自然

田山録弥





 地震といふものも矢張自然のリズムの動き方のひとつであらう。その根本は私達の心のリズムに続いてゐるのであらう。止むに止まれない自然のあらはれであらう。


 天譴てんけんだとか、天譴でないとか、いろいろなことを言つてゐるが、それは各自の主観の問題だから、何うにでも感じられるであらう。事実、天譴と感じたものも沢山にあるだらう。そしてさう感じたものを、自分がさう感じないからと言つて、批評したりわる口を言つたりすることは出来ないだらう。もしさう言つて冷笑してゐるものがあらば、それは却つてその人の内容が見透されるであらう。さうかと言つて、私とても客観的に天譴を認めるものではないのは言ふまでもないが――。


 難かしい理窟はない。ちよつと考へて見てもすぐわかる。今まで贅沢をしてゐたものが着た切りの焼け出されになれば、余りに平生贅沢をしてゐたから、その報ひだぐらゐには思ふに違ひない。またさうは思はないまでにも、つまらぬ虚栄に捉へられてゐたといふぐらゐの後悔はする。また、平生わるいことをしてゐたり、心に暗い影を持つてゐたりしたものは、一層深い恐怖と戦慄とを感ずるに相違ない。そしてそれは何うすることも出来ない事実である。尠くともさういふ人達に取つては、今度の震災は天譴であつたに相違ない。


 また、今度のことで、自然といふものの恐しいことを説いたり、近づくことの出来ないものであることを言つたりしてゐるものもあつたが、さうは私は思はない。自然は何処まで行つても自然であるといふ気がする。自然は恐るべきものでもないが、さうかと言つて、あなどるべきものでもないといふ気がする。自然は慈母であると共に厳父である。否、さういふ考へ方をすべて超越してゐるのである。


 たしか蘇東坡そとうばの文章の中にあつたと思ふが、雷もいつ落ちるか知れないから権威があるので、あれが悪人だけを打つものときまつてゐたら、全くあの恐ろしさの価値が亡くなつて了うだらうと言つてゐたが――つまり端倪すべからざる所にあの雷の持つた権威があると言つてゐたが、実際その通りで、自然もはつきりと人間から見透されるやうになつて了つては、それこそもう終極である。何処まで行つても、何んなに科学が発達しても、竟に竟にその奥を、底を見透かされないところに自然の大きさがあり、深さがあり、権威があるのである。天譴のやうで、また天譴のやうでもなく、必然のやうでまた偶然のやうな端倪せられないあらはれの上にこそ本当の自然の権威があると言つて好いのである。此処にも私は主観と客観との深い深い交錯を思ふことが出来る。


 人間は自然に同化した状態にある時が一番安全で且つまた一番幸福であることを今度の震災に於てつくづく私は痛感した。


 人間は兎角自己の歩いて行く先だけを見て、その周囲や背後や頭上を見廻はさうとはしないものである。唯、一心に先へ先へとばかり進んで行くものである。そして今度の地震のやうなものに逢つて始めてびつくりして、恐れたり、戦慄おのゝいたりしてゐる。世界も人間もおしまひになつたかといふやうに吃驚びつくりしてゐる。これといふも畢竟人間が余りに目前のことに捉へられて、眼が眩んでゐたためではないか。平生もつと落附いて見て置かなければならないものを完全に見て置かなかつたためではないか。自然の中に生きてゐる人間でありながら、平生「自然」といふものについて少しも考へて置かなかつたといふことが、それが、さうした恐怖と戦慄を齎らして来たのではなかつたか。つまり、今度の地震なども昔、私達がよく言つた一種のデスイリユウジヨンではなかつたか。


『何んなに大きな恐ろしい災厄がやつて来ても、また何んなにつらい悲しい艱難が襲つて来ても、また何んなに立派な相互扶助の精神がさうした空気の中に醸されて来ても、それはほんの一時で、その時だけで、ぢき忘れられて行つて了うのではないか。ぢき元のまゝになつて行つて了うのではないか。別に人生は何うにもなりはしない』かう誰かが言つたが、それが即ち自然ではないか。その中にその大きな金剛不壊があるのではないか。だから、さういふ風に悲観せずに、それとひとつになることを我々は心がけなければならないのではないか。
 地震の時のやうなああした相互扶助の心の状態で人間は常にゐられるものではない。しかし常にはゐなくとも、ああいふ心の状態に時々人間が置かれるといふことは決して無意味なこととは私には思はれない。善いわるいは別として必ず何等かの反応があると信ずる。


