月明夜々

田山録弥




         ×
 この頃の文壇の傾向は全く技巧的になつた。わるい意味に於ての一昔以前への復帰である。宇野氏の作物のごとき、芥川氏の作物の如き――。
         ×
 技巧をもつて人を惹きつけるといふことも、さう楽なことではないけれど、作者自身から言つて、さうしたことに倦む時が来ないであらうか。もつと本当のことを求むる心――自己をそのまゝ出さずにゐられないやうな要求を心に感じて来ることはないであらうか。或はさうした技巧家は、その心すべてが技巧そのものになつて了つてゐるので、さうした要求は竟に起すことがなくて、すんで了ふのであらうか。
         ×
 常に自己ばかりを問題にしてゐる人々、自己のことは全く棚に上げて置いて、他の世界即ちお話の世界にのみ生きてゐる人々の別を私は考へずにはゐられない。何故なら、かうしたところから、人生派と芸術派の区別が起つて来てゐるから。技巧派と内容派の区別が萠して来てゐるから――。
         ×
 自己ばかりを問題にしてゐる人も始末に困るが、芸術ばかりに没頭して、それより他に人生がないやうに思つてゐるものも私には余り賛成が出来ない。矢張此処にも有にして無、無にして有、自己にして自己にあらず、芸術家にして芸術家にあらずといふところがなければならないのを私は見る。
         ×
 言つたり、語つたり、書いたりするものよりも、更に一歩先きのもの――すぐれた芸術は常にそこに眼をつけてゐるものである。時に由つては、書いてあることとは丸で反対のことを表はさうとしてゐるやうな場合なども、すぐれた芸術には、よくあるものである。
         ×
 構図といふことは、誰にも大切なことである。つまり自然の構図――何うしてもさうなつて行かなければならない構図、さういふところに眼を着けてゐるものの此頃尠くなつたのは遺憾だ。構図はことに読後の気分に非常に影響するものである。構図にムラがあつたり、疎密があつたりすると、統一された感じは、全く破られて了ふものである。
 その次に、作に必要なのは線である。しかしそれは筋とは違ふ。細いプラチナのキラキラするやうな線もあれば、純金のイヤに太いケバケバした線もある。銅線もあれば、鉄線もある。紙に似た線もある。そして、これ等の線が一番先に読者にある感じを与へる。或は細い感じ、太い感じ、鋭い感じ、鈍い感じと言ふやうに――。そしてこの線がいかに作を貫いてゐるかといふことがその作の価値の十の八九を占める事となる、しかし読者にも多くはこの線を注意しないやうな人が多い。
         ×
 吉田氏の『熊のわな』はわるい作ではない。しかし、惜しいことにはこの構図だの、線だのと言ふものについて多く考へを致してゐない。珍しい客が出て来てから折角引寄せられた読者の心が、平凡な人生の一事実――単なる一事実の方に外れて行つたやうな心持がした。寧ろ作者はこの客の訪問をも、単にさうした淋しい高原生活の一小挿話として、もつと色を淡く書いて置くべきではなかつたか。そしてもつとその高原生活を描くべきではなかつたか。さうでなくつては、折角の前半の描写がそこだけ色が濃くなりすぎてゐるやうな気はしないだらうか。従つて作を貫いた線の方から言つても、その客が来たあたりから急に太く鈍くなつて行つて了つたやうに思はれた。
         ×
 宮地氏の『お千代と母』をゾラの作に似てゐるやうに上司君は言つてゐたが、それはほんの上つ面――似てると言へば取材の一部が似てゐる位なものでゾラらしい細かい写実も何もない。また、社会に反抗したやうな心持もない。それにゾラはもつと神経過敏でもある。
         ×
 無から有へ――正宗氏の作品に接する毎にいつもさうした期待の念が私には起つて来る。氏の持つた『無』が何うかして『有』である時の来るのを私は望まずにはゐられない。何う考へて見ても、氏の持つた『無』は単に無だけではないやうに私には思はれる。
 しかし、聡明といふことにも、人間はよく捉えられるものである、聡明であれば――智慧を余り磨けば、何うしても疑惑が多いやうになる。疑惑が多ければ、従つて皮肉になり、また従つて理解が本当でなくなつて行く。何うしても他の弱点にメスを入れるやうになる。そしてその結果として、弱点以上に他を見ることが出来なくなる。此処に至つて始めて信といふことの価値が生れて来るのである。
         ×
『早稲田文学』に出てゐる本間氏の議論の中に中沢臨川氏の無抵抗主義について言つてゐる条があるが、あれなどもまだ本当に自己がわかつてゐない好い証拠になる。あゝした心境では無抵抗主義などの心持がわかりやう筈がない。氏の言ふところによると悪人なるものが別に我々人間以外にあるものと思つてゐるらしい。そしてさういふものは飽迄撲滅しなければならないと思つてゐるらしい。そしてその悪人の悪なるものが本間氏自身の血の中にも混つてゐるといふことは、ちつとも考へてゐないやうだ。惜しむべきことだ。
 こればかりではない、他に、中村星湖氏がやはりこの中沢氏の無抵抗主義について言つてゐたのを何かで見たが、それも何だか要領を得ない言方をしてゐた。中沢氏が自身その場所でも断つて置いたやうに、その無抵抗主義と言ふことについては、『ベルトランド・ラツセルの立場』といふ一文中で、殊に詳しく言説してゐる。それを見ずに、単に無抵抗主義の条について云爾うんぬんしてゐたのは余りに不親切でもあり、また浅薄でもあると思つた。
