社会劇と印象派といふ題を設けたけれど、別に深く研究した訳ではない、唯、此頃さういふことを考へたことがあつたから、此処では自分の貧しい経験といふやうなことを中心として少し述べて見たいと思ふ。
先づ社会劇といふことゝ自己と言ふことゝを言はなければならない。社会と自己との関係などいふことも言はねばならない。社会と自己との関係――これはかなりむづかしい問題であるが、先づ大体に言つて、個人が根本で、社会がその上を蔽つてゐるといふやうな形になつてゐると私は思ふ。個人だけでも好いのである。自己だけでもいゝのである。昔は、それなら絶海の中の孤島にゐて、それでも社会があるかなどゝ言ふことを言つたが、矢張あると思ふ。一人だから、社会にはなつてはゐないが、社会をつくるといふ心持は
ところが、ある人にとつてはさういふ境地ではゐられない。自己といふことが痛切に考へられて来る。さういふ人は社会よりも自然を対照にして考へて行くやうになつてゐる。自然を対照にして考へて見ると、さうしてじつとして社会といふ
それが更に進んで来ると、自己が種々な困難に逢つたり何かして、内省力が拡大されて、自然の一部なる自己、社会といふ風になつて来る。初めは社会の表面的な妥協に甘んじて、それが好いと思つてゐたのが、段々自己が覚醒して、これではいけないと言つて、自己に痛切なものを尊ぶやうになる。始めて自己を認めたのである。この時には、自己の対照にまだ社会がある。自己の自然で社会に面したといふ形がある。この時分に出来た作、乃至この時分に見た人生観は、であるから社会を問題にして居る。社会と自己とを
この対社会と社会劇といふことについて、もつと言つて見れば、どうしても芸術の根本義から言ふと所謂社会の要求とか、芝居を見るものゝ
要するに社会劇といふものに対する要求は、この社会のある妥協的の心持から、出た要求で、社会といふものを余程目的にしたものであるといふことがわかつて来る。自然よりも社会を重んじた形になつてゐるといふやうなものである。作者の方の立場から言つて見てもわかることだが、作者の心持が芸術的――貴族的――になつて行けば行くほど、社会よりも個人といふことを重んじて行くことになる。社会を問題にしてゐるやうな心境では――たとひ単に社会の為めとか何とかいふ低級のものでなくつても趣味とか感情とか心持とかいふところまで入つて行つても、社会を問題にしてゐる心持では何うも物足らない。今日の社会は昔の社会に比べて無論進んでゐる。個人的になつてもゐるし、また日本と西洋とを比べて見ると、西洋の方が余程開けて、一方社会を認めてゐながら一方個人を尊重するといふ風にはなつてゐるが、それでもまだ社会が個人と並行するやうにはなつて行つてゐない。余程わかつた人でも行つてゐない。況んや芸術家の心境に於てをやである。芸術家に取つて問題になることは、社会万般の問題といふことよりも、もつと問題にもならないやうな、断定的意味の加はらないやうな、社会のあらゆる対象を切りすてた、個人的のものに近いものになつて行くのである。対社会ではまだ個人が目覚めたばかりで、個人の持つた自然、更に大きく個人を包んだ自然が目覚めてゐない。勿論この点ではいろ/\異論もあらうし、もつと細かく量だの度数だのゝ点まで入つて行かなければならないけれど、兎に角、妥協、道徳、協同、同情などいふ上に成立つてゐる社会的の心持では、芸術家には甚だ物足りない訳なのである。個人が目覚めたばかりではまだ/\物足りない。私などが覚えてゐることで、余りに作物が作者本位に流れる、もつと社会をひろく書かなければならない。かういふ非難を
しかし、イブセンには対自然といふことよりも、対社会といふ方の分子が多いと私は思つてゐる。晩年の作によると、それでも余程対自然といふ方に動いて来てゐるが、芝居の組立やら何やらの都合で、カラクターといふものが勝手にこしらへられてあつた。その為めでもあらうか、作中の人物の持つた味に自然味が乏しい。イブセンの対自然は、自己から動いた対自然ではなくて、社会から動いて行つた対自然のやうな気持がする。ボルクマンなどを見ても其他の物を見てもさう思はれることが多い。自己よりも社会がつねに気になつた人だと言ふことが感じられる。一面から言へば、これがイブセンに社会劇のあつた所以で、それほど社会を問題にしてゐたから、あゝいふ熱烈な社会劇が出来たとも言へようが、しかし、これに比べると、トルストイなどの方がもつと社会から離れて自己に行つてをる。かれの書いた作中に出て来るカラクターは、皆な自然を持つた完全な自己が多い。底まで深く掘つてゐる。トルストイがすぐれた官能描写の境までに入つて行かれたのは、作者が社会などゝいふ程度に留つて満足してゐずに、ドシドシ自己を掘つて行つた結果である。Power of the Darkness(闇の力)などをイブセンのものに比較して見るとさういふことがよくわかつて来る。
