解脱非解脱

田山録弥




解脱の度数


 解脱にも非常に度数があると共に、真剣とか、一心とか言ふことにも矢張度数がある。更にそれを幾種類に別つことが出来る。従つて口で言ふことはわけはないが、そのあらはれた形を見ると、千差万別である。容易に言説することの出来ないのは其処にあると思ふ。

仮面


 真剣と真面目とを正面から振りかざしたとて、それが技巧や、身ぶりや、表情や、世間に対する仮面に立つて了つては駄目である。

真剣の程度


 真剣や真面目は、その背景に持つたものゝ如何に由つて、その価値ねうちがきまる。
 それは、いかに他から見ても可笑おかしいことであり、噴き出さずにゐられないやうなことであつても、それに引摺られて行くやうなものでなくてはならない。他の笑殺や嘲殺を圧倒して了ふやうなものでなければならない。いかに真剣でも、識者から笑はれたりする程度の真剣は、その燃焼の度数が足りないからであらうと思ふ。

真面目と笑ひ


 真面目を守本尊にして、驀地まつしぐらに進む形はまだ対世間である。決して絶対ではない。真面目は笑や、戯談じやうだんや、滑稽や、さういふものゝ中からも捜し出して来られるやうでなければいけない。

自己と世間


 対世間の作や、批評や、言説の多いのは、いつの時代にもめづらしいことではないが、此頃は殊にそれが多い。作に当気あたりげのないものは尠い。衒気てらひげのないものは尠い。批評にもはつきり物を言つて見せたやうなものが少い。皆な何処かで妥協したり、好い加減にしたりしてゐる。でなければ外国の思想を借用して、世間に対してゐる。それほど世間に迎合しなければならないものであるか。否、そればかりではない。今の青年で、世間より以外にみづからがある筈がないと言つてゐるものさへある。世間即ち自己であればそれで足りるやうな青年が多い。それでゐてこれ等の青年は妥協主義と言はれてゐることを耻ぢてゐる。

対世間の作者


 同じやうな型にはまつた作、流行をつたやうな作、チヤンと構図と構成のきまつたやうな作、さうした作の多いのは、つまり対世間の作者が多いからである。誰に読んで貰はなくとも、世間に見て貰はなくつても、自分の持つたものを出す、唯出すと言つたやうな作がないのも矢張そのためである。余り好い空気ではないと思ふ。

外国の借着


 外国の思想を捨て、外国の借着を捨て、外国のコンポジシヨンを捨て、外国の表現を捨てゝ了はなければ――幣履へいりのやうに惜し気もなく捨てゝ了はなければ、決して本当の、独創の日本の文学は生れて来ない。
 新しい文学のあつてから、既に五六十年を通過した。作者の群もかなりに年を取つた。もう、本当に、日本人、日本人の生活が書けても好かりさうなものだ。しかし、さうしたものが尠い。矢張、新しいといふことゝ、気がきいてゐるといふことと、表現の如何と、技巧の如何とに捉へられてゐる。現に、さういふ自分などもその群に洩れない。情けないことである。

新時代といふこと


 あとからあとへと人間が生れて来る。新しい時代がつゞいて来る。そしてさういふ人達は前の時代の人達の経験したり理解したりした形とまるで没交渉で進んで来る。先の人の言つた利益ある言葉も、かれに取つては何でもない。かれ等は自分自身でやらなければ承知しない。そしてやつて見て、成ほど人間はかうだとわかつた時分には、もう死と相遠く隔ててゐない。この没交渉が、やつて見なければ承知が出来ないといふことが、人間の根本に横つてゐるのであるから、いくら世間を改良したいと言つても、その運動は極めて小さい波動しか起さない。百年に一寸進むか、千年に二寸進むかわからない。これは私が言ふまでもなく、あらゆる歴史が皆な証認しようにんしてゐる事実である。

社会改良


 ある人に言つた。『だから、しやうがない。社会改良とか民族改良とか云ふことは、好いことだが、根本から言ふと、さうしたことは、人間の本当の生活の上にいくらも役に立つてゐない。それよりは、寧ろその内部の改良を旨とすべきである。人間をして成るたけ早く、法則の許す限り早く、慧に達せしめるやうにすることが必要ではないか。経済の独立といふことも好いが、それも肝心だが、それより以上に、心の独立といふことをもつと鼓吹しなければならない』

全体の感じ


 作を批評するのに、全体を見ずに、其枝葉の巧拙ばかり言つてゐるやうなのは幼稚な批評である。作では、全体から受ける感じが一番大切である。読了後の心持が一番大切である。さうであるのに拘らず、読了後の感じを放つて置いて、其態度とか、技巧とか、表現とかに就いてのみ言つてゐる批評ほど煮え切らないものはない。

印象の種類


 最初に見た時に感ずる印象と、度々見たものに対する時に感ずる印象とでは、非常に差がある。前者は物を正当に見得るといふ点に於ては欠けるところがあつても、物を強くはつきり見得る形がある。後者はそれと反対で、物を烈しく強く見得ないやうな欠点があると共に、よく明かに物の真相を見得る。この二つは何方が芸術に多く役立つであらうか。後者か? 前者か? 作者の驚異と言つたやうな点に於ては、前者が多く役立つ。しかしはつきりと物の真相をつかんだものの眼からみれば、その驚異がちつとも驚異に感じられない。では後者の方が本当の芸術に役に立つかと言ふのに、これもさうばかりは言はれない。いくら物がわかつてゐても、フレツシユに感じられたものでなければ芸術としては価値が乏しい。この二つの見方に就いて私は常に惑ふ。

