西鶴小論

田山録弥





 西鶴は大阪人ではあるけれども、それ以上に深い処を持つてゐると私は思ふ。西鶴が利己、打算、軽い遊び、さういふものゝ空気の中に一度は浸つた人であることは首肯かれる。又一方幇間はうかんらしい軽佻な気分の中にはしやぎ切つた人だとも思はれる。しかしそこに満足してゐることの出来る人ではなかつたことだけは確かである。かれは世間一般の混雑した事実の上に一歩高く身を置いて、或はなげき、或は悲しみ、或は笑つた。
 この地歩は渠は何処から得たであらうか、談林の俳句の洒脱豪放なところから得たであらうか。又は当時の元禄の時様に対してのかれの心の動揺から来たのであらうか。又はかれ自身が体感し経験したさまざまの悲喜劇から来たであらうか。すべてさういふ処から養はれたとは言ひ得るが、それ以上に渠の聡明が、渠の利害に浸りながらそれに捉はれない性情が、生の中に滅を有し、滅の中に生を有し、しやの中に有を存し、有の中に捨をした心境が、渠をして長い日本文学の中に、かれ独特の創造と姿と心とを刻むことが出来た。
 かれは大阪人らしい態度を持つて、深く生活に浸つてゐる。その態度は一面賢い商人の態度であつて、そしてまた所謂通人の態度である。しかし渠は決して商人の利己に捉えられてはゐない。通人の小さな円融観にも捉えられてゐない。かれは近松に比すれば非常に野暮である。非常に狭量である。大阪人であるから、賢くもあり、又利害の念に明るいけれども、又一面大阪人の持つた暗い城郭的の狭い自己を持つてゐて、ぱつと花の開いたやうな処がなかつた。
 かれの伝記は湮滅いんめつして多く伝はらない。ある人の研究に由ると、西鶴は理想も何もない唯俳諧の出来る町人である。又その時分その俳諧といふものは、おもに慰みこととして流行はやつたために、何処か幇間に近い処があつて、思ふに、酔生夢死、酒に浸り女に戯れて一生を終つた人であらう。かう言ふ風に言つてゐる。辞世『浮世の月見過しにけり末二年』あの俳句すら、のんきな一俳人者としての好い証拠として言はれてゐる。成ほどさういふ見方も一面の真理であるかも知れない。もし、完全な伝記が残つてゐたら、益々さうした批評を裏書するやうな事実が沢山にあつたかも知れない。それはかれの作物から発散するがそれを証拠立ててゐる。かれの作物の持つた臭気は、決して好い臭気ではない。時にはその余りに甚しいのに、鼻を蔽つて遁れ去りたいやうな気がする。然しそれだけ彼が面白おかしく浮世を遊び廻つた単なる幇間、又は単なる通人でなかつたことを立派に証拠立てゝゐるから面白いではないか。


 かれの作品は浮世草紙として世に知られてゐる。浮世草紙、実際好い名目だ。新聞雑誌のなかつた当時にあつては、確かにさう思はれたに相違ない。徳川幕府の知識階級の多くの人達が、『随筆』と言ふものを沢山に書いて残した。これは非常に多い。太田蜀山しよくさんなどには殊にそれが多い。漢文の大家である人達、和文を書くことをいさぎよしとしなかつた人達にも、さうした『随筆』があつた。この『随筆』には、一面人に示すと共に、自己の覚書きのやうなものであつた。西鶴の浮世草紙にも、かなりにさうした気分が存在してゐるのを私は見る。
 今の都新聞に掲載されてゐる三面の艶種つやだねの記事、毎日一つづゝ巧に書いてある花柳種の記事、あゝした気分が西鶴の文章の何処かにある。紅葉山人は曾てそこに気がついて、新聞の雑報を西鶴張りで巧みにやつて見やうと試みた事があつた。『あゝ行けば、三面の雑報だつて、立派な短編だ……。一週に一つでも好いから、実際種をさういふ風にあつかつて見たい』かう言つて、『読売』と『二六』とで二三やつて見た。しかし何うも旨く行かなかつた。
 紅葉山人は、西鶴の書いたものゝ中から『世相』といふことをいくらか発見した。そしてこれをゾラの写実主義にくつつけて見た。それがさういふ試みをやつて見やうとした原因である。しかしゾラは西鶴ほど『世相』に触れた作家ではなかつた。寧ろモウパツサンこそ却つてそれに似てゐるのであつた。
