現代と旋廻軸

田山録弥




 現代といふ言葉は永久にある言葉である。永久は現代の無限の連続である。一つづゝ離して見れば現代になり、つゞけて見れば永久になる。そしてこの現代が永久になつて行くところに、一種の転換とか輪廻とか言つたやうなものがある。その境は私はをりをり考へて見た。
 その転換状態はちよつと烈しい潮流の中に巴渦を巻いてゐるやうな形である。ぐるぐると廻つてゐる中に、いつとなくその現代がなくなつて了つて更に新しい現代が始まる。そして時の潮の波は無窮にそれを繰返して行つてゐるのである。
 この転換状態の旋廻軸を注意するとしないとで、その人生観、宇宙観は丸で変つた形を呈して来る、注意する方は連続的で、しない方は刹那的である。そしてその刹那的の見方が、今の現代には多く勢力を持つてゐるやうに私には思はれる。つまり現代の無限の堆積を見ずに、単に現代の現象に忠実ならんとする形である。従つて外面的である。
 しかし人間は竟に竟に外面的のみであり得ないものである、最後まで外面的であり得るものは頗る稀である。いつか人間はその旋廻軸に触れずには居ない。
 旋廻軸は、タイムではない。ないとは言へないが、時が主ではない。それを廻転させる力は別に根本にある。
 一たび旋廻軸に触れたものは、刹那的にのみ現代を見てはゐられなくなる。無限の現代の堆積の中に身を置かずにはゐられなくなる。現在に過去を発見すると共に、過去にもまた現在を発見する。過ぎ去つた時代が、単に過ぎ去つた時代でなくて、現在と同じ脈を打つて動いて行つてゐる時代であるといふことに気が附く。
 旋廻軸に触れた心持はさびしいものであると共に、おごそかな冷かな静かな落附いたものである。これに触れると、今まで前にのみ見立てゐた現代がぐるりとひつくり返しになつたやうな気がする。現代の表面にあらはれてゐたあらゆるものが、一つ一つその前に陥没して了ふ。快楽も、解剖も、希望も何も彼も……。
 流転は確かだが、進歩だか退歩だかわからない。かう言つた人がある。またある人は、『それはわからないが、しかし進歩するものとして考へなければならない。そこに人生の真の意義がある』と言つた。
 またある人は、『考へると、進歩なんて言へないかも知れないけれど、しかし一歩、一歩、ごくわづかだけれど、丁度陸地が目に見えないほど長い年月の間に陥没したり隆起したりするのと同じやうに矢張進歩して行つてゐるらしい。人間が人間の踏台となると共に、時代が時代の踏台になつてゐるからね』と言つて笑つた。
 人間に取つて、または所謂現代に取つて、最も都合の好いことは、旋廻軸に於ける無限の陥没または忘却、または消失である。積み上げた記録レコードも、研究も、智識も多くは利用されずに、新しい人、乃至新しい現代にうづめられたまゝに引継がれて行く。
『兎に角、自分の経験したものでなければ承知が出来ない。古人が何んなえらいことを言つてゐやうが、何んなすぐれた知識が研究されてゐやうが……』かうある人が言つた。そこが現代と現代とを無限に連続させて行く大切な鍵である。
 現代に執着する心はわが仏尊しといふ心に似てゐる。現代に重きを置く人は、いつか現代の旋廻軸に触れて転換して行くのを気附かずにゐる人である。
 汽車の出来ない中は、人間は蟻のやうにして歩いた。ランプの出来ない中は、人間は闇のやうな中に生活した。そして汽車が出来たりランプが出来たりすると、びつくりした。それがまた電話の世界になり、電車の世界になり、飛行機の世界にならうとしつゝある。そしてその度毎に人間は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)つた。しかし、それもほんのわづかで、人間はそれが当り前のものだとぢき思つて了つて、やがてもとの平静な Indifferent な状態にかへつて了ふ。その性が現代を永久にする旋廻軸の油となつて動いてゐるのである。
 自然の征服などゝいふ言葉があるが、これほど無意味な僣越な無知な言葉はあるまいと私は思ふ。自然の征服は自己の滅亡と同じ意味を成してゐる。
 新を標榜する現代に於ても、だから存外新しくないことが非常に多い。新しいと思つてその人はやつてゐても、ねつから新しくないことがよくある。私は大勢の新しい女を見た。そしてその新しい女が矢張平凡に自然に縛られて終つて行くのを見た。それは人間には新しいとか平凡とか言はれることよりももつと大切なことがあるからである。即ち如何なる形のもとにも生きなければならないといふことがあるからである。そして生きるといふことは平凡なことであるからである。
 戦争などでは、この旋廻軸といふことを非常に重いものにしてゐる。旋廻軸の如何に由つて、そのいくさは或は勝ち、或は負ける。従つて、作戦上では、この旋廻軸に一番すぐれた部隊を置く。
 私はある戦争で、敵のこの旋廻軸が非常に苦戦に陥つてゐるのを見たことがあつた。私はその時人生のある大きな事実に触れたやうな気がした。
 現代に生息しては、この旋廻軸のいかなる位置にするかを注意して見ることが最も肝要である。これを外面から見ても、内面から見ても……。
 今の日本は思潮界にも芸術界にも、余りに他に捉はれたやうな形ちがある。何うも根本の日本性といふことが何処にも完全に発揮されてゐない。婦人問題なぞももつと深く入つて行かなければならない。