年齢


 それから私達の年輩になると、若い人達が平凡な恋や、生活や、感じや、さういふものを大袈裟おほげさに書いてゐるものは見るに堪へない。馬鹿々々しくなつて来る。いつまでこんな若い者の相手はしてゐられないといふ気がして来る。それと同じやうに、若い人達は、私達の書いたものを見て、何うしてかう熱に乏しいんだらう、何うしてかう老成めいた心持ばかりを書くんだらうと言ふだらう。またそれに伴つて反抗したくなるであらう。これは一体何うしたことか。止むを得ない年齢の相違と言つてすまして了へば、それで話はお終ひだが、又、世間では大抵それですましてゐるが、何うもそれでは物足らない。私達はもつと若い人達の心を理解してやらなければならないし、若い人達もまたもつと私達の心を理解するやうに力めなければならない。でなくつては、世間の平凡な老人と若者になつて了ふ。苟も芸術を旨とするものは、そんなことであつてはならない。

反抗


 ある青年は私に言つた。『私達の生活は反抗で生きてゐる。反抗がなくなればとても生きてゐられない』私は言つた。『馬鹿をお言ひなさい。人間は反抗などで生きてゐられるものではない。その反抗は、君の持つた反抗は、何から起るかと言ふに、対世間から起る。世間の圧迫から起る。知らないために生じて来る恐怖から起る。そしてともすると、その反抗は遂にその生命をさへ亡ぼして了ふことがある。何故、君は対世間の心を突破しないのか。また、何故、君は世間の圧迫を此方から押してやるやうなぎようをしないのか。何故、無所畏むしよゐを行しないのか。反抗ではなしに、人間には互に信ずるといふ根本性がある。信ずるものに対しては、いかなる疑惑も、いかなる悪魔もその力を揮ふことが出来ない。さうすれば我の中に世界の人間がある。芥子けしの中に須弥山しゆみせんがあるのである。反抗が生命だ…などと、馬鹿をお言ひなさい』かう言つて私は席を立つた。

自信他信


 みずから信ぜずして、いづくんぞ他を信ずることを得んである。また自からをも信ずることを得ずして、いづくんぞ他をして我を信ぜしむることを得んである。欺かるゝことを恐るゝ勿れ、売らるゝことを恐るゝ勿れ、欺くものは欺き、そのものが欺かうとしたものには当らずに、却つて欺く者を射すであらう。売るものもまた然りである。
 しかしこの自ら信ずるの力を私達は何処から得来るか。難問題はそこに横はつてゐるのである。

放言


 文壇の雑評家は、よく人を葬るといふことを言ふ。誰々はもう葬つても好い時分だとか、奴ももう葬られたとか、現に、私などもよくさう言はれるが、これほど不謹慎な放言はないと思ふ。一体誰が誰を葬るのか、文壇が葬むるのか、世間が葬むるのか、文壇なら、世間なら、そんなものには、箇人こじんを葬る資格がない。資格がないどころか、私達はさういふものから常に超越しやうと心がけてゐるのである。否、現に、芸術を旨としてゐる人達は、既にさういふものから何等かの超越をなしつゝあるのである。そしてその上に立つて無明の世間を導いてやらうと思つてゐるのである。また世間の無明の苦しみをその世間の無明の徒のために苦しんでやつてゐるのである。さうした世間が、文壇が何うしてかれを葬る力があるのか。もしまたこれが文壇でもなく、世間でもなければ、そこに始めて言つた者と言はれた者との箇々の関係が始まるのである。互に打つなりなぐるなりすべきである。

自他


 自己が他にあり、他が自己にある形が面白い。箇人の言つたまた書いたものは、皆な万人に徹するやうに出来てゐるのだから面白い。好いものは好いやうに、わるいものはわるいやうに、……また卑しいものは卑しいやうに……。箇人の根本は万人の根本に連つてゐる。げんとして連つてゐる。だから何と言ふ必要はないのである。従つて評判の好いといふことが却つてその人の声価を落したり、罵評の多いと言ふことが、却つてその人を価値づけたりしてゐる。罵るも褒むるも実は同じ心理である。何等かの対照にされた形は、その者が或者に力を波及させてゐるのを語つてゐるのである。

リズム


 春は来た。花と、花にそゝぐ雨と、静かな蛙の声と、野にさへづる雲雀の唄と、塵埃を捲きあげる風とを持つて……。または花見る人の群と、雑沓する電車とを持つて……。毎年同じことを同じやうにして、そしてすこしも退屈を感じない心の形が不思議だ。
 人間ほど忘れつぽいものはない。五十年生きてゐても、春は何うして来るか、何を持つて来るか、何うしたリズムを持つてやつて来るか、さうしたことは少しも知らない。そして唯花が咲くと、花が咲いたと言つて喜び楽しんでゐる。雨が降ると、生憎あいにくな雨だ、これでは花もだいなしだと言つてゐる。三十年前に見たり聞いたりした形と些しも違はない。矢張人は刹那の現象にのみ逐はれて生きて行つてゐる。考へようともしない。自己の完成を高調しながらも、自分のやつたことを取入れて、内容を豊富にしようと心がける人は非常に尠い。不思議な気がする。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「毒と薬」耕文堂
   1918(大正7)年11月5日
初出:「文章世界 第十三巻第五号」
   1918(大正7)年5月1日
※初出時の表題は「窓前の海棠」です。
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2019年5月28日作成
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