箇々の対立までは、誰でも行けるが、それから箇々の融合まで行く路が容易でない。対立を痛感するといふことは、既にかなりに深く自己の心理の縦断をやつたことではあるが、この縦断から横断に移つて行く間に、越え難い大きな谷がある。そしてこの谷を渉るには殊に
縦断にも、無限の度数があり、また無限の波動のリズムがあつて、絶えず一起一伏してゐる。
平等と差別との混乱は、この縦断に由つてかなりに統一せられ、整理される。外面的でなくて内面的であり得る。しかし、この統一乃至整理が、差別を認めない境に至るまでには、幾度か差別に就いて
この難境を突破して、始めて箇々の対立といふことを痛感するのであるが、この対立から、完全に他の認め得たことから、または他の中に自己を見、自己の中に他を見るといふことから、次第に箇々の融合といふ境を庶幾することが出来た。
此処にAならばA、BならばBといふ人間がある。そのAなりBなりが、A、Bといふ箇の特色の方を色濃くせずに、寧ろ人間といふ全の方について重きを置くやうになるといふことは、この心理の自己の縦断といふ処から起つて来ることであつて、この境地に達することは、わけがないやうに見えて実は甚だ難かしい。我々は『われは人間なり』といふことを真に理解し、痛感すれば、それはもう立派な心理の縦断が出来てゐるのであるが、そこまで行つた人は甚だ尠い。世尊は、『われは人間なるが故に……』かう言つて、そこを高調してゐるが、この言葉には、実に立派な心理の縦断がその背景を成してゐることを私は思はずにはゐられない。
箇から全に行く……。これは誰でもさうらしい。しかし、箇に包まれて死ぬまで全が出て来ないやうな人もある。若い中から全をよく透徹して見ることが出来るやうな人がある。これは矢張、その人々の天分の差で、何うも為方がないやうなものであるが、しかし大きな法則は、矢張そのなかにリズムを刻んで、絶えず波打ちつゝ動いてゐるのは事実である。
私はあるところでかういふことを演説した。『私が、私の心の閲歴で平気でさらげ出して書くので、ある人は、私を目して厚顔無耻だと言つた。厚顔無耻! 私は考へた。実際厚顔無耻だらうか。否、否、決してさうではない。むしろ、私を目して厚顔無耻と言つた人が、却つて世間に捉られ、他に捉へられ、小さな箇を発足点とした社会道徳に捉へられてそしてさうしたことを言ふのである。自から自己の価値を小さくしてゐるのを知らないのである。かういふ人に限つて、自己の
この『人間なるが故に』との提唱は、しかし実は容易に出来ないものである。何故かと言ふのに無暗に、この『人間なるが故に』をふり廻すと、其人は往々にして、その痛感の度数乃至心の閲歴の背景如何に
人間なるが故に、人間は必ず一生の中に人間のすべきことをした。そしてそのしたといふことに由つて、種々なものを理解し、善事を理解し、また悪事を理解した。心と心との反響、気分と気分との交錯、ある処を圧したがために更にある処から押される形になるといふ原理、因果応報が
この『人間なるが故に』また、『人間のすることなるが故に』と高調すると、始めて心理は縦断から横断へと移つて行く。
大きな平等の道がそこにあらはれ出して来る。其処には金も富もない。功名も耻もない。また美も醜もない。否あつても無いと同じ心理を
然らば、ロシアのレニン一派のやつてゐるやうな横断は、何うかと言ふに、あれはまた『人間なるが故に』の提唱についての自覚乃至理解が深くないために、平凡な平等主義、主として外面の平等主義に堕してゐると思ふ、矢張また自己の心理の縦断を完全に行つてゐないのである。世間といふ平行線の中にゐて、一緒に立つて波を挙げてゐるといふ形である。単に知識として知つてゐるだけのことを横断に移したのみである。空想らしいところがあるのは止むを得ないではないか。
古人の説いた性善説などが思ひ出されて来ることも、私に取つては不思議な気がした。実際、古人も矢張我々と同じところを通つて来たのだ。我々と同じく苦しんだのだ。縦も横も考へたのだ。私などにしても、此頃は、『人間は悪事をしないものだ』とつく/″\思ふやうになつた。悪とは何ぞや。かう言ひたいと思ふ位であつた。我に悪なし、
しかし退いて考へて見ると、私などは随分この悪に苦しんで来た。自分の悪に、または他人の悪に……。
自己が信ずることが出来なくつて、何うして他人をして自己を信ぜしめることが出来やう。また自己が欲するものを捨て去らずして、何うして他人をして自己に欲することを捨て去らしめることが出来やう。これから思ふと、世尊が信にその根本を置いたのは、深い心理の縦断を痛感したためであるといふことがわかる。信ずることの出来なくなつた民の世を世尊は末法の世と言つてゐるではないか。
この縦断は、哲学の認識論、仏教の識論、かうしたところから入つて行つて、更にその上に普通には見ることの出来ない、または思ふことの出来ない、説明することの出来ない、ある異常の識を加へるやうになつた。そしてそこから平等の本当の道は開けた。
信ずるといふことの大きいことであるのを私は此頃つく/″\思つた。信の一字、以て生きるに足るとすら思つた。
しかし、私に取つては、他力から入つた信では物足らなかつた。それでも無論持たないよりは好いのであるが、何うもそれはぢき崩れ易い。倦み易い。詰らなくなり易い。何故と言へば、根本が確立してゐないからである。自己から築き上げて入つて行つたものでないからである。それには、何うしても、自分から発足して、世間にも思ふさま触れて、溺れず、捉へられずに、そこに細かい自己の心理の縦断を試みなければならない。
純な心、誠実な心、それがこの縦断をやるについて、何んなに有効に役立つて来たかといふことを私は考へずには居られない。誠実にして悔ゆるところなし――これだけで人間は十分だ。これを守本尊にしてゐれば、生活の道などは何でもなかつた。
法華経を読んで見ると、その経文を奉持し、
実際『爾等思ひ煩ふ勿れ』である。また『焚くほどは風が持て来る木の葉かな』である。信に由つて、私は私の苦しみから
民主思想なども、実を言ふと、この心理の縦断と横断の深いところから入つて行かなければ、千言万語も