自他の融合と言ふことに就いて、文壇には猶ほ深く考へなければならないことが多いと思ふ。自己の心理をいかに他に発見し、又他の心理をいかに自己に発見するかといふことは、芸術の標準を上げる上に於て、最も必要なことである。一度自分で体感したものを、もう一度他にひつくりかへして見るといふこと、自己の経験を他の中に発見するといふこと、またこれを大きくひろめて言へば、自然と自己とをいかに一致させるかといふこと、『箇』と『全』とをいかに融合させるかといふこと、この大問題は、文壇ではまだいくらも考へられてゐないやうに私には思はれた。
主観、客観の議論は、随分昔から続いて来たものだ。その即と不即とによつて作家の意見が違ひ、批評家の議論が異り、随分すつたもんだをやつて来たものだ。しかし、この議論はこれからもまだ長く続くであらう。人生のある間、芸術のある間、無限に続いて行くであらう。
私の創作の小さな経験で言つて見ても、努力と精進との、又は懊悩と煩悶との中心は、矢張この主客の融合乃至即不即と言つたやうな箇所に存してゐたことを思はずにはゐられない。一方は主観から、自己から行つた
私は最近の小説を読んで、その感じを言ふに就いても、つくづくさうした考に
『自己たれ』『自己に真実なれ』かういふモツトオは、何処まで言つても通用の出来るものだが、その『自己たれ』『自己に真実なれ』が、単に人間の要求方面に留つてゐては、甚だ心細い次第である。この『自己たれ、自己に真実なれ』も無限の階段のあることを私達は考へなければならない。
しかし此処では、かういふ議論は暫く措いて、私は島崎君の『海へ』と高浜君の『一日』(中央公論所載)と小山内君の『泥の山』を此処に挙げる。この他にもさうした作品があつたかも知れないが、兎に角この三つが、私にあることを考へさせた。
三篇とも、皆な自己、乃至自己の周囲を書いたものである。私なども随分自己や自己の周囲を書いて来た。そして『君の作品は日記のやうなものだね』かうよく言はれた。『それをもう一度引くりかへさなければいけないんぢやないか』かうも言はれた。この批評は一面真理であると私は考へた。芸術としては、それも好いが、自己乃至主観の方から見、要求又は逼真の方から見れば、寧ろその方が本当であると思はれるが、しかし前に言つた即不即の深遠な芸術観から見れば、それでは満足してゐられない点がある。トルストイは多く自己を描いた作家だ。従つて逼真の程度は深く且細かいが、
しかしこの三つの作品にも、
しかし『一日』に書かれた人生の事実は、私達の共鳴せずには居られないものであつた。すべてよく書いてあつた。よく出てゐた。主人公の心持などもよく解つた。しかし、作者は何故これを独立した一芸術品として描かなかつたであらうか。何故十分な客観化を加へやうとしなかつたであらうか。日記即芸術、写生即芸術の芸術観を持してゐる為めか。さうも思はれるし、又さうも思はれない。
『海へ』はモウパツサンの『水の上』ほど焦々した気分は出てゐなかつたけれども、又平面な描写の中にをり/\入り込んで来る追憶が、十分な効果を挙げるのをさまたげたが、しかし落附いた気分と美しい情緒とは、筆の上に躍然としてあらはれてゐた。相変らず詩人的な気持ちの好い作であつた。
里見君の『恐ろしい結婚』は、私の前に言つた自他の融合を少くとも心がけて、そして失敗した作だ。里見君は、これを表現するのに、『ある生活の断片』とかいふ作のやうにして表現すべきであつた。それを、さうはせずに、一度引くり返して見た勇気には感心するが、そのため、すつかり、
これと比べると、有島君の『イエツタトリイチエ』は、かうも筆の触りや、感じや気分が違ふものかと思はれた。これは面白い物語ではあるが、丁度ツルゲネフのものに伊太利の気分を交ぜたやうな感じのするものである。作者の芸術的情緒も、概して詠嘆的且つ詩人的である。それに、作者の位置の見すかされるやうなのも物足りない。
芥川龍之介君の『偸盗』はまだ未完だ。従つて十分なことを言ふことは出来ないが、『芋粥』『
