山間の旅舎

田山録弥





 山と山との間である。雨が降つてゐる。かなり強く降つてゐる。汽車の窓から覗くと、谷川が凄じく音を立てゝ白く砕けて流れてゐるのが見える。汽車の速力は次第に緩くなつて、やがて山の腹のやうなところに行つて留つた。小さな停車場――ほつ立小屋のやうな停車場がそこにあつた。B達は下りた。
 B達は以前からそこで下りたいとは思はないではなかつたが、この雨ではとても下りることは出来ないと思つてあきらめてゐた。だからもしY駅でかれ等の乗つてゐる二等室にその湯の瀬の旅舎の主人が乗つて来なかつたならば――それと名乗らなかつたならば、その渓潭けいたんの美しさを説かなかつたならば、かれもその妻を谷の中に置いて来てゐるので、昨日きのふ今日の出水しゆつすゐで何処か通れなくなつてゐれば止むを得ないが、さうでなければ、何うしても行くつもりだと言はなかつたならば、B達はその名高い渓谷をそのまゝ通り越して、ずつと国境こくきやうを越して了つたに相違なかつた。否、一緒に連れ立つて来てゐるBの伴侶つれが、普通の女のやうに、さうした冒険に同意しなかつたならば、矢張その結果は同じことで、そのまゝお了ひになつて了つたであらうが、不思議にもかの女はB以上にそこに行くことに賛成した。Bの行くところなら、何んなところへでも行かずには置かないといふやうな心の熱さをすらかの女は見せて、「大丈夫ですとも、こちらが一緒に行つて下さるんですもの。行けなかつたら、途中から戻つて来れば好いぢやありませんか。折角、此処に来て、見ずに素通りして了つては、あとで思ひのこりになりますよ」かう言つてあべこべにかの女は勧めた。
 旅舎の主人は軍人上りで、元気で、頼りには十分になつたが、しかも下車した後では、Bは流石さすがに後悔せずにはゐられなかつた。停車場のそばの、これも矢張荒壁むき出しの休憩所で、かの女が浴衣ゆかたがけになつたり、帯や何かを信玄袋に入れて明日帰つて来るまでと言つてそこの爺に頼んだり、白足袋をそのまゝ草鞋穿わらぢばきになつたりするのを見ると、あまりに興に乗り過ぎて女の心を察しすぎなかつたといふやうにも考へられて、「大丈夫かなア!」と思はず口に出して言つたりなどした。しかしかうなつた上は、もはや何うすることも出来なかつた。「大したことはありませんよ、途中だつて――。橋のところがあるんですが、そこぐらゐなもんでせう」旅舎の主人はこんなことを言つて、番傘をひろげたまゝB達の先に立つた。


