社会と自己

田山録弥




 社会と自己との問題はかなり複雑したものである。時には社会本位になつたり自己本位になつたりする。しかし、社会と自己との交渉が離るべからざるものであるのは、元より言ふを待たないことである。
『だツて、現に君達はこの社会に生きてゐるぢやないか。自分一人で生きてゐるやうなことを言つてゐるけれど、この社会がなかつたら、君は何うする!』かういふことを言ふ人がある。そんなことはわかり切つたことである。問題はそれではない。社会と自己との関係が離るべからざるものであるといふそのことではない。寧ろ社会が重いか、個人が重いかといふ問題である。そして、その軽重の度数の問題である。
 社会が重じられぬ時代もある。個人が重じられた時代もある。社会が個人をすつかりその中に包んで了つたやうな時代もあれば、個人が社会を改造して行つたやうな時代もある。その無数の度数が問題であるのである。社会と自己との交渉生活の状態を説く人は、其処まで行つて、解釈をして貰ひたいと思つてゐる。

 私がある処で演説した言葉の中に、『昔は社会の中に個人がゐた。今は個人の中に社会がゐるやうになつて来た。それは昔の簡単な英雄主義と言つたやうなものから言つたのではない。心理といふ立場から出て行つたものである。社会で妥協してゐる程度を押しつめて行けば、何うしても自己の心理に入つて行くより他に仕方がなくなる。自己の心理に社会を見出すより外に術がなくなる。今まで社会に縛られてゐた自己の心理に、却つて社会を見出すといふやうになる』
『能なんか、僕には没交渉だ。今まで見なかつたことが恥辱ぢやない。これから見やうとも思はない。芝居もさうだ』
 かういふ風な言ひ方をする人と、『文士なんと言ふものは何も知らんもんだ。能など丸で知らなかつたんだね』といふやうな言ひ方をする人と長い間議論をした。それを私は黙つて聞いてゐた。
『外物を征服しなくつては駄目だ。自己が外物に征服されては駄目だ』
 かう初の人は言つた。
 つまり社会の中に自己を見出すか、自己の中に社会を見出すかといふことである。私の考では、自己の中に社会を見出すといふことは、勇気に富んだ男らしいキビ/\した行き方である。現代の思潮は多くはそこに向つて渦を巻いてゐるやうである。自己と交渉のないものなんか世の中にあつてもなくつても好いといふやうなところまで進んで行つてゐる。

『しかし、今はさうでも、能が君に没交渉でなくなる時が来るかも知れない』
 かう私は其友達に言つた。
『それはわからない。来るかも知れない』
 つまり自己本位なのである。自己にさへ交渉があれば、それで好い。それで即ち足りるといふのである。この心は、長い間社会の煩瑣な圧迫の下に苦しんでゐて、そして、そこから覚めて勇ましく出て来た生々とした心である。
 そこには自己を振返つて見たといふ形がある。そしてその振り返つて見た半生の経験に基礎を据えてゐる。何んな経験であらうが、兎に角自分が真面目に通つて来た半生の経験であるといふ風に考へて来るのである。