 私はあるところでかういふことを言つた。『箇に徹する思想と、社会に重きを置く思想と、この二つが長い間平行して来た。ひとつは箇でなければ本当でないといふ思想、ひとつは社会がなければ箇は意味を成さないといふ思想――この二つの思想が平行して来た。しかし大戦以後、次第に後者が前者を圧した。今では箇の思想よりも社会中心の思想の方に重味が加つて来てゐる。これといふのも、あのドイツの強い箇が多勢の力に破壊された影響であらう。またあの生温いいやなイギリスの妥協が勝を占めた結果だらう。しかし、社会中心の思想は決して深く入つて行かない。否、社会中心の思想はある期間に達すると、必ず満足が出来なくなつて来る。必ずその中に箇を孕んで来る。箇でなければ何事もテキパキと出来ないといふ形になつて来る、そしてその時に圧せられた箇の思想がまた再び首をもたげて来るに相違ない――』

一〇


 何処まで行つても、社会と自己との問題だといふ気がせずにはゐられない。ゾラの小説が此頃復活して、翻訳などもあちこちから出るやうだが、あれなども決して理由のないことではあるまい。社会中心の思想がああいふものまでも復活させたのだらう。何故といふのに、ゾラは主として境遇といふものに重きを置いた。境遇がいかに人間(箇)を支配するか、社会がいかに人間(箇)の運命をつくり出すか、かれはよくさういふことを書いた。かれは決して箇を箇として書かなかつた。ユイスマンスのやうに。またかれは決して社会と箇とを対立させることを敢てしなかつた。イプセンのやうに。またかれは箇を描くにしても、その大きな箇が、または悪辣な箇が、いかに社会に影響を与へて行くかといふことに心を注いだ。決してフロオベルのやうに、またはゴンクウルのやうに、箇を自然の中に置かうとはしなかつた。さういふ意味に於て、かれは最初からソシアリストとしての素質を十分に持つてゐたといふことが出来た。

一一


 この「自然」といふことは、何処まで行つたつて大切だ。これを外にしては、人間には何もないと言つても好いくらゐだ。「自然」のやうに沈黙であること、また「自然」のやうに大胆であること、また「自然」のやうに端倪すべからざること、これさへわかれば、これさへ飲み込めれば、何事でも凝滞ぎやうたいするところなしに押して行くことが出来た。他の心をも看破することが出来れば、自己をもはつきりと知ることが出来る。それに「自然」はあらゆるものを容れた。思想も容れることが出来れば、描写も容れることが出来た。宗教も容れることが出来た。宗教は「自然」を理想的にし、積極的にし、主観的にしたやうなものであるといふことが出来た。

一二


 愛するとか、信ずるとかいふ心の境のすぐれて好いといふことは確かだ。何を除いても、その心持の純であるといふことは否定することは出来なかつた。しかし、それだけでは危険だといふ恐れはあるにはある。余りに主観的に過ぎるがために、また余りに周囲を見廻す余裕がないために、何うかすると足を踏み外す。そしてその結果は愛するのが却つて愛さない形になつたり、信ずるのが却つて信じない形になつたりする。矢張、さういふ深い心の境は、正宗の刀と同じく、立派な人が持てば好いけれども――二重に好いけれども、まだ本当に出来てゐないものが持てば、却つてそのために身を傷ける形になる。私も曾てさういふ境に入つて行つて見たことがあつたが、確かにそこは百花の乱れ開いてゐる極楽境であつた。そこでは観察といふものの必要を感じなかつた。また皮肉といふやうなものの必要をも認めなかつた。生死の境目などといふものもはつきりきめて置く必要がなかつた。奇蹟も生れて来た。しかし、その奇蹟が危険なのであつた。ついそれに誘はれる気分になつて行つた。有島君などの場合は、さういふ形ではなかつたかしら?
 愛するとか、信ずるとかいふ境から、もう一歩か二歩、我々は引返して来る必要があるのではないか。余りに主観的になり過ぎたのをもう少し、ほんの少し、客観的にする必要があるのではないか。それは宗教家のやうに、その微妙な境を別に何とも思はずに平気で通つてゐるものには、別に問題にはならないかも知れないが、私達に取つては――私達芸術をやるものに取つては――余りにそこは純に過ぎはしないか。清さに過ぎはしないか。美しさに過ぎはしないか。
 さうかと言つて、私はあの皮肉を、あの冷笑を、あの自嘲を、あのひねくれた観察を取るものではない。またあの平凡を、あの無信仰を、あの世間並を取るものではない。私は翼の生ふることを欲するものではない。さうかと言つて永久に地上を這つてゐる虫であることに満足するものではない。私はその中間にゐたい。「自然」といふものをしつかりつかんで、そして出来るだけそれと同化したい。心のリズムも何も彼もあの自然のリズムと同じでありたい。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「夜坐」金星堂
   1925(大正14)年6月20日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:hitsuji
2021年8月28日作成
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