 B達はをりをり顔を見合せて笑つた。かれ等の心はぴつたりと合つた。かれ等はつらいとも、佗びしいとも、さびしいとも何とも思はなかつた。いつもは多勢おほぜいの人の群の中に、いやにじろじろと此方こつちを見る眼の中に、叮嚀に口をきく旅舎の人達の中にわるく皮肉になつたかれ等を見出すのが常であるのに――今はさういふものからすべて離れて、草を、木を、山村を、橋を、山から山へとむらがつて靡いて来る雲を、竹藪を、その竹藪の下を両方から二つの川が丁字形をなして落ちて来るのをかれ等は同じ眼で同じやうに眺めつゝ歩いた。今こそはBにも他の女がないと同時にかの女にも他の男がなかつた。それだけでもBは嬉しいやうな気がした。
 否、かうした心持がなかつたならば、Bは決して女を伴れて旅になど出かけては来なかつたであらう。何うかしてひとつに――深いひとつの心に。かう思つてBはいつも女を伴れて旅に出かけた。現に、さつきも、さうしたことを予想せずには、湯の瀬の旅舎の主人の言葉も耳に入れなかつたに相違なかつた。それを思へばこそ――二人してその嶮しい山路を歩くことに興味を感じ、またそのすさまじい渓谷の向うに一夜を静かに過すに足りる湯の瀬の温泉のあることを知つたればこそかれ等はかうした草鞋穿きの徒歩をも敢てする心持になつたのであつた。
 橋をわたつていよいよ向う側の細い路にかゝつた時にBは言つた。
「大丈夫かえ?」
「え、大丈夫ですとも――」
 かの女は顧みて笑つた。
 それは凄じい渓谷であつた。出水のためにいくらかは濁つてはゐるけれども、それでも谷川らしい感じを失はない水は、大きな岩に当つては砕け、当つては砕けた。始めのうちこそ「好い景色ですね! 何うでせう? あの水は! あの岩は!」などと言つてゐたけれども、次第に谷の狭く迫つて行くにつれて、誰の口からも一言も出なくなつて行つた。路は岩から岩へとぐるりと廻るやうにしてつゞいて行つた。それに石が多かつた。尖つた石が多かつた。Bは保護するつもりで女のあとについて歩いて行つてゐたが、その白足袋を穿いた足が、草鞋のあらくれたで十文字にくゝられた足が、時々尖つた石に躓きかけるのを堪らない心持で見た。もし石に躓いた拍子に谷に落ちたらば! 真逆さまに激流の中に落ちたらば! それこそ万事休すである。Bとてそれを見てゐるには忍ぶまい。女の姿が毬のやうに激潭に落ちるのを眼にすると同時に、かれも屹度その身をそこに跳らせるに相違ないだらう。そして一度さうなつた以上、たとへ救ふつもりで飛び込んだにしても、とても何うすることも出来ないだらう。またそれを見てゐる湯の瀬の旅舎の主人にしても何うすることも出来ないだらう。手を空うして二つのしかばねになるのを見てゐるより他為方がないだらう。「来なければ好かつた。ちと冒険すぎた――」かう何遍となくBは思つた。
「大丈夫?」
 かの女はその身がそのやうにうしろから案じられてゐるのに拘らず、それよりも却つてBの体の肥つてゐるのを心配した。崖の曲り角になる度にかの女は立留つて声をかけた。
「大丈夫だよ……。それよりもお前の方が心配だ。なるたけ崖に崖にとつくやうにして徐かに歩いて行かなければ駄目だよ」
「私は大丈夫!」かの女はかう言つて、割合に元気よく歩いて行つた。
 路は絶えずすさまじく鳴り轟く水量の多い谷に添つて、わづかに崖を削り取つてこしらへたといふやうなところを掠めて通つて行つた。場所に由つては、此方こちらから向うに廻るために危い桟橋を寄せかけたやうなところさへあつた。そこを通る時には、Bは女の身をうしろから抱へるやうにした。


 恋の悲劇といふことがBの胸に烈しく往来した。この渓谷の中に折重つて二人が屍となつても決して不思議はないやうにBには思はれた。否さうなるために、運命の神がわざ/\かうして谷にはめ込んだのだとすらかれには思はれた。かれ等はさうした酬ひを当然受けなければならないのではないか。それほどかれ等は罪深い体ではないか。あまりに過ぎた歓楽を求めすぎはしないか。またあまりに恐ろしい恋の玩弄をやつてゐはしないか。「貴様達のやうなエゴイスチツクな罪の深い奴等はひと思ひに死んで了へ!」と言つて頭の上から大きな岩が落ちて来はしないか。否、さういふことはないにしても、兎角人間はさうしたはめに陥るやうに出来てゐるものではないか。かう思ふと、Bは気が気でなかつた。かれはこの谷に入つて来たことをすつかり後悔した。
 谷の曲り角はいくつあるか知れなかつた。かれ等はその度毎に胆を冷した。しかも平生歩きつけてゐる旅舎の主人は平気で二人の後れるのを待つたり、ある岩角に立留つてその渓のすぐれてゐるのを指し示したりなどしたが、Bにもそれは見事な渓谷であることはわかつたけれども、しかも今はそれどころではないやうな気がした。Bは一刻も早くこの谷を向うに出たいと思つた。
 心配したところがたうとうやつて来た。それは他ではなかつた。輻射谷ふくしやこくが溢れて、崖から下りて行つた路が一杯の水になつて、一方からは滝がすさまじく落ちてゐるのであつた。旅舎の主人はそこに行つて立つてゐたが、そのまゝ巧みに石を伝つて此方こちらから向うへとわたつて行つた。
「大丈夫です。その石は動きも何にもしません」
 かう旅舎の主人は言つたけれども、しかもその石――その尖つた石が其まゝ落ちでもした場合には、それこそそれを頼りにしたものは忽ち渓谷の鬼となつて了はなければならないのはわかり切つたことだつた。しかも今の場合、何うすることも出来なかつた。それが危険だからと言つてあとへ引返すわけにも行かなかつた。止むなく女は這うやうにしてその石に縋つた。Bはそのあとに続いた。
 一方から落ちて来てゐる沢はかの女の白い足を半分ほど洗つた。


 谷は益々迫つて、ふち水沫しぶきは崖の上をたどつて行く人達の衣を湿うるほすやうになつた。平日ならば成ほどこれはすぐれた山水であるに相違なかつた。紅葉の時の美観もそれと想像が出来た。しかし今はそれどころではなかつた。B達は行つても行つても尽きない崖の路の危く且つ遠いのに呆れた。
「大丈夫かね?」
「大丈夫ですよ。それよりも貴方は?」
 かう言つてかの女は振返つて笑つたけれども、次第につかれて来てゐることが、後悔しきつてゐるらしいさまが、それとなしにその顔やら態度やらにあらはれて見えた。それもその筈であつた。かの女は今までついぞかうした経験をしたことはなかつた。さうした岩山は、尖つた石は、茂り合つた草は、舞ひ下りて来る雲は、余りにかの女にはあらくれ過ぎた。かの女の蒼白い緊張した顔の表情を見る度に、Bはつらいつらい心になつた。
 いつか荒海の怒濤の中に泛んだ時には、「いくらじたばたしたつて駄目だ……。いくらいやでも今はこの自分に縋るより他に何うしやうもないだらう? ざまを見ろ!」こんな風に女に対し勝利の念に燃えることがあつたが、今ではBは夢にもさうしたことを思はなかつた。かれはやさしくやさしくなつて来てゐた。あくまで女を保護しなければならない責任を強く感じてゐた。
 橋のところがたうとうやつて来た。成ほど心配して来ただけあつて、輻射谷の水が危く橋を流さうとしてゐた。谷に落ちる水の音は凄じくあたりに響いて、折れ曲つた濁流の岩に当つて砕けるさまは、一目見ただけでわくわく戦へるばかりの光景をあたりに展げた。でも、橋の落ちてゐないのはかれ等に取つてせめてもの幸ひであつた。旅舎の主人は、「私のあとについていらつしやい。さうすれば大丈夫ですから……」かう言つて、半分以上水に浸つた石を拾ひ拾ひ、橋のある方へと渡つて行つた。かの女はそれに続いたが、小さな石を一つ踏み外して、横に倒れやうとした時には、あツと言つて思はず声を立てた。Bははつとした。万事休したかと思つた。ところが、神の助けか? 幸ひにもかの女の滑つたところに樹の枝が一つ出てゐた。かの女は力強くそれを握つた。で、辛うじて危うく毬のやうに谷に墜ちることから免れた。


「もう大丈夫です」
 ほつと呼吸いきをついたやうに旅舎の主人は言つた。
「これからは、もうあんなところはありませんか?」
平生ふだんなら、あそこだつて、何でもないんですけども……。今日は女の方には少し無理でした――」
「もう、いくらもないでせう?」
「え、もう、湯の瀬まで十町とはありません!」
 始めてB達はほつとした。生き返つたやうな気がした。ことにBに取つて忘れられないのは、かれ等の恋の絵巻が更にまた新たにかうした一巻を加へたことだつた。否、その恋が更に一層の色彩を濃かにしたことだつた。かの女の顔にも艱難を経て来たもののみが知ることの出来る恋の満足が歴々あり/\と覗かれた。
 渓もいつか緩かになつて流れて行つてゐた。最早そこにはあの屹立そそりたつた岩石もなかつた。あのすさまじい濁流もなかつた。危い崖の路もなかつた。渓は唯静かにのびやかに流れた。杉の森や、竹藪や、畠や、あかちやけた山の禿などが段々見え出して来た。さつきいくらか強く降り出して来てゐた雨も、今は小止みになつて、唯をりをり梢の雫がぼたぼたと衣の上に落ちるばかりになつた。次第に谷の岸が開けて、一二軒の人家をそこに発見した時には、B達は始めてほつと呼吸いきをついた。行きつくところにやつと行き着いたやうな気がした。
 旅舎の主人を迎へに出た若い細君や、女中や、番頭の顔がやがてそこに重り合つて見えてゐたが、あとから一緒に来た人達がお客様だと知れると、女中達は寄つてたかつて、谷につき出した方の二階へと伴れて行つた。Bはさう大して上等の普請ではなかつたけれども、兎に角新しく気持よく建てられた二階の欄干にその身をもたせ得たことを喜んだ。
「不思議な気がするわね……こんなところまで来ちやつて――」足を洗つてつゞいて入つて来たかの女は、かう言つて矢張嬉しさうにして、そのBのゐる欄干のところへ来て立つた。
「後悔したらう?」
「さうでもないけど……」
「でも、あの滑つた時には、はつと思つたね?」
「本当ねえ。あの時、あそこに樹の枝があつたから好いのねえ……」
 かれ等はあたりを見廻した。それは川の岸の猫の額のやうなところを切り開いて、骨折つてこれだけのものにしたといふやうなところであつた。そこには小さな野菜畠、その下に低い篠笹の藪、その下には生洲らしい舟がかくれてゐて、その此方こちらに鯉でも入つてゐるらしい大きな魚籃びくの川に浸けてあるのがそれと見えた。谷を跨いで小さな橋のかゝつてゐるのも見えた。
「さびしいところね?」
「さうだね、よく来たね」かうした旅舎がその恋の絵巻の一枚になるといふことがかれ等を楽ませずには置かなかつた。かれ等は人に見えないやうにそつと手を握り合つた。
 あたりの光景ばかりではなく、谷川が音を立てゝ緩かに流れてゐるのも、山が屏風のやうに近く廻つて聳えてゐるのも、なかばはわかし湯ではあるが湯槽はしつくひづくりで湯が綺麗に湛えられてあるのも、その湯の中に浸つたかの女の肌が白く美しく透き徹つて見えてゐたのも、旅舎の主人夫婦が遠来の二人づれを歓待するために頻りに料理を拵へてゐるのも、東京に一度行つたことがあるばかりではなく子供をひとりそこに生み落して置いて来たといふ色白の二十二三の女中が足のある田舎風の膳を運んで来たのも、大きな古風な時計が柱にかゝつてけたゝましい音を立てゝゐるのも、一匹の黒猫がぢつと無気味に此方こちらを見てゐたが何か見つけてやがて慌たゞしげに向うに走つて行つたのも、真鍮の丸い火鉢に焼き落ちのおきを十納に[#「十納に」はママ]一杯入れて女中の持つて来たのも、杉箸をそのまゝ火箸にしてゐるのも、何も彼も二人の恋心とひとつになつて、そこに楽しい巴渦うづを巻いてゐるやうにB達には見えた。「かういふところで暮したら苦労がなくつて好いわね。本当に好いわね……。いつそさうして了ひませうか」かの女は浴後のおつくりをすませた顔を此方こちらに見せて、のんきな調子でこんなことを言つて笑つた。


「お、蛍! 蛍!」闇の中を一つ二つ縫つて飛んで行つたのを見て、かれ等はめづらしさうにさう言つたが、いざ寝やうとして、厠から戻つて来た時には、Bは驚いたやうにして言つた。「大変な蛍だね。丸で花火のやうだよ」
「さう……そんなに沢山――」
「まア、行つて見てお出でよ」
 かの女は出て行つたが、やがて戻つて来て、
「本当ねえ。綺麗ねえ。何とも言はれないわ。こんなに蛍がゐるのを見たことは、私、生れて始めてよ……。それに、不思議ね。よく見てゐると、蛍は皆な二つづゝ飛んでゐるのね。それに、中には負さつてゐるのもあるわ。だつて、ひとつで二つ光つてゐるのが中に交つてゐるんですもの……」
「矢張、恋の闇と言つたやうなわけなんだね?」
「さうね、屹度……。でなくつては、あんなに二つづゝ二つづゝ飛んでゐるわけはないんですもの……。不思議な気がするわねえ……?」
「だつて、為方がない。矢張生きてゐるものだもの――」
「それはさうね」
 かう言つたが、かの女はまだ見足りないといふやうに、派手な長襦袢姿で縁側に出て、そのまゝそつと雨戸を半枚ほど明けた。暫くして、「ちよつと来て御覧なさい……綺麗よ」かう言ふ声がしたので、Bもそのまゝ立つて、そのかの女の覗いてゐるところに行つて並んで立つた。成ほどそれは見事であつた。闇を地にして、谷川の上に、樹に、草に、空に、一面に蛍の乱点してゐるのをかれも眼にした。
「ね、そら、皆な、二つづゝ飛んでゐるでせう? ね?」かう言つてかの女は白い顔を此方に見せた。蛍はそのすぐ近くを掠めるやうにして飛んで行つた。





底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
   1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
   1925(大正14)年11月10日
初出:「行楽 第一巻第一号(創刊号)」行楽社
   1925(大正14)年4月1日
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2020年4月28日作成
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