地震の時

田山録弥




 すさまじい光景だ。人が行く。荷馬車が行く。乗合自動車が行く。鈴生になつてゐる電車が行く。路も歪んでゐる。樹も曲つてゐる。空も三角になつて見える。何うしても立体派の絵画といふ気がした。私は草鞋穿きに脚絆といふ姿で二食の結飯を脊負つて、焼跡をそつちから此方へと歩いた。

 自然の力は大きい。人間の拵へたものなどは何でもない。一応は誰でもさういふ気がするだらう? しかし夫は今の場合余りに抽象に過ぎる。さうは言ひたくない。それよりはむしろ、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)つて、この自然と人間とのいまはしい交錯をじつと見詰めてゐたい。何うしてかういふいたましい光景があるかを見詰めてゐたい。

 私はこの二三年、廃墟といふことを非常に考へた。人間の滅びて行くさま、栄華の破壊されて行くさま、人の心の空虚に帰して行くさま、さういふことに絶えず眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)つた。そしてその荒凉とした廃墟の中から再び新しい芽が出て行くさまを想像した。今、それが私の眼の前にある。夢でも空想でもなしに私の眼の前にある。この焼跡の中から萠え出して来る新しい芽を想像しながら私は灰燼の中を歩いた。
 一番悲惨だと思つたのは、無論、被服廠の焼跡だが、大川の岸は概して凄じい光景を呈してゐた。さういふ人達に取つては、その川は実に生死の境であつたのである。その川が一筋白く横はつてゐるために、何うすることも出来なかつたのである。私は到るところに船が焼けてその上に二三人の避難者の黒焦げになつて焼死してゐるのを眼にした。

 五日目に私は厩橋をわたつた。
 両国橋だけは落ちずに自動車でも何でも通るやうになつてゐたのであつたさうだけれども、私は本郷の方から行つたので、真直にそつちへと向つた。それにしても、何といふ凄じい光景だつたらう。何処を見渡しても焼野原で吹さらしの風が灰燼を飛ばして、眼も碌に明けては通れないといふありさまだつた。否、電線や電車の線は縦横に街上に焼け落ちてゐるので、注意しないと、すぐそれに引懸りさうになつた。楽山堂病院の角あたりからは、浅草の観音堂の焼残つたのがそれと指さゝれて見えた。
『厩橋は渡れるかしら?』それまでにも私は何遍となく訊いて見たが、誰もその真相を知つてゐるものはなかつた。巡査ですら、『何うなつてゐますかな……状況がひとつもわかりませんから……』などと言つた。ついその橋の側まで行つて見なければ、その本当のことはわからなかつた。
 忽ち私は群集の一列に並んでゐるのを、混雑した停車場などでをり/\見懸けると同じやうな状態で並んでゐるのを眼にした。橋は一人づゝしか通れないのであつた。見ると、向うから来るのと、此方から行くのとが遠く連つてゐるのがそれとはつきり指さゝれた。橋の袂には銃剣をつけた兵士が立つてゐた。
 向うからやつと渡つて来たものが、『まア、好かつた……丸で命懸けだ……』こんなことを言つてゐるので、私にも次第に橋の危ふく破壊されてゐるのがわかつて来た。私はいつそ大廻りをして両国橋の方へ行かうかとすら思つた。しかし既にさうした群集の一列の中にひとりになつた私は、折角骨折つて占め得た位置を捨て去るにも忍びなかつた。次第に私の番が近づいて来た。
 かうした危険を私はいつどこで経験したであらうか。私達は焼残つた幅三尺ばかりの瓦斯管の上を、それもをりをり壊れてぐらぐらしてゐる上を、大川の水が目眩めくばかりにキラキラ流れてゐる上を、手と足との平均を失つてそこから落ちたが最後命がなくなるのを覚悟しなければならないやうな上を、ところに由つては細い電線を、またところに由つては、大きな鉄の橋欄をたよりに一歩々々たどるやうにしてわたつて行かなければならないのであつた。ところがそれのみを命の綱と縋つて来た電線が、橋の中ほどのところで、ほつつり絶えて了つた時には、私は何うしやうかと思つた。それに、そのあたりには、青ぶくれになつた死骸が破壊された橋の桁に三つ四つも引懸つてゐるではないか。私はそれを渡り了るまで、殆ど生きた空がしなかつたことを思ひ起した。『えらい橋だな……』渡り了つた時私は思はずかう独語した。