『僕にも此頃、自覚といふことが本当にわかつて来たやうな気がしますよ』
 かういふ言葉を私は此頃よくあちこちで聞いた。『何だか、自分と言ふものがそつくり腹の底から浮み出して来たやうな気がしますね』かうある人は言つた。
『中年の恋――あれなどもわかつて来た』
 などゝいふのをも私は耳にした。
 ハウプトマン、マアテルリンク、ダンヌンチオなどがその頃言ひ合せたやうに中年の恋を別の題材にしたことを私は思ひ出してゐた。一に対する二、二に対する一といふ煩悶を描いたものである。生殖といふことまで達して行く恋の苦闘である。
 一つの峠をこえて、そこで休んでそして振返つて見るといふやうな心持で私はさういふ話を聞いてゐた。
 其席には中沢君だの沼波君だの吉江君だの前田君だのがゐた。久し振で、山から出て行つた私は、『東京に来るとさういふ話がすぐ出るんだね』と言つて笑つた。それには二つの意味があつた。進んで行く方の意味と、隠遁して考へてゐる方の意味と……。
 社会と自己との問題でも、社会の中にゐて、社会の万象に目や心や魂を捉へられてゐては、十分によく解釈することの出来ないものではないだらうか。見てゐれば、聞いてゐれば、何うしても心がそれに偏つて行く。それに捉へられて行く。山から出て行つた私は、新しい眼で世の中を見ることが出来るやうな気がした。
 其夜は雨が盛に降つてゐた。日比谷に近い灯の明るい料理屋で私達は酒を飲んでゐた。隣には政治家らしい客が頻に支那問題などを論じてゐた。
『天渓君はよく流行語をつくるね』
 などゝ誰かゞ言つた。
『さうだね、現実暴露、幻滅――』
 かう誰かゞ合せた。
『中年の恋はしかし君だね』
 と中沢君が笑つた。
 十一時頃になつてから、私達は雨を衝いてその家を出た。雨はサン/″\降つてゐる。風も加はつてゐる、電車を待つてゐる間に、インバネスの袖はぐつしより濡れて了ふほどの大降おほぶりであつた。

 山にゐて、四月よつき五月いつゝきも逢はずにゐた友達に逢つてかうして団欒して飲むといふことは楽しいことであると思つた。私はその翌日はもう山に来てゐた。

『モンナ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンナ』はマアテルリンクの作としては余り特色のないものである。史劇としては一寸面白いところがないでもないが、何うも全体がいやに拵へてある。人物などにも、生きて動いてゐる様なものがない。※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンナなども劇の上の人物で、実際から言ふとキヤラクターとしての価値がない。人物の上にも筋の上にも心理の上にも劇といふことをあまりに眼中に置き過ぎたやうなところがある。同じ活闘でも、イブセンの劇に見る活闘のやうに生々とした活闘でないやうな気がする。
 ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンナが敵将の許に赴くといふことが既に実際にうとい話である。何だか昔話と言つたやうなところがある。キドーと※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンナとブリンチ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルレとの三つの心の活闘も、心理上さう大して深いところまで行つてゐるとは思はれない。何処か拵へたやうな、言葉ばかりの上に乗せ上げられたといふやうな空疎なところがある。芝居として、舞台の上で見ては、変化があつて綺麗であるかも知れないが、根本的に人を首肯うなづかせるやうなまことの処がない。
 マアテルリンクの劇では、かういふものよりも、もつと『沈黙』とか『運命』とか言ふものゝよく顕はれた初期の作の方が特色に富んでゐる。それから言ふと、『内部』の方は純の純なるものである。この作などは、マアテルリンクでなくつては一寸出来ないと思はれるほど特色のあるものである。『侵入者』も好いが、それよりも『内部』や『タンタジールの死』の方が私は好きである。
『内部』は人形芝居の為めに書いたものださうだが、実際、人形で見せられたら面白いものだらうと思ふ。外から内を見たところなどは殊にさう思はれる。
 マアテルリンクが『沈黙』といふことに心眼を向けたのは、注意すべきことである。黙つて考へる。それより他に深く内部に入つて行くことが出来ないといふ処に達した点にかれの芸術の殆んどすべてがあると私は思つてゐる。『タンタジールの死』もさうである。『盲目』もさうである。『侵入者』もさうである。『内部』もさうである。内面の心理に深く入つて行つて、黙つて、さびしい顔をして運命といふやうなものを見てゐる。
 さういふ処から、かれの劇は生れた。むしろかれの劇の形式が生れた。今まで外面ばかりを見せてゐた劇の上に、内面を巧にひらいて見せたのがかれの劇の独創であらうと私は思つてゐる。そこがかれの劇作家としてのすぐれた位置であると思つてゐる。かれのミスチシズムは、内容から言つたら、或はさう大したものではないかも知らないが――思想や気分からさういふ処に達して行くのはさう大して難かしいとも思はないが、それを劇の形に応用して、それをある程度まで自然らしく見せたところを私は偉いと思つてゐる。
『アグラベエンとセソセツト』といふ劇などは、殊にさういふ長所を遺憾なく発揮してゐる。実際ならば、それは唯暗闘、黙闘の心的光景である。それをかれは対話を借りて舞台の上に現はしてゐる。そしてそれをある程度まで不自然と思はせないやうにしてゐる。小説で書くと、説明に終つて了ふところを、人物の対話と挙動とで顕はしてゐるので、見てゐるものゝ心がその心的光景に向つてぴつたりと合つて行つてゐる。『沈黙』といふことに深く思ひ入つた人でなければ、かうした境とかうした形式とに達することは容易に出来るものではない。
 モンナ、※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ンナなどは、それから比べると、芝居的に効果のあるやうに人物の心理が拵へてあるやうである。史劇――新しい史劇といふ以外には、さほど重きを置くに足りる作ではないと私は思つてゐる。