 政治の方面などでも、多数政治の弊があまりに多すぎる。外交の機微は、人間と人間との間によこたはれる機微と同じものであるが、それを巧に発展させて行くやうな点が乏しい。
 現代には現代の心理がある。その心理の張弛ちやうち如何に由つて、その時代の価値が或は加はり或は減ずる。そしてこの現代心理は、皆な箇人の心理の無限の堆積から来てゐる。従つて現代を知らうと思ふには、その時代の箇性を詳しく知る必要がある。
 私の経て来た時代だけでも、今と三十年前とでは、その外部の変遷と推移とは沢山にある。卒然これに臨むと、別に変つたやうなことはないやうな気がしてゐるが、それは根本の不変性のところがあるからで、外面と外面から少し入つて行つたところはかなりに変つてゐると思ふ。自己を客観する心持や、自己を解剖台の上にのせて、平気で、むしろ得意な顔をして、それを見てゐるといふ心持や、更に進んで他の心理の罅隙こげきに三角形のくさびを持ち込んで行く心持や、さういふものが沢山に出て来た。世紀末の思想は日本にも随分色濃く入つて来た。
 この心持はわざと軽佻けいてう、浮薄、不徳などゝいふことを見得にするやうになつた。フンと言つてすました顔をして、もしくは、軽佻と人に言はれて、『軽佻も結構さ。軽佻に見られるためにやつてゐるんだから』といふやうなところも出て来た。Fine de siecle は初めは世紀末と人に言はれて、『世紀末、結構です』と言つたところにさういふ称号を認められるやうになつたが、それがいよ/\高じて、背景も何もない Fine de siecle になつて行つた。
 この思想が日本ではまだ十分に効果を示してゐるといふほどでもないが、思想としては、かなりに行きわたつてゐると私は思ふ。
 しかしこの思想も、自然主義の思想と共にもうすぎ去らうとしつゝある。別に、大きな効果ももたらさずに……。
 時代精神といふものは、大きなことをするものではあるが、根本から言つて見ると、大海の上に掀翻きんほんする波濤のやうなものである。美しいには美しいけれど、ぢき凪いだり静つたりして了ふものである。人生の海にも矢張底には時代を超越したものと根本的のものが潜んでゐる。
 そして、この根本的のものに向つて、人間はいつも突当る。何うすることも出来ないやうな心持になる。いくら乱れたものでも静まらずには居られないやうな境である。前に言つた旋廻軸はかういふところに深く根ざして、そして静かに流転の運動をつゞけてゐるのである。
 しかし海がなければ波が立たないと同じやうに、根本にしつかり触れた時代精神でなければ、決して一代を風靡ふうびするやうなすぐれた奇観を呈することは出来ない。自然主義も Fine de siecle も享楽主義も根本を失はない中は、生命を保つてゐたが、それが一度先にすゝみすぎたり、傍道にそれて行つたりすると、すつかりその力を失つて了ふ。
 だから、現代といふ言葉は、現代といふ字に重きを置かずに、現代と現代の永久化した永久とに目をつけて、その一致したところに深い注意を払はなければならない。そこに到つて始めて、現代の永久化して行く旋廻軸などゝいふ境が見えて来るのである。
 外国などでも、近頃は大分さういふジミな真面目な傾向に進んで来てゐる。いろいろな新しい思想の本家本元であるフランスなどでも、さういふ点に気の附いた運動が始まつてゐるらしい。つまりもつと真面目に考へなければいけないといふ風潮である。ロシアでも矢張さうだ。ドイツがこの大戦の結果に得る思想なども矢張さういふ傾向を帯びて来るに相違ない。
 タゴオルの唱道されるのは、一面は(全面とは言はない)矢張さういふところから来てゐるのであらう。しかし、タゴオルはあまりに東洋思想すぎる。西洋思想の科学的な、箇人的な、或は狂暴的なところをあまり多く度外視すぎる。余りにロマンチツクな気分を多く持ちすぎる。
 現代の永久化して行く点に、もう一つ箇人の年齢との関係と言ふことがある。そしてこれが旋廻軸にある非常な有効な働きをしてゐる。或は箇人の年齢といふ点からその運動が開始されて行つてゐるかと思はれるやうな理由がある。
 永久化された現代が、現代と相対してゐる形なども面白い。それはX光線のやうになつて、遠い現代から今の現代へと反映して来てゐる。縦にして横といふ問題がそこにも横つてゐるのを私は見る。
 古人と今人との心の接触は、矢張古代と近代との心の接触を成してゐる。二にして一、一にして二といふやうな微妙なところがある。生と死と同一であるといふやうな心持もそこから汲み取られる。
 旋廻軸の四面は丁度方位のやうで、或は正面、或は裏面、或は昼、或は夜、或は東、或は西と言ふ風になつてゐる。そしてこれが地球の軸と一緒になつてゐると思ふと、言ふに言はれない偉大な不可思議な自然の呼吸のリズムを感ぜずには居られない。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「毒と薬」耕文堂
   1918(大正7)年11月5日
初出:「文章世界 第十巻第八号」
   1915(大正4)年7月10日
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2021年4月27日作成
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