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皮肉に物を見るといふことは、その人の聡明を示してはゐるけれども、しかもその聡明に捉へられて自分一人を好いと思ひあがつたやうな処があつて厭だ。
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観察とか解剖とか言ふことは、得てさうした皮肉を生み勝ちである。唯、じつとして見てゐたゞけでも、それだけでも、人に皮肉な感じを与へる。
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皮肉ばかり言つてゐられる人は、存外暢気な性質かも知れない。でなければ、分裂ばかりあつて統一のない人かも知らない。中には自分が非常に辛くつてそれが激発して皮肉の語を成すものがあるが、それはもう単なる皮肉ではなくなつてゐる。
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人間はこんなに醜悪なものだと言つて、その縮写図を示して貰つたツて、人間が別に善くも悪くもなる訳ではない。何処まで行つても人間は人間である。芸術は芸術である。人間も芸術も、単なる写生だけでは何うにもならないものである。
写生の多きことよ、悪写生、醜写生、平写生。画家が写生から入つて行き、詩人が観察から入つて行くことは、初学者は好いかも知れないが、一生をこの写生に没頭して倦まざるものは、笑ふべく憫むべき小作家なる哉。
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梧桐の葉が余り繁りすぎたので、植木屋を呼んで少しばかり伐らせた。その時の詩に、『幾樹梧桐遶草茨、重々如傘暗書惟、還嫌風雨攪幽夢、剪取窓前一二枝』
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作家が苦しんでゐるほどすぐれた作が出来ると思つた時代があつた。またそのために作者は苦しまなければならないと思つた時代があつた。つゞいてデカダンや、無節操や、小反抗や、似非不道徳をわざとやつて歩いた時代があつた。そしてそこから芸術の新しい花が開くと思つた。愚かであつたことよ。
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真面目なことを茶にして笑つて了ふやうな態度も厭だけれども、つまらない小さなことを上段から振翳して、大真面目でゐるのも馬鹿々々しい。
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阿難の執着を破するために、心も亦虚妄と言つた世尊の言葉は味ふべき言葉である。唯心縁起――華厳経などはそこから出立して居りながら、その心も亦虚妄と言つて了つたところにも深い意味がある。
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武州羽生町建福寺に昔からある大きな筆で、横額を三枚ほど書いた。一つは『雪山毒卓』一つは『決定信』もう一つは『浮碧楼』雪山毒草は殊に気に入つた。今までこれほど旨い字を書いたことはないとすら思つた。大正七年十月一日のことである。
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建福寺の主僧も、書は決して拙い方ではなかつた。しかし、その見るべきものは、多くは紙乃至絹に於てせずして、塔婆に於いてする。平生慣るゝところ、自づからその妙境に至つたのであらう。私は滞在中、墓場に行つて、その塔婆を見るのを楽みとした。墓場には銀杏がやゝ落葉して、木犀の匂ひが私に秋を思はせた。
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今年の作品で私の感心したものは唯一つ。曰く佐藤春夫氏の『田園の憂欝』
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谷崎君のものは、益々進境が著しいのが眼に着く。『嘆きの門』などの自由濶達な書き方を見ると、殊にそれがよくわかる。しかし氏の特色とされてゐる探偵めいたものは私は取らない。
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芸術は文章ではない。また内容ではない。さうかと言つて、文章でも内容でもないものでもない。
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内容を説くものの多きことよ。筋を説くものの多きことよ。民衆を説くものの多きことよ。しかしその説くものの多いことからは、決して新しい芸術を産んで来なかつた。芸術はいつもさうしたものを裏切つて、別なところに静かに落付いてゐた。
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『石にひしがれた雑草』と『
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あゝしたものをいくら書いてもしやうがないやうに、作者も恐らくは思ふであらうが、それでも正宗氏の『密室の妄想』は氏でなければ書けないものだと思つた。平地に波瀾を起すと言つて好いか、それとも亦平凡の中に非凡を発見すると言つて好いか、兎に角すぐれた腕だ。しかし『白昼夢』は私は取らない。
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此頃庭で見るに堪へたるものは、何もない。柿の紅葉の他には――。
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独歩の弟北斗君がある日やつて来た。年を取つたと思つた。しかし眉目の間に、何処かに故人の面影があつてなつかしかつた。『収二――収二――』かう言つて故人が友達のやうにして一緒に歩いたことを考へると、渋谷のあの幽棲が眼の前にあらはれて来た。
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日本の歌人の書は多いけれども、私は松波遊山翁の書ほど巧いものはないと思ふ。私は書画に於て多く好むところがないけれども、翁の短冊だけは珍襲愛蔵してゐる。
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仏典を読んだからとて、私の作に宗教味の多い少いを議論するものは、本当に私の作を見たとは言へない。それは偶、私の作中にさうしたところを発見して、さういふ人達が共鳴しただけのものである。私は仏教の宣伝を要求されるやうな資格のあるものではない。しかし、仏典から教へられたところは多かつた。その中で、尤も好い影響を受けたのは、心持が落附いて、無闇に生命の浪費をやらなくなつたことである。老いるといふことと若いといふことと同じであるといふことを知つたことである。疑惑を去つて信ずる力を得たことである。中でもこの最後の信ずるといふ一条は、私に今まで知らなかつたいろいろなものを見せて呉れた。
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ある人の前で、ある人の作を評して、『面白いには面白いが、あとで後悔するね。何うしてあんなことを書いたらうと思ふに違ひないね』かう私が言ふと、そのある人は、『それはさうかも知れないが、また、一方では、よくあゝした思切つたものが書けたと思ふに相違ないよ』と言つた。成ほどそれはさうだと私は思つた。しかし更に飜つて考へた。(まだその先があるのではないか。その先きが大切なのではないか。裏と表、善と悪、さうしたものを超越した境が最も好いのではないか。最も本当なのではないか)と。