帝大の医学博士で、去年帰朝したばかりのY氏(Kはそれを
『まア、Yさん』あまりに思ひがけないのにびつくりしたといふやうにその女性は声を立てた。
『お帰りになつたのは存じてをりましたけれども……お迎へにも出ませんで――』
『何う致しまして……?』女性は丁寧に挨拶して、『矢張、この辺にお住ひになつていらつしやるのですか?』
Y博士は軽く
『私も親類がこの先のところにをりますので……』
『まだ、お住ひになつたわけでは?』
『え、え……。やつと落附きましたばかりで――』
『何うです? 東京は?』
『何だか、混雑してをりますのねえ。
『ウヰンからイタリイにお出になりましたか?』
『え、カプリあたりまで行つて参りました。イタリイは宜しう御座いますのね――』
『それから
『え、すぐロンドンへ行つて、そこから帰つて参りました……』
『それにしても、Sさんはお気の毒でしたねえ……』
Y氏がかう言ふと、その女性はかうした群集の中でさうした話を持ち出すのは好ましくないといふやうに、『本当で御座いますねえ』と言つただけで、すぐその話を打切つて了つた。しかも一時新聞をさわがしたS氏の自殺――階上から飛び下りた自殺は、それを傍できいてゐたKにもそれとはつきり思ひ出されて来た。或はこの女性がその自殺の原因を成した恋人のピアニスト自身ではあるまいかとすら思はれた。Y氏とその女性とは猶ほ頻りに話した。しかしさうしたKの好奇心も忽ちその力を失つて了はなければならなくなつた。何故と言へば、此時Kはちらりとある美しい色彩にその目を奪はれたからである。前の三人が青と赤と空色とであるならば、これは濃い紫色を感じさせずには置かないやうな美しい色彩が突然そこにあらはれて来たからである。Kの眼はぴたりと其方へ向つて注がれた。
その色彩は群集の中を静かに此方に来て立留つた。それはKの眼ばかりではなかつた。一時そこにゐる人達の眼をそこに集中させた。Kは時にはその横顔を、時にはその白い豊かな眼を、その眉を、その額を、その唇を感じた。群集の混雑の中に半ば埋れて立つてゐる美しさを感じた。
電車はやつとやつて来た。
押し合ひへし合ひ乗り込んだ。幸ひにしてKはその色彩から余り遠く離れないところにその位置を占めることが出来た。しかしともすればその美が半ば埋れた美から全く混雑の中に埋れ尽した美となることをかれは恐れた。かれはその白い襟元を、その新様に結つた髪を、眉を、額を、眼をあちこちに捜した。
かれには不足はなかつた。さういふ風に混雑の中に、或は肩、或は髭面、或は帽子、或は汚ない顔などの中にをりをりその美は埋れ尽されても、それでもそこにその色彩があるといふことがなつかしかつた。電車は満員のまま滑らかに走つた。
さつきのピアニストはと見ると、これも好い相手を得たと言はぬばかりに――或は外国にゐた間にも二人の間にある親しさがはぐくまれてでもゐはしなかつたかと思はれるばかりに、その一人の女の弟子などには眼もくれぬやうに頻りに顔を合せて余念なく話し合つてゐるのをKは眼にした。
IとUとの間に来て電車は徐行した。
『あ、此処だな』
『あ、こゝが崩れたんだ……。ふむ、
『危いわねえ――電車が通つてゐた時でなくつて好かつたわねえ』
かうした声がそこからも此処からも起つた。電車は徐かにその土手の崩れたところを通つて行つた。