 西鶴が『世相』をあつかつた作家であるといふことは、今では誰も知らぬものはあるまい。西鶴の作は詩ではない。近松のやうな詩ではない。世相に細かく触れて行つたところから――世間の種々の悲喜劇に泣いたり笑つたりしたところから、あゝした一種の覚書が出来て行つたのだ。
 従つて、詩がないから、主観的要求がないから、かれの作は、ある意味に於いて、ありのまゝである。作者は唯見たり聞いたり感じたりしたことを書いた。そしてその主観があるものに捉えられてゐないがために、その作が割合に『世相』を明かに読者の前に描いて見せることが出来たのである。
 しかし、ある作家に取つては、『世相』などは何でもないことであつた、世相は中ぶらりんだ。話だ。物語だ。物の核心はもつとその奥にある。さういふものをいくら書いたつて仕方がない。非常に人生に触れたやうに見えて実は触れてゐない。かういふ意見を持つた作家、批評家がかなりにある。モウパツサンも曾てかういふ風に評されてゐるのを私は見たことがある。そしてこれも芸術の一真理であると思ふ。何故なら、実際『世相』だけでは、噂話だけでは、物語だけでは更に言ひ換えて、他だけでは、深く核心に触れて行くことの出来ないのは事実だから……。
 しかし、この他が何の位まで自と一致してゐるか。単なる自を、箇を掘つたに止つてゐやしないか。かういふ疑惑が『詩』を主にした作者の方に起つて来る。しかしこれはこゝに詳しく言ふ必要もない。今の場合では、この西鶴の『世相』が、他か、又は自他の関係が何の位まで深いか浅いかを研究して見れば好いのである。
 かれの作には自が割合に混沌としてゐるのを誰も見る。だから無論若い人達にはわからない。何事をも『詩』にし、『自己』にしなければ満足の出来ない若い人達には、唯、その中に書かれた事実をめづらしいと見る以外に別に深い共鳴を感じないに相違ない。しかし、かれの作は写真ではない。世間の悲喜劇に深く浸つた人達には、かれの書いたものが、単に噂話でなく、又物語ではなく、かれ自身が体感したものであるといふこと、その時代の一つの魂が烈しく動揺せられ攪乱かくらんせられたものであること、主観を脱落しなければならないまでに悶えたり冷笑したりしたものであることを発見することが出来る。
 かれの自は決して鈍い自、又は感じない自ではない。又利害に捉えられた自ではない。『詩』をこそその中に発見することは出来ないが、決して弱い自でない。飽まで物の真髄に触れて行かうとする自である。普通老人などに見る、又は通人などに見るあきらめから起つた消極的の自とは反対に強い強いところがある。かれは決して面白がつて物を書いてゐない。いつも暗いにがい顔をしてゐるのがかれの自である。
 これに比べると、近松はまるで正反対だ。近松の芸術は明るい。主観的、要求的である。泣いたり笑つたりしてゐる。かれは真よりも詩を求めてゐる。泣いてもその泣くのがすぐ拭はれて晴々しくなつて行く涕泣ていきうである。笑つてもくつぐつたい笑ひである、私は曾て『近松は女に持てた男、西鶴は持てなかつた男』と言つて評した。
 西鶴は『世相』を『詩』にするやうな楽な自を持つてゐなかつた。


 西鶴物と言へば、人はすぐ好色物を聯想する。好色物即ちかれの芸術のすべてだとさへ思はれてゐる。
 しかし、私はさうは思はない。私は好色物以外に、かれの真面目な、本当な、人に知れない理解を発見して、いつも驚愕の目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)つた。
『胸算用』あの中にはどんなに深いかれの悲痛がかくされてあるか。知恵あり且つ聡明なる大阪人の苦痛がかくされてあるか。かれはその中に『かね』を取扱つた。むづかしい『金』の悲劇を取扱つた。私達作者の願ひとしては、『女』と『金』とを十分に理解したい。『金』を唯物質と思つてゐるやうな心の簡単な境から離れて、金即心、金即女といふ境、更に進んで、物質即ち心と言つたやうな境、さういふ境に入つて行きたい。かう思つてゐても中々其処には行けない。『女』はまア書けても『金』は容易に描けない。何故なら、『女』には『詩』があるが、『金』には『詩』がないからである。『詩』のない『金』を描いて、それが『真』に達するといふことは容易なことではない。それを西鶴は『胸算用』『永代蔵』で、モウパツサンやチエホフが書いたもの以上に本当の『金』を書いた。