谷崎君の『玄奘三蔵』は面白い作だと思つた。君には一種面白い独創なところがある。写生とは丸で反対に出て行つたやうな形で、それで自然に肉薄しやうと常に心がけてゐる。『人魚の嘆き』は私はつい手元になかつたので読まなかつた。しかし、二三年前に読んだ『お艶殺し』とか、『熱風に吹かれて』とか言ふものに比べると、根調も手法も違ふが、余程『自然の面影』といふものが、作に顕はれて来るやうになつたと思ふ。ロマンチシズムでも、これなら新ロオマンチシズムと言つても好いやうな気がした。それに、作としても骨折つて書いてある。これを先月書いた里見君の『三人の弟子』に比べると、その根調の相違は勿論、軽く浮ついてゐない処だけでも非常に好い感じを人に与へる。それに、『三人の弟子』は、客観化が中ぶらりんで、悟空、悟浄、八戒の行動が若い仲間達の太平楽を見せられたり、聞かせられたりするやうな処があつてイヤだツた。しかしそこが面白いんだと里見君は言ふかもしれない。『玄奘三蔵』には、作者はすつかり作の陰になつてゐた。唯、初めの一頁ほどのイントロダクシヨンは、あんなものはなくつても好いと思つた。
水上瀧太郎氏の作品は、三田文学に出る時分はついぞ一度も読む機会がなかつた。帰朝してから後、最初に、この前の『船中日記』を読んだ。それは余り感心しなかつた。描写の上に非常に濃淡があつて、全体のタッチも乾いた感じを私に与へた。ところが、今度の『新小説』に出てゐる『同窓』には、心を惹かれた。全体としてやはらかな上品なゆつたりした気分である。貫いた線を余り真直にしすぎたやうな処があるが、出て来る人物もそれぞれ活躍して、あの酒を飲む
或は『泥の山』の方が、徹底してゐるといふ意味から言つたら徹底してゐるのかも知れない。又新しいかも知れない……こんなことをも私は考へた。
同じ雑誌に出てゐる谷崎君の『詩人のわかれ』はつまらなかつた。愚作と言つても好いかもしれない。
中村星湖君の『帰朝者』もよく出来てゐる方だ。君の努力は『女のなか』時代から見ると、そのいやに尖つた、神経質のところと、一方また気の利かない田舎者らしいところと、忠実すぎて間が抜けてゐるといふやうなところを脱して、次第に物を正しく深く複雑に見るといふ境にまで進んで来た。この作など、書きやうによつては、単なる追憶記になつて了ふものである。又単なる自己描写になつて了ふものである。しかし、さうはならずに、主観と客観とが、ある程度まで融合されて、かうした作品となつてゐるのは、君の芸術のある発展を示した好箇の証である。『桜咲く頃』つゞいて『火』といふ短篇も面白かつた。しかし『火』もさうであつたが、この『帰朝者』も後半に至つて、印象がすつきりと素直に入つて来なかつた。尻つぼまりのやうな気がした。あそこまで書かなければ承知が出来なかつた作者の心は、矢張まだ主観に捉へられてゐるためではないか。ある要求以上に芸術の境を打立てゝゐないのではないか。
要求と言ふことは、理想と言ふことは、それは好い。又誰れでも持つてゐる。しかし、『自然を深めよ』と言つて要求したところで、いかにその自然を深むべきか、又いかにその深い自然に到達すべきか。又人間は一生かゝつて何の位まで自然に肉薄して行けるものだか。さういふことを言はずに、唯『自然を深めよ』と要求してばかりしてゐたつて仕方がない。イヤ、しかし、これは君の『帰朝者』について言ふのではなかつた……。
正宗君、徳田秋声君、この二君は、その成功不成功は兎に角置いて、『自己』から進んで『他』へ入らうとして努力して居る作者であることは、誰も認めることであらうと思ふ。ある人が秋声君に、『久しく逢はないけれど、君のことは君の作で読んでゐるので皆な知つてるよ。日記だからな』かう言つたら、君は、『馬鹿言つちや困る。僕のは日記ぢやないよ』と言つたさうだが、秋声君の作にも日記らしいものが二三ないではないが、しかし日記として見られては、さういふのも
但し、正宗君の作の全体の感じの中で、不思議に思ふことは、波のうねつて行くやうな風に、その間々に低い調子のところがあるが、『波の上』にも、『出戻り』にもあるが、あれは何うしたものか。その体質に由るのか、それとも亦精神によるのか。又、この二つの合したところにあらはれて来る現象か。
加能作次郎君の『漁村賦』は骨を折つた作である。文章のタツチなどにも気持の好い処がある。しかしその外形と内面との間に隙があつて、外形ばかり徒に華かで、内面は割合に豊富でないといふやうなことを人に思はせる作である。漁村のカラアもかなりよく書いてあるが、もう少しロオカルであつて好いと思ふ。しかし、主人公の海男のロオンマンスは、いくらかはビヨルンソンを偲ばせるやうなところがないでもない。
『狐火』は、君の多い作品にいつも見る追憶風のものにある村の人物や事件を交ぜて書いたものだ。矢張細かい巧緻な筆で、濃淡なく書いてゐる。或は作者はこの『狐火』に就いてある神秘なものを象徴的にあらはして見やうと心がけたかも知れなかつた。しかし、その現はし方がぼんやりしてゐるので、さう取つて好いかわるいか、ちよつと私にはわからないやうな気がした。