 徹底自然主義的の劇には、日常の光景が平気でつかつてある。舞台で大勢に見せるものであるから、いかに実際だからと言つて、そこには多少の斟酌しんしやくがあつたものである。そんな露骨なことは舞台にはのぼせられないぢやないか。かう言つて遠慮してゐたのである。それが、徹底自然主義的になつて行くとそんなことは平気で、むしろわざ/\さういふさまを見せてやれといふやうに、随分ひどい光景を舞台の上に見せてゐる。
 お産をする処を舞台に載せたのでも、かなりひどいが、その他にもひどいのが随分あるとは聞いてゐた。処が此頃など島村民蔵氏の訳した、Max Halbe の『少年』を読んで見た。随分ひどい光景が舞台に上せてあるのに私は驚いた。よくもかういふものを見せたものだと思つた位であつた。
 やゝ極端にすぎるとは思つたが、しかし思ひ切つてゐる処に非常に面白いところがある。純で、露骨で、そして色気がない。シユニツツレルの墺太利風おうすたりーふうの劇などゝ比べると、受けて来る感じがピリ/\してゐる。作者が何も彼も投げ出してゐる。言ふことは構はず言つて了ふといふ気分がある。
 かういふ傾向には、或は芸術的のやわらかな気分を損ふやうな、うつくしいものを強いてつゝ込んできたなくしたやうなところがあるかも知れないけれど、しかし、ふさがつてゐる水の流通をよくして、自然といふ大きな溝に流れ落ちさせてゐることだけは争はれない事実であると思ふ。
 いかにもハキ/\してゐる。言ふだけのことは、あと先を考へずにぐん/\言つてゐる。そこに自由な捉はれない好い気分がたゞよつてゐる。
 この劇などは、日本では、官憲がやかましくつて、到底演じられやうとは思はれないものである。しかし、演じて見たい芝居である。かういふ露骨な心持までをも観客に見せてやりたいやうな気がする。シユニツツレルの『恋愛三昧』などはこれから思ふと、甘い、若々しいものであると思ふ。

 シユニツツレルの作は私は多く読んでゐない。“Sterbene”は鴎外先生の訳で読んだ。『恋愛三昧』も矢張訳本で読んだ。私の考では、シユニツツレルはまだ何処か若々しいところのある作家だと思つた。もう五十の涎食えんしよくをすました作家とは一寸思はれないやうな作家である。
 “Sterbene”は面白い作である。いかにもわかい時医学生であつた人でもなければ書けないやうな作である。作に貫いた線にもすつきりしたところがあつて、全篇が立派な芸術品となつて、空間に浮いて漂つてゐる。しかしながら、私の考では、全体にまた何処か若々しいところがある。もつと突込んで行かなければ承知の出来ないやうなところがある。悲痛であるべき作品が悲痛でなかつたやうな気がする。
『恋愛三昧』の方では、私は更に若い作者の恋愛観を見た。これでは、作者の見方が女の心に偏りすぎてゐる。後の女の恋の心持に重を置きすぎてゐる。あとに残つた女の心持を重んじすぎてゐる。センチメンタルなところのある作である。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「毒と薬」耕文堂
   1918(大正7)年11月5日
初出:「太陽 第十九巻第十三号」
   1913(大正2)年10月1日
※初出時の表題は「スケツチ」です。
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2020年8月28日作成
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