 近松の芸術には、『金』はあつても、要するに芝居で見る『金』だ。利用された『金』だ。梅川忠兵衛の『金』などは、決して深く心に喰ひ入つた『金』ではない。女即金と言つた『金』ではない。それから比べると『永代蔵』にある『拾つた金』の悲劇などは、深く心理に触れて行つてゐた。
 私の考では、日本の文壇で、『金』を本当に取扱つた作者は、かれを除いては他にないと思ふ。
『胸算用』の中にある大晦日の苦痛、あれは今でも我々の心に響いて来る。我々の生活を動かして来る。あらゆる善きもの、美しきもの、あらゆる思想、それが到る処で幻滅してゐる。ところに由つては、作者は余りに『世相』に即きすぎて物を浅く否定したところがないとは言はれないかも知れないけれど、しかしかれの否定は決して単なる否定ではない。また好奇心にかられたり何かした否定ではない。さうかと言つてあきらめから起る弱い否定でもない。滅を背景に持つた生である。
『胸算用』『永代蔵』その二書には、この他に『時』がかなりに多く書いてある。流転の人生である。運命の人生である。しかしその運命に就いても、かれは決して慨嘆の声を発してゐない。男らしく、それに踉いて行つてゐる。時には笑つて『時』に対してゐるかと思はれるやうなことすらある。
 或は日本ばかりではない。外国にもこれほど『金』を描いた作者はないかも知れない。ゾラに“Money”といふ作があるが、あれなども決して徹底してゐない。チエホフにもあるが、『胸算用』の中にある二三篇ほど思ひ切つてゐない。


『胸算用』『永代蔵』で『金』を描いたかれは、本朝若風俗、即ち『男色大鑑』『武道伝来記』に於て男色を書き『本朝二十不孝』又は『文反古ふみほうぐ[#ルビの「ふみほうぐ」は底本では「ふみほご」]』のあるものに於いて、不思議な因縁見たいなものを書いた。
 男色を書いたものとしては、今の外国でも西鶴ほど詳しくそれを研究し且つ問題にしたものはないさうである。この男色と言ふものは、イギリス、ドイツあたりでも非常に興味ある問題として取扱はれてゐるが、そのための会が出来たり、浩翰かうかんな書物が出版されたりしてゐるが、それでも『男色大鑑』あたりを見せると、非常に驚愕の眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)るといふことだ。
 それに、かれの女色を見る眼と男色を見る眼とを研究すると、それが余程違つた見方がしてあつた。男色には非常に多く、色濃く『武士道』が絡みつけられて書いてある。敵打かたきうちなどといふことが多くそれにからんでゐる。これにも『世相』から動かされて、そこから出発して行つたかれの芸術の傾向をうかゞふことが出来る。
 これに限らず、すべてかれの作は、当時の『世相』を明かに指すやうに見せてゐるが、中でも、『男色大鑑』では、武士の状態が巧みに描破されてあつた。『胸算用』『永代蔵』では町人を描き、此処では『武士』を描いて見せた。
『本朝二十不孝』これも私は非常に動かされた。『二十四孝』をもじつて『二十不孝』と題をつけたその態度に、浅薄な皮肉を感じるやうな気はしたが、しかし一面世に反抗した、世相に反抗した形がそれに見えてゐて面白かつた。孝と言ひ、不孝と言ふ。此生滅の両面であつて、実は同じである。その『あらはれ』が違ふばかりであつて、内部は同一現象である。何れが孝? 何れが不孝? かうした考が作者にあつたか何うかは知らぬけれど……或はさうした深い考はなかつたかも知れないけれど、兎に角『世相』に、『実際』に其根本を置いてゐるだけに、それだけ深く読者を首肯させた。
 それに、これには、多くの人物の運命を広い長い宇宙と人生との間に置いたやうなところがあつて、人間の生きたり死んだりして行く形、愛したり憎んだりの形、罪悪と罪悪との重り合ふ形、欺騙ぎへん、虚偽の種のいつか再び蘇つて行く形、更に進んで人間の性の悪の戦慄するに値ひする形、因縁話しに近いやうな形、さうしたさまざまの『真』が、『胸算用』や『男色大鑑』などで見たのとは違つて、更に深く読者に迫つて来るのであつた。
『この心、この醜化を敢てした心、これが宗教に行く道だ』かういふことを私は度々考へた。そして西鶴が何の位まで宗教に心を向けたかといふことを考へて見た。しかし、何処にもさうした心の現はれを私は発見することが出来なかつた。私は却つて其処に『虚無』に近いものを発見した。
 しかしこの『虚無』が宗教に近いことを証明してゐるのではないか。愛からも宗教に行けるが、憎からも行ける。そしてこの『虚無』といふことは『憎』の更に一歩を進めた境であつて、もう一歩で『生滅不二』の扉を開くことが出来るのである。これから比べると、近松の芸術には、宗教観らしいところがあるが、心中を涅槃ねはんにくつつけたやうなところがあるが、生中なまなかさういふ小乗に行かなかつたところに、却つてかれの勇者たり智者たるところがあるのであつて、這個しやこ仏性ぶつせいありと言はずには居られない。
 今残つてゐるかれの画像の法体は、単に俳諧師又は幇間と言ふ風に私には見ることは出来なかつた。
『文反古』に行くと、その因縁観が更に深い、好色物を書き、金を書き、商売を書き武士を書いた渠は、此処に来ると三世因縁と言つたやうな不知不識界に対する戦慄を示してゐる。女房を十数人取替へた男の悲劇、鳥の眼をむき出しにした武士の話、それを読んで、誰か深い深い不可思議に捉たれずにゐる者があらう。死ぬに死なれず、生きるに生きられず、遂には仏に手を合はした人達が其処にも此処にもゐる。お七を書き、おさん茂右衛門を書き、お夏清十郎を書き、女の一代を書いたかれがかうした境にも入つて行つたかと思ふと、短かい年月の中にかれがいかに多方面に心を注いで行つたかと言ふことが点頭かれる。
 西鶴を不真面目と言ひ、通人と言ひ、幇間と言ふ人の眼の盲いてゐることを私はなげかずには居られない。既に『虚無』である、従つて、西鶴は『箇』に住した作家だと言ふことが出来る。そして更に『箇』と『全』との間に横る扉と面した作者だと言ふことが出来る。


 好色物では、私は一番『一代女』と『置土産』とをすぐれてゐると思ふ。人に由ると、『五人女』が一番すぐれてゐるやうに言ふが、それは形式のことで、あゝいふ風にまとまつてゐる方面のみを見たことで、深さに於て、又は作者の体感の程度に於ては、『一代女』『置土産』に遠く及ばない。
 こゝに言はなければならないのは性慾のことである。人に由つては、この性慾を浅く取扱つたと言ふことに於て、又いくらか不真面目に取扱つたといふことに於て、西鶴を非難するものが沢山ある。その理由は矢張モウパツサンなどにも同じく通用されるやうである。そしてさういふ議論をする人は、きまつて性の聖愛といふことを言ふ。又年齢から言つて年の若い人が多い。放蕩文学など詰らんと言ふ人に多い。しかしさういふ人達に取つても、遊蕩文学は詰らんのではない。詰らんと言つて議論をするだけそれだけ詰るのである。価値を認めてゐるのである。内部に要求を感じてゐるのである。
 不真面目に取扱つた――これは考へて見なければならない。性慾には、性慾そのものには、根本的にさういふものがある。聖愛と言ひ得ると共に獣慾とも言はれ得る。非常に重大なことであつて、又非常に単純なものである。何うしてさうかと言ふと、さういふ風に出来てゐると言ふより外仕方がない。自然は聖愛にして置かなければならない時には聖愛にし、獣慾にして置かなければならない時には獣慾にして置くのである。非常に余裕がつけてあるのである。つまり人間――自然の根本で、善いとかわるいとか美とか醜とかと言つて簡単に片付けて了ふことの出来ないものである。いやさう言つて片付けても好いが、それはその人の位置、年齢、知識などで片附けて了つただけで、さういふ人達をも猶容れて余りあるほどそれほど余裕がつけてあるのである。単に獣慾と片附けて了つた人も矢張同じだ。
 要するに、性慾は根本だ。生滅だ。不二だ。不可説だ。だから西鶴の描いた性慾が不真面目に見え、浮華に見えるのも仕方がない。私などにもさういふ風に見えた時があつた。その臭味の余りに烈しいのに鼻を蔽つたこともあつた。しかし、性慾には根本にさういふところがあるのであるから致し方がない。
 で、問題はさういふ扱方をする要があるかないかといふ問題になる。近松位のところで踏留ふみとまつてゐる方が芸術か、ツルゲネフ、ドオデヱ位のところに停滞して美化してゐるのが芸術か。又は若い時代の人のやうに、恋愛と性慾とを離して又はくつつけて(これは同じことだ)生の意義の方へ持つて行くのが芸術か、こゝに西鶴の好色物に対する見方が違つて来るのである。
 西鶴の好色物は恋愛を獣慾として見てゐると言はれてゐる。しかし私はさうは思はない。西鶴は獣慾とも見てゐなければ、聖愛とも見てゐない。それを一緒にしてゐる。又全く虚無にしてゐる。重くも見てゐれば軽くも見てゐる。私は始めは、西鶴よりもモウパツサンなどの方が深く性慾を見てゐると思つたが、今では決してさうは思はない。『一代女』などは世界にもあまりに多くないやうな産物である。『ベラミイ』は性慾がまだ社会を対照にしすぎてゐる。『女の一生』は開墾せざる女の初歩の性慾の一小悲劇である。『死の如く強し』は余りに小さくこだわつて執着した性慾だ。
 モウパツサンの中では、最後の作だけあつて、一番『ノウトル、クウル』が性慾の深いところに達してゐるが、(ある外国の批評家は、『ノウトル、クウル』は単に技巧だ、技巧を除いては何も無いと言つて評してゐたが、何といふ盲目だらう。トルストイもそれに近いことを言つてゐるが、『アンナカレニナ』の作者などには『一代女』のやうな深い性慾はとても書けない)それでも、『置土産』の中の一篇、又は『一代女』に見るやうな生滅の気分には達してゐない。
『一代女』の中に、老婆が五百羅漢を見て歩くところがある。あのシインなどは、若い心には、何だか拵へたやうな、不自然な結構のやうな気がするには相違ないが、あれが決してさうでない。単に面白半分に作者が、あそこを書いてゐるのでない。あそこに女が実によく出てゐるのである。又堕胎した大勢の児を幻に見る条があるが、あそこなどは殊に深い女の心が描いてある。心の不可思議を具体的にあらはして、人をして戦慄せしめずには置かないのである。
 性慾は尋常茶飯事だといふ。さういふものが既に尋常茶飯事でないのを示してゐる。又性慾は生死の淵だと言ふ。これがまだ生死の淵でないことを表はしてゐるのである。浅いやうで深く、深いやうで浅く。ある人には遊びになり、ある人には生死の問題になる。かういふ生滅の即不即の性慾の気分を西鶴ほど如実に描いたものはない。
 試みに『一代女』と『一代男』とを比べて考へて見る。作者はそこにも女としての性慾と、男としての性慾をかなりによく見てゐるのがわかる、『一代女』の五百羅漢はいかにも女の性慾の末である。『一代男』の島渡りはいかにも男の性慾の末である。
『一代女』は全体のトオンが消極的で受身になつてゐるのに反して、『一代男』は積極的で、男の『種を蒔く』といふ形を作者は十分に飲み込んでゐる。
『一代女』の方には、センチメンタルな調子がある。あくがれがあり、欺騙があり、全盛の得意があり、花のやうな栄華があり、つゞいて零落があり、悲劇があり、他力にすがるやうな処がある。これに反して、『一代男』には旅があり、女を玩弄する心持があり、何うでも好いといふやうな処があり、積極的でドシドシ出て行くやうなところがあり、洒落があり、道楽があり、遊びがある。『一代女』に見るやうな零落とか悲哀とかは描てない。
 それから『一代男』の方は、年齢が書いてあるに反して、『一代女』にはそれがないといふことも考へて見なければならない。
 しかし、もつと深く入つて行つて見ると、矢張男の書いた『一代女』と言ふやうな気がしないでもない。それは仕方がない。『一代男』がもつと迫真の度数に於てすぐれてゐても好いと思ふのは、私が男性であるからであつて、その反対に、『一代女』がよく描いてゐると思ふのは、私が女でないからかも知れないが、さういふところは確かにあると思ふが、しかし兎に角女をあゝしたところまで見たのは、その観察と理解とのいかにすぐれてゐるかといふことを証拠立てることが出来る。
『一代男』にしても、『一代女』にしても長篇であつて実は短編の累積である形も面白いと私は思ふ。
『一代女』の中では、お針の師匠をした時の話や、初めの方の国主大名の妾の話や、老いて若づくりして、作声つくりごゑして春をひさぐ条などが、面白い。


『一代男』と『一代女』との文章の書き方などについても非常に作者は注意してゐる。『一代男』の方はさつぱりしてゐる。『一代女』の方は絢爛の文字が使つてある。
『一代男』の中では、旅に出た世の介の気分がかなりに面白い。半ばはそれがその作の価値を占めてゐると言つて好い。年の若い放浪気分が二十五六から三十近くまであることをも作者が男性をよく見てゐる証である。遊びから段々本当の恋愛を感じて来てゐる気分も出てゐる。信濃の追分あたりのことを書いた条は非常にすぐれてゐる。牢の中の板を隔てゝ恋に落ちた形、それをつれて遁げた形、その女の死を悲む形なども面白い。それから越後の出雲崎の女郎屋の描写は、その時分のさまを眼のあたり見るやうに生々と書いてある。芭蕉の『奥の細道』の同じ場所に於ける記述などを比べて考へて見ると殊に対照の不思議を感じさせられる。それから『夢の太刀風』といふ条が、あゝした写生気分の中に突然雑つてゐるのも、決して意味のないことではない、あそこで作者は世の介の若さの真面目といふことを現はさうと心がけてゐるのである。
 旅から帰つて来てからでは、例の奥女中の条が好い、春画を見る条、つゞいてあのくさりかたびらの条、あれが滑稽に書いてあつて、そしてちつとも滑稽でない。その他いろいろ深く観察と理解とが到る処にかゞやいてゐるのを見る。
 それに、私の考へでは、西鶴はかなりの旅行家であつたらうと思ふ。大阪町人として、かれは船で各地を廻つて歩いたらしい。見物の旅ではなく商売の旅として……。或人に言はせると、そんなことはない、皆な聞き噛じりだと言ふけれど、私には何うもさうは思はれない。行つて見ないで、足その土地を踏まずしてあの室津や、瀬戸内海や、越後などの描写があゝいふ風に行くわけがない。それに面白いことには、主として大阪と往来した舟路の舟着のさまが描かれてあることである。その時分は和船で北国をぐるりと遠く廻つて行つた。北国の三国港、金石港かねいしみなと、それからぐるりと能登半島を廻つて、七尾、魚津、越後に入つて出雲崎、それから羽後の酒田港かういふ港々が絶えず船で大阪と結び附けられてあつた。酒田の栄えたのも、出雲崎の栄えたのも、さうした和船の出入港であつたためであつた。今日行つて見ても、北国には上方――殊に大阪情調が到る処に残つてゐるのを見る。金沢がさうだ、新潟がさうだ。酒田がさうだ。秋田がさうだ。能登がさうだ。関東、東北地方(太平洋)とは没交渉である大阪の気分が、ずつと裏日本一面にその勢力と感化とを及ぼしてゐる。『一代男』の中にもそれがちやんとあらはれてゐるのは、面白いことではないか。それに、西鶴には『一目玉鉾ひとめたまぼこ』などといふ著書がある。
 それに、西鶴の文章の難解であるといふことが、かれの元禄年代の実写であるためであることは注意しなければならない。かれは飽までも『箇』を研究してゐる。写生してゐる。描写してゐる。その時用ゐられた言葉は勿論、衣裳、流行、風俗、さういふものをすべてその作中に取り入れてゐる。『源氏物語』が藤原朝の言葉や気分のためにわからないと言ふが、西鶴はそれ以上である。地口、童謡、さういふものまでも巧に入れてある。であるから、かれの文章は容易に完全にはわからない。江戸文学をかなりに深く研究した人にもわからないことが沢山にある。従つてまたそれだけ多く元禄時代の歴史の参考になるやうな点が多い。近松などから比べるとそれがぐつと多い。
 兎に角、『一代男』は『一代女』と共に、性慾を描いた大きな作であるといふことが出来る。
 こゝで私は『置土産』について二三言ふ前に、徳川時代に於ける性慾小説の区別を少し言つて見たくなつた。近松は詩人だ、すべてを『詩』にし且つ美にした。西鶴と比較して論ずるには、余りに遠く離れすぎてゐるやうな気がする。馬琴の性慾に対する考へは、非常に狭い。且つ自由でない。三馬はこれを浅いこゝろで解釈してそれで満足してゐた。春水が一人やゝ性慾と言ふ事に就いて考へたらしいところがあるが――これも西鶴のやうに徹底して考へたのではなく、通俗を喜ばせる手段として玩弄的に書いたやうなところがあるが、それでも他の作家に比べると、余程写生の気分に富んでゐるのを私は見た。
 洒落本といふもの、あれなども春水と一緒にして論ずべきものだ。京伝、三馬、春水も書いてゐるが、あれが、西鶴の性慾描写、乃至性慾観と比べると余程程度が低くなつてゐる。好い加減である。吉原情調が、丁度今の放蕩文学者と言はれる人達の書いた情話位の程度にはあらはれてゐるが、それから先には少しも入つてゐない。考へてゐない。深く体感してゐない。
 しかし、この洒落本の作者から、『梅暦』は一歩群を抜いてゐることだけは確かだ。春水の作には、かなりに女がよく見てある。会話の写生の迫真の程度はさう細く深くはないが、流行に媚びた、色の舎利塩しやりゑんの沢山に入つてゐるものだとばかり言つて了ふことの出来ないところがあつた。面白がつてゐたり、通を振り廻して見たり、女に媚びてゐたりするやうな処がある為めに、西鶴の『一代女』のやうな深いところには入つて行けず、極めて世間にあり来りのものばかり書いてあるが、丁度モウパツサンと今一人何とか言ふ通俗作家との区別はあるが、それでも、洒落本作者のあの小さい写生よりもある性慾の気分を捉へてゐることだけは確かである。ドイツの訳に(Treu bis in Den Tod)といふ春水のものが出来てゐるが、あれは『梅暦』を訳したものか何うか知らないが、外国人に取つては春水の作は、不思議な創作であらねばならない。況んや西鶴に於てをや。


『置土産』は西鶴の遺稿だ。そしてまた『一代男』『一代女』以上にすぐれた短篇を其処に私は発見した。
 紅葉山人も言つた。『置土産は実に好い。文章も心持もすつかり枯れ切つてゐる。枯淡の中に絢爛を蔵してゐる。とてもあの真似は出来ない』
 実際私もさういふ気がする。かういふところまで西鶴は入つて行つたかと思はせる。『一代女』や『一代男』ではまだ性慾に執したところがあるが、『置土産』に行くと、ぐつと離れてゐる。さつぱりしてゐる。そこにある十種ほどの短篇には、恋の終、又は恋と人生、金と恋愛さういふことを主として題材にしてゐるがどれもこれも皆面白い。殊に草鞋銭わらじせんもなくなつて京から大阪までてく/\歩く男、妾を囲つてゐた男が急に太夫買を覚えて身代を棒にふる話、ことに棒振虫の一話などは、世の中のあらゆる甘酸をなめつくした人でなければ、ちよつと書くことの出来ないやうなものである。モウパツサン、チエホフの中にも、かうしたすぐれた短篇は容易に見出すことは出来なかつた。
『好色五人女』については、私は余り多くを言はなかつたが、しかしその中にも面白いものがあつた。おさん茂右衛門などは殊に好い。これを近松の同名の作に比べて考へて見ても、二人の相違がはつきりとわかつて来るであらうと思はれる。お七の話なども好い短篇だ。
 兎に角、西鶴は当時にあつては、非常に驚異の的であつたに相違なかつた。自然主義以上にその当時を動かしたものであつたに相違なかつた、外道げだうと呼ばれ、阿蘭陀西鶴と呼ばれたのも無理はなかつた。日本でもかういふ作家があるといふことは、どれほど日本民族に取つて力強いことであるか知れない。私に取つても一生かれの作は私の机辺から離るゝことはあるまいと思はれる。そしてかれ西鶴は、この事業を僅々十年足らずの月日でやつてのけた。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「毒と薬」耕文堂
   1918(大正7)年11月5日
初出:「早稲田文学 第百四十号」
   1917(大正6)年7月1日
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2019年8月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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