豊島与志雄君の『生あらば』、久米正雄君の『エロスの戯れ』、谷崎精二君の『
三つとも『自己』小説であつた。或は他人を書いたと作者は言ふかも知れないが『他』を書いても、矢張『自己』小説の範囲を脱することが出来なかつた。『他』が『他』になつてゐなかつた。(こゝで言ふ他は、単に他人といふほどの意味ではない)
この三篇の中では、『淡雪』が一番すぐれた感じを私に与へた。この作者のものは、この前にも二三度読んだことがあるが、次第に主観の中から客観性をつかみ出さうとし、又は主客合一の境に入らうとしてゐるのが微かながらも
『生あらば』はそれから比べると、余程センチメンタルである。『淡雪』もセンチメンタルではあるが、これは一層さういふ気がする。それだけまだ根調に、真面目な正直な弱いやさしい心がある。下宿の老婆に対する描写なども、ちよつと見ると不調和な不似合なやうな気がするけれど、そこがまたその弱い心と相つゞいてゐる。文体がイヤに長たらしく、張り詰めて居ないのも、矢張それにつゞいてゐると言つて然るべきであらうと思ふ。
『エロスの戯れ』は一番見劣りがされた。三つの奇遇をわざとらしからぬやうに表現する技倆もなければ、友人の妻もはつきりと描かれてゐなかつた。浅見が割合によく出てゐたが、主人公の方は少しも客観化が施されてゐない。そして、全体の調子は、『淡雪』『生あらば』に比して、わるくすれて、無邪気な落附いたところが段々なくなつて行つてゐるやうなのを私は見た。
『末流の子』は私は読まなかつたけれど、この前に挙げた三篇に比して塚越君の諸作の方が余程主観から脱却したやうなところがあつた。言ひかへれば、客観化があつた。自己の要求ばかりに捉へられて、周囲を見廻すことの出来ないやうな張詰めた心でないといふことがわかつた。先月の『開墾小屋』などは、さう大したすぐれた方ではなかつたけれど、それでもかうした『自己』小説の上に一歩を抜いてゐた。
しかしながら、新しい時代に、さうした多くを望むのは、寧ろ間違つてゐる。新しい時代の人達は、世界は自分だけの世界だと思つてゐる。また、自分の見たり聞いたりしたことでなければ、本当でないやうな気がしてゐる。又、それが本当である。一時代前の人達と次の時代の人達との間には、必然な自然法則としてさういふ深い越ゆべからざる溝が掘られてある。でないと、さういふ溝を掘つて置かないと、あとから続く人達の要求がそのために鈍らせられたり、歪められたりする。危険である。大切な時期をわるくいぢけたものにして了ふ恐れがある。であるから、自然はそこに深い溝を掘つた。
唯、さういふ新しい時代も、自から味ひ、自から苦しみ、自から批評する中に段々人間と自然とに対する理解が出来て来て、要求ばかりではゐられないと思つたり、『つまらぬ理想』だつたと思つたり、古人の心が段々自己として生きて来たりするのである。里見君の『恐ろしい結婚』の客観化に於いての失敗などは、その努力の階段に於いての最良の薬であると言はなければならぬ。
里見君の作に、その他に、『ひえもんとり』といふのがある。この作などは、君の作中では殊につまらぬものであつた。尖つた神経も、かう焦立つた心を持つて来ては、何うしても、『自然』の姿を失つて来る。『箱根行』あたりの静かな、謙虚な心持ちに戻つて行く必要があると思ふ。
所謂人道主義の群の主張する議論の中で、『余りに人間が安価に取扱はれた。世界はあまりに
『父の死』といふ作があつた。有島君の作である。作としては、よく描かれてある作ですが、Ich-Roman ではあるが、客観化は余り施してはないが、死に瀕した父もよく描けてゐたし、それを囲繞する家族の情味も豊かであつた。ある処は読者に涙を誘ふやうなところもあつた。しかし、作者のあの立場と態度を、私が『生』を書いた時の立場と態度とを比べて見ると、そこに両極のやうに隔つたあるものを考へずには居られなかつた。『生』は人生の醜化であるかも知れない。又その醜化であるがために人間と人生とがよく出てゐないかも知れない。しかし作者は『父の死』の作者が泣いたよりも、もつと泣いたかも知れない。もつと痛切に人間と人生とを憎悪する心に燃えたかも知れない。観察を武器にし、解剖を
世間をあのやうに憎悪したフロオベルから、観察に富んだ解剖にすぐれたあの大きな作が生れた。又、あのいこぢな、