         ×
 中沢氏の議論は、私には面白い。『ベルトランド・ラツセルの立場』などは、中でも殊にすぐれてゐると私は思つた。此のやうな真面目な、また学識ある批評家が、文壇と労働問題との中間に位置して、理解のある言説を立てゝゐるのは、真に喜ぶべきことではないか。
         ×
 前田晁氏の『秋の昼過ぎ』といふ作も、すぐれた好い短篇だつた。チエホフの作にでもありさうな気がした、むだがなく、それでゐてそれを貫いた線が変化に富み、読み終つてからも、ひろい人生の背景を人に思はせるやうなところがあつた。但し、一方にさういふ風にそつがないと共に何処かもう少し活気があつても好くはないか、余りに小心にすぎはしないか、欠点なんかあつても構はないから、もうすこし自由に振舞つて見たら何うかといふやうな気がした。
         ×
 表現の方法が旨い。兎に角、あそこ迄読者を引張るのがえらい。かうした批評をよくする人があるが、芸術は決して読者を引張るのが能ぢやない。読んでゐる中は、退屈で退屈で為方がなくつても、それでも立派な作はいくらもある。芸術家は決して高座の上の講釈師や落語家で甘んずべきではないのは元より言ふを待たないことである。
 表現の方法の巧拙を論ずる前に、先づその表現の方法の全身的であるか否かを第一にけみすべきではないか。第一義的であるか否かを検すべきではないか。いくら面白くつたつて作者の心や態度が第二義的に下つてゐては為方がないと言はなければならない。
         ×
 微かに伝つて来る木犀のかをり――日影が窓に明るくさして来た。
         ×
 島崎藤村氏の『新生』はいろいろな問題の起るべき作だと私は思ふ。努力の結果に成つた、すぐれた作と言ふだけでは決して満足してゐられない。また、ルソオの『懺悔』と同じ様に見て放つて置く訳にも行かない。言はうと思へば言ひたいことの非常に多くある作だ。また一方から言ふと、世間の多くの道徳家と伍して、そつとそれを他にかくして了ひたいやうな気のする作だ。
 それから、此作は私にかう言ふことを思はせた。島崎氏はよく自己を題材にするけれども、しかもその態度は決して人生派でなくて、飽まで芸術派だといふことだ。芸術のためにあらゆるものを犠牲にして顧みない――顧みないではあるまいが、顧みないと言はれても為方がないやうなところがあるのを私は見遁すことは出来なかつた。そしてそれが、その契点が、いろいろな問題の起る基因になるに相違ないと私は思ふ。
『新生』の主人公及びそのヒロインが達した心境、即ちそのヒロインが『創作』と称する部分、それも主人公の方は点頭かれるが、ヒロインの方は、私にはまだよく点頭けない。それは単なる本能ではないが本能に引ずられて其処まで行つただけではないかといふやうな気がする。そしてその本能に引摺られて行く二人の地獄を悲しまずにはゐられないと共に肯定すべからざるものを肯定した上にひとり手に起つて来た不自然な感じ、それを何処まで行つても取り去ることが出来ない。それが私には悲しい。
         ×
 私はある人に言つた。『兎に角面白い世の中になつて来た。いや、面白い世の中と言ふよりも好い世の中になつて来たと言ふべきだ。私達が学生であつた時代のことを考へると、かうも世の中は変つて来たかと思はれる。今では高位顕官のものは決して羨まれない。富貴も決して羨まれない。大臣も労働者も皆な同じ人間だといふ風になつて来た。差別や階級の観念がなくなつて、平等の気分が湧きあがるやうになつて来た。それに物価が高いとか何とか言ふけれど、昔と違つて今は働きさへすれば、決して餓えることのない時代になつた。これから較べると昔は働かうと思つても職を得られなくつて困つてゐたものが非常に多かつた。これで労働が八時間制にでもなれば、青年達もてんでに自分で働いて、そして十分に勉強して行くことが出来るやうになるといふものだ。独りで、誰れの世話にもならずに立派な人間になつて行くことが出来るといふものだ。結構なことだ。矢張、犠牲は無駄には払はれてゐないものだ……』
         ×
 静かな秋がまたやつて来た。
 夜などおそくまで机に向つてゐると、月が明るく硝子窓からさし込んで来て、胸がキイと緊まるやうな気がした。木犀が静かに私の室の中までも通つて来た。
 野分の後の野は、さぞ日影がさびしくあたりに照りわたるであらう。草や藪が夕風に私語くやうな音を立てるであらう。野川の水は美しく澄んで、夕焼の赤い雲を静かにそこに映すであらう。野にあくがれる時は来た。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房
   1923(大正12)年4月15日
初出:「文章世界 第十四巻第十一号」博文館
   1919(大正8)年11月1日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:hitsuji
2022年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード