山と山との間である。雨が降つてゐる。かなり強く降つてゐる。汽車の窓から覗くと、谷川が凄じく音を立てゝ白く砕けて流れてゐるのが見える。汽車の速力は次第に緩くなつて、やがて山の腹のやうなところに行つて留つた。小さな停車場――ほつ立小屋のやうな停車場がそこにあつた。B達は下りた。
B達は以前からそこで下りたいとは思はないではなかつたが、この雨ではとても下りることは出来ないと思つてあきらめてゐた。だからもしY駅でかれ等の乗つてゐる二等室にその湯の瀬の旅舎の主人が乗つて来なかつたならば――それと名乗らなかつたならば、その
旅舎の主人は軍人上りで、元気で、頼りには十分になつたが、しかも下車した後では、Bは
B達はをりをり顔を見合せて笑つた。かれ等の心はぴつたりと合つた。かれ等はつらいとも、佗びしいとも、さびしいとも何とも思はなかつた。いつもは
否、かうした心持がなかつたならば、Bは決して女を伴れて旅になど出かけては来なかつたであらう。何うかしてひとつに――深いひとつの心に。かう思つてBはいつも女を伴れて旅に出かけた。現に、さつきも、さうしたことを予想せずには、湯の瀬の旅舎の主人の言葉も耳に入れなかつたに相違なかつた。それを思へばこそ――二人してその嶮しい山路を歩くことに興味を感じ、またそのすさまじい渓谷の向うに一夜を静かに過すに足りる湯の瀬の温泉のあることを知つたればこそかれ等はかうした草鞋穿きの徒歩をも敢てする心持になつたのであつた。
橋をわたつていよいよ向う側の細い路にかゝつた時にBは言つた。
「大丈夫かえ?」
「え、大丈夫ですとも――」
かの女は顧みて笑つた。
それは凄じい渓谷であつた。出水のためにいくらかは濁つてはゐるけれども、それでも谷川らしい感じを失はない水は、大きな岩に当つては砕け、当つては砕けた。始めの
「大丈夫?」
かの女はその身がそのやうに
「大丈夫だよ……。それよりもお前の方が心配だ。
「私は大丈夫!」かの女はかう言つて、割合に元気よく歩いて行つた。
路は絶えずすさまじく鳴り轟く水量の多い谷に添つて、
恋の悲劇といふことがBの胸に烈しく往来した。この渓谷の中に折重つて二人が屍となつても決して不思議はないやうにBには思はれた。否さうなるために、運命の神がわざ/\かうして谷にはめ込んだのだとすらかれには思はれた。かれ等はさうした酬ひを当然受けなければならないのではないか。それほどかれ等は罪深い体ではないか。あまりに過ぎた歓楽を求めすぎはしないか。またあまりに恐ろしい恋の玩弄をやつてゐはしないか。「貴様達のやうなエゴイスチツクな罪の深い奴等はひと思ひに死んで了へ!」と言つて頭の上から大きな岩が落ちて来はしないか。否、さういふことはないにしても、兎角人間はさうしたはめに陥るやうに出来てゐるものではないか。かう思ふと、Bは気が気でなかつた。かれはこの谷に入つて来たことをすつかり後悔した。
谷の曲り角はいくつあるか知れなかつた。かれ等はその度毎に胆を冷した。しかも平生歩きつけてゐる旅舎の主人は平気で二人の後れるのを待つたり、ある岩角に立留つてその渓のすぐれてゐるのを指し示したりなどしたが、Bにもそれは見事な渓谷であることはわかつたけれども、しかも今はそれどころではないやうな気がした。Bは一刻も早くこの谷を向うに出たいと思つた。
心配したところがたうとうやつて来た。それは他ではなかつた。
「大丈夫です。その石は動きも何にもしません」
かう旅舎の主人は言つたけれども、しかもその石――その尖つた石が其まゝ落ちでもした場合には、それこそそれを頼りにしたものは忽ち渓谷の鬼となつて了はなければならないのはわかり切つたことだつた。しかも今の場合、何うすることも出来なかつた。それが危険だからと言つてあとへ引返すわけにも行かなかつた。止むなく女は這うやうにしてその石に縋つた。Bはそのあとに続いた。
一方から落ちて来てゐる沢はかの女の白い足を半分ほど洗つた。
谷は益々迫つて、
「大丈夫かね?」
「大丈夫ですよ。それよりも貴方は?」
かう言つてかの女は振返つて笑つたけれども、次第に
いつか荒海の怒濤の中に泛んだ時には、「いくらじたばたしたつて駄目だ……。いくらいやでも今はこの自分に縋るより他に何うしやうもないだらう? ざまを見ろ!」こんな風に女に対し勝利の念に燃えることがあつたが、今ではBは夢にもさうしたことを思はなかつた。かれはやさしくやさしくなつて来てゐた。
橋のところがたうとうやつて来た。成ほど心配して来ただけあつて、輻射谷の水が危く橋を流さうとしてゐた。谷に落ちる水の音は凄じくあたりに響いて、折れ曲つた濁流の岩に当つて砕けるさまは、一目見ただけでわくわく戦へるばかりの光景をあたりに展げた。でも、橋の落ちてゐないのはかれ等に取つてせめてもの幸ひであつた。旅舎の主人は、「私のあとについていらつしやい。さうすれば大丈夫ですから……」かう言つて、半分以上水に浸つた石を拾ひ拾ひ、橋のある方へと渡つて行つた。かの女はそれに続いたが、小さな石を一つ踏み外して、横に倒れやうとした時には、あツと言つて思はず声を立てた。Bははつとした。万事休したかと思つた。ところが、神の助けか? 幸ひにもかの女の滑つたところに樹の枝が一つ出てゐた。かの女は力強くそれを握つた。で、辛うじて危うく毬のやうに谷に墜ちることから免れた。
「もう大丈夫です」
ほつと
「これからは、もうあんなところはありませんか?」
「
「もう、いくらもないでせう?」
「え、もう、湯の瀬まで十町とはありません!」
始めてB達はほつとした。生き返つたやうな気がした。ことにBに取つて忘れられないのは、かれ等の恋の絵巻が更にまた新たにかうした一巻を加へたことだつた。否、その恋が更に一層の色彩を濃かにしたことだつた。かの女の顔にも艱難を経て来たもののみが知ることの出来る恋の満足が
渓もいつか緩かになつて流れて行つてゐた。最早そこにはあの
旅舎の主人を迎へに出た若い細君や、女中や、番頭の顔がやがてそこに重り合つて見えてゐたが、あとから一緒に来た人達がお客様だと知れると、女中達は寄つてたかつて、谷につき出した方の二階へと伴れて行つた。Bはさう大して上等の普請ではなかつたけれども、兎に角新しく気持よく建てられた二階の欄干にその身を
「不思議な気がするわね……こんなところまで来ちやつて――」足を洗つてつゞいて入つて来たかの女は、かう言つて矢張嬉しさうにして、そのBのゐる欄干のところへ来て立つた。
「後悔したらう?」
「さうでもないけど……」
「でも、あの滑つた時には、はつと思つたね?」
「本当ねえ。あの時、あそこに樹の枝があつたから好いのねえ……」
かれ等はあたりを見廻した。それは川の岸の猫の額のやうなところを切り開いて、骨折つてこれだけのものにしたといふやうなところであつた。そこには小さな野菜畠、その下に低い篠笹の藪、その下には生洲らしい舟がかくれてゐて、その
「さびしいところね?」
「さうだね、よく来たね」かうした旅舎がその恋の絵巻の一枚になるといふことがかれ等を楽ませずには置かなかつた。かれ等は人に見えないやうにそつと手を握り合つた。
あたりの光景ばかりではなく、谷川が音を立てゝ緩かに流れてゐるのも、山が屏風のやうに近く廻つて聳えてゐるのも、
「お、蛍! 蛍!」闇の中を一つ二つ縫つて飛んで行つたのを見て、かれ等はめづらしさうにさう言つたが、いざ寝やうとして、厠から戻つて来た時には、Bは驚いたやうにして言つた。「大変な蛍だね。丸で花火のやうだよ」
「さう……そんなに沢山――」
「まア、行つて見てお出でよ」
かの女は出て行つたが、やがて戻つて来て、
「本当ねえ。綺麗ねえ。何とも言はれないわ。こんなに蛍がゐるのを見たことは、私、生れて始めてよ……。それに、不思議ね。よく見てゐると、蛍は皆な二つづゝ飛んでゐるのね。それに、中には負さつてゐるのもあるわ。だつて、ひとつで二つ光つてゐるのが中に交つてゐるんですもの……」
「矢張、恋の闇と言つたやうなわけなんだね?」
「さうね、屹度……。でなくつては、あんなに二つづゝ二つづゝ飛んでゐるわけはないんですもの……。不思議な気がするわねえ……?」
「だつて、為方がない。矢張生きてゐるものだもの――」
「それはさうね」
かう言つたが、かの女はまだ見足りないといふやうに、派手な長襦袢姿で縁側に出て、そのまゝそつと雨戸を半枚ほど明けた。暫くして、「ちよつと来て御覧なさい……綺麗よ」かう言ふ声がしたので、Bもそのまゝ立つて、そのかの女の覗いてゐるところに行つて並んで立つた。成ほどそれは見事であつた。闇を地にして、谷川の上に、樹に、草に、空に、一面に蛍の乱点してゐるのをかれも眼にした。
「ね、そら、皆な、二つづゝ飛んでゐるでせう? ね?」かう言つてかの女は白い顔を此方に見せた。蛍はそのすぐ近くを掠めるやうにして飛んで行つた。