『さうです……土手があつたから、私達は助かつたんです……。川と路と同じ高さになつてゐるところでは、大抵、焼死するか川に飛込むかしなければならなかつたのです……。私達は土手の下に追ひ詰められて、しまひには、水の中に首まで浸りました。さうですね。さうして何時間ゐましたかね? 尠くとも七八時間はゐましたらうね? お話しても何にもなりませんよ、さうさな?、あれは何時頃だつたらうな?、夜の九時頃だつたかな?、向う岸が一杯の火で凄まじい光景なんです。其時、あれでも百人位はゐましたらうかね。向う岸で助けて――助けてといふ声が聞えるのです。しかし何うすることも出来ません、舟もありません。此方も死ぬか生きるかです……。その中、その声も気勢もばつたりなくなつて了ひました。皆な死んだんだな!、かう思ふと、何とも言はれない気がしました。……』

 何も彼も皆な焼けた。柳光亭も深川亭も亀清も皆な焼けた。枕橋の八百松も焼けた。矢の倉の福井も焼けた。さうした焦土の中を大川だけがさびしく荒凉として流れてゐる。

 東京で旨い物を食はせる店も大抵は焼けた。鰻屋も殆ど全滅だ。前川も重箱も奴も神田川も竹葉もすべて焼けた。菓子屋も十軒店の田月、広小路の風月、浜町の湖月すべて皆焼けた。各地方の名物を集めた菊屋、山城屋、室伏などゝいふ家も焼けた。つくだ煮で有名な浅草茅町の鮒佐も焼けた。下谷の西黒門町にある最中で近頃売り出したうさぎやといふ家も焼けた。

 焼出された人達が皆な避難して来たので、山の手方面の雑沓は、何とも言はれない。こんなにも人間が東京にゐたかと思はれるくらゐである。そしてさういふ人達は男女を問はず、貴賤を問はず、すべて浴衣がけで、頬かぶりをしたり、尻からげをしたりしてゐる。此頃では、絽の羽織などを着て歩いてゐるものは滅多にない。焼跡で、大きな包を負つてゐるやうなものが多い。さういふ形から見ても、この震災の人心に及ぼした影響の大きいのがわかつた。
 路傍に出てゐる食物店も、明治の初年を私に繰返させるに十分であつた。牛めしやすいとんなどはもはや四十年も昔のものだ。私が十二三の頃東京の真中に出てゐた時のものだが、さういふものがたとへ一時とは言へかうして復活して来るとは不思議な気がする。矢張、いざとなると、あゝしたプレインなものになつて了ふのかといふ気がする。たしかにあれでも人間は生きてゐられる。
 焼跡を歩いてゐる中で、一番有難かつたのは、ところ/″\に撒水車の使用する井戸が残つてゐたことである。それは私ばかりではない、誰でもさう思つたに相違ない。その証拠にはそれのあるところには、何処も一杯にその人だかりがして、冷たい綺麗な水がその折れ曲つた鉄管から天の甘露でもあるやうに美しく流れ出してゐた。私は後には馴れて、爼橋外の撒水車の井戸のあるところに行きに帰りに寄つて、その鉄管に口をつけて、灰燼の中の炎熱に渇した咽喉をうるほすのを例とするやうになつた。そこの水は多い井戸の中でもすぐれて綺麗で且つ冷たかつたのであつた。

 時には私はかういふ中での性慾状態を頭に浮べて見たりした。
 人間はしかしそんなに弱いものではないと私は思つた。何んな中からでも、何んな悲惨な状態の中からでも、屹度新しい芽が生えた。新しい心が萠えた。新しい恋が培はれた。どんな状態でも――どんな惨な状態でも、平凡よりは好い。退屈よりは好い。腐つて行く贅沢よりは好い。





底本:「定本 花袋全集 第二十三巻」臨川書店
   1995(平成7)年3月10日発行
底本の親本:「花袋随筆」博文館
   1928(昭和3)年5月30日
初出:「週刊朝日 十月増刊」
   1923(大正12)年10月10日
※初出時の表題は「腐つてゆく贅沢よりは」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:津村田悟
2021年8月28日作成
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