私などでも、社会劇だの社会小説だのゝ要求の声をきくと、何ういふ風にしたらと考へて見ないことはない。社会を取扱つて見よう。自己の経験したことばかりなど書いてゐないで、もつと変つた社会も書いて見たいとも思ふ。しかし、対社会、対社会問題といふ心持よりも、といふ純な心持といふことがすぐ起つて来る。もつと自己といふ心持である。もつと痛切に自己に必要なものといふ要求が起つて来る。社会の微温い妥協生活は、さういふ材料となるといふ風には役にも立つが、現に成り立つてゐる社会の微温い標準と同じ標準に立つて作をしようといふ気は決して起らない。私達は社会を見てゐるのではないのである。人間を見てゐるのである。生々しい血のしたゝるやうな人間を見てゐるのである。もし社会を見てゐると言へば、その生々しい人間を透して社会を見てゐるのである。であるから、何んな社会を題材に用ゐるにしても、その社会を書くのではなくつて、その人間を書くといふことになつてをるのである。政治家なら、政治家としての個人、貴族なら貴族としての個人、相場師なら相場師としての個人、かういふことになつて来るのである。社会に触れよといふことをよくきくが、社会に触れるのではなくて、人間に触れよなのである。つまり自己を深く掘ると共に、人間を深く掘れといふことである。
そこで自己と人間といふことについて、更に一歩を進めた心境がひらけて来る。自己を掘つて行くと遂に人間といふことに到達する。自己の自然を離れて、今度は人間の自然を見るといふ心持になつて行くのである。社会、自己の自然、更に大きな自然――かうなつて行くのである。
さうなつて行くと、社会といふことなどは少しも眼中にないだらうと思ふ。人間の艱難を見て痛むなどゝいふ同情心も、社会的の慈善とか何とか言うものではなくて、他人の血の流れるのは自己の血の流れるのだといふ心持になつて来るだらうと思ふ。しかし、本当に其処に到達するには、他人の血の流れるのは自己の血の流れるのではないといふやうな解剖的な境地を通つて来ることの必要なのは、言ふを待たない。自己を深く掘ることが必要だといふのは、其処を云ふのである。自己からでなければ、決して人間に入つて行かれない。況んや自然をやである。
自己に深く入るといふことは、しかし学問ではない。学問もあるではあらうが、学問で到達することは出来まいと私は思ふ。また自分の自脈を
この心境は、烈しさ強さをつゝんだ静かな心ではないだらうか。またあらゆるものごとが飲込んだやうな心ではないだらうか。理解の上に築かれて、問題を問題としないやうな心ではないだらうか、問題といふやうな理知の世界ではなくつて、体全体がすぐ物に応ずるといふやうな直覚の世界ではないか。芸術家の心などゝいふものは、これに近いものだらうと私は思ふ。単に社会でなくつて、自然と人間とにふれた心である。動く時は動き、静まる時は静まる心である。一寸
しかしこれはフロオベルばかりにはかぎらない。誰でも苟も芸術家と云はれん人は皆なさういふ処に入つて行つたと思ふ。哲学者的になつて行つたツルゲネフのやうな人もあるし、ボドレールのやうな心持になつて行つた人もあるし、ヴエルレーヌのやうな心持になつた人もある。プラグマチストで、そしてサンボリストといつたやうな心境である。
ゴンクールは私の好きな作者である。自己でゐて、それで、人間と自然とを見てゐるところが何とも言はれない。その主観的な――客観的主観的の印象風な気分を感じてはさういふところから得て来たのだらうと私は思ふ。貴族的な、流俗を眼中に置かないやうな気分を何とも言はれず好いと思ふ。
このゴンクールが曾て一度劇を書いたことがある。その劇を私は読んではゐないが、しかし、その劇はかれの手法と感じと気分から言つて、一種の状態劇だつたらうと思ふ。
劇が社会劇でなければ、有効でないと言ふならば、社会といふ低級の程度に捉へられてゐるといふより外仕方がないと言ふならば、私どもはさうかと言つて引さがる他仕方がないが、自然の Part を切つて離したやうなものも出来ないことはないと思ふ。何うかしてこの状態劇と社会劇とを一致させたいと私はいつも考へる。しかし大抵な場合、そこに多くの一致点を私は認めることが出来ない。私はある人に言つた、『日常の平凡なシーンが芝居にならないものでせうか。実際のライフから切つて離したやうなシーンが芝居に出ると面白いんですが』かう私は言つた、これが出来れば、社会劇であつて同時に印象劇であることが出来るのである。単に社会問題とか社会の要求とか、社会の趣味とかさういふものに重きを置かずに、個人を根柢にした自然に近い芝居が出来るわけである。しかしこれはとても望むことの出来ないことであるといふ話である。
一体劇の性質から言ふと、方式上、一番自然に近くなければならないものが劇である。再現といふことは一番よく劇によつて行はれ得る可能性を持つてゐるのである。脚本は小説のやうに物語はいらない説明は入らない。すぐそのシーンに飛び込んで行くことが出来るやうになつてゐる。自然が印象的であるやうに劇も矢張印象的でなければならないものである。一幕、二幕と幕を切つたのは、実ライフに於いて一幕、二幕と幕を切つたやうでなければならないのである。しかし、これは余りに第一義的である。其間には、芝居を興行する上の困難、俳優の困難、観客の方から来る困難、いろ/\な困難があるに相違ない。また、再現といふやうな考ではなしに、娯楽とか芸とか言ふものゝ方に芝居を持つて行つて考へてゐる人も沢山にあるだらうが、兎に角、私は小説より何よりも、脚本が一番純な方式で自然を肉薄して行くことが出来るものであると考へてゐる。
つまり実際の人間、実際の人間生活をそのまゝ印象的に移したやうな芝居は出来ないだらうか。それは出来ない相談だらうか、私は劇の方には全くの素人であるし、何うも芝居を見ると、いつもさういふ風に考へられて仕方がないのである。