須磨子の死

田山録弥




 他を批評するといふ心は、他に対して未だ完全の理解を持つてゐない心である。いかなる批評を以てしても、その当躰の核心は言破することが出来ない。その批評それ自身が批評される当躰と同一乃至抱合の境地に達しない以上は――。そしてその境地は既に批評の境地でなくて、自己の独創になつてゐることを私は思ふ。

 批評は他のために存在するものでなくつて、自己の為めに存在するものであらねばならぬ。紛々たる世間の批評は、要するに第三者の噂にしか過ぎない。

 これを根本から見ても、他を批評する前に自己を批評しなければならない。自己を批評する心は自己を磨く心である。他がはつきり見えるために自己を養ふ心である。そして自己が完成に近づけば近くほど、心は他に向つて開ける。他に向つて理解の度数が深くなつて来る。批評するなどといふ心よりも、真に理解し、愛し、且つ憐む心になつて来る。人間誰れか最善の心の発展を望まないものがあらうぞ。

 須磨子の死亡なども批評する必要はない。死に対しては批評は何の権威をも持つてゐない。われ等は寧ろその細かい空気と気分とを検覈けんかくし、観察して、以てそこから人間を学ばなければならない。その死の中から、あらゆる自己の心に関係を持つたものを探し出して、人間といふものを、また女といふものを知らなければならない。

 生きてゐる中は、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)つて何も言はなかつた、また何をも言ひ得なかつた周囲のあらゆる人達が、抱月氏が死ぬと、一度にどか/\皆その権利を主張し始めた形が醜い。そしてまたその醜い形が、ヒロインの死を早めた動機の一つになつてゐるのは遺憾だ。何の権利あつての圧迫ぞ。何の理由あつての『沈める鐘』の復活ぞ。

 しかし、一面から見れば、曾て二人が押しに押したために、今度はあべこべに押しに押されたといふ形もある。もし、須磨子にして世をさへかねてゐなかつたなら、また虚栄の上に一歩を踏み出してゐたならば、その漲つて来る圧迫をも十分に押へて進むことが出来たであらうに、惜しいことをしたと私は思つた。

 押したものは必ず押される。押したものは、その押した時からその押される時を覚悟してゐなければならない。

『沈める鐘』の再び鳴るのは好い。その沈んだ鐘はたとへ谷底深く陥つてゐても、その鳴るのは、矢張われ等のためだ。人間の為めだ……。

 仮令恋愛状態でなかつたにしろ、T博士の須磨子に対する心持を度外視しては、このドラマは決してその真の核子まで入つて行くことは出来ない。

 須磨子が抱月氏の死後、楠山君に赴かうとした心理も私にはよくわかる。また、やまと新聞に書いてある電話書替問題の心理もよくわかる。しかし、それは、私に何等の非難の念を起させないばかりでなく、須磨子の持つた人間らしさを私に語る。さうしたことがあつて、始めてあの『死』が益々本当の人間らしい形を私に示して来るのを感ずる。

 あの死は、私に報酬の理のまことに止むべからざるものであることを痛切に考へさせて呉れた。

 私の考では、抱月氏が須磨子に赴いた前後乃至其後の夫人の態度には親切といふことが欠けてゐたやうに思ふ。夫人はもう少し抱月氏のことを考へてやるべきであつたと思ふ。須磨子のことも本当に考へてやるべきであつたと思ふ。それが自然に酬ひられて来たのが、合葬を要求した須磨子の遺書である。

 唯、勝敗の原理だけでは、唯、嫉妬だけでは、2と3との問題はあゝなつて行くより他為方がなかつた。

 惜しいことには、抱月氏も須磨子も友人を持つてゐなかつた。真に理解して呉れる友人を持つてゐなかつた。真に理解しなければならない筈である芸術座の幹部の人達でも、今日では決して理解してゐたとは言はれない。

『須磨子の打つた芝居の中では、今度のが一番傑作だつた』かう某大家が言つたといふことが朝日新聞の上山氏の文章の中に出てゐた。本当だか何だか知らないが、もし事実とすれば、余りに魂を蔑視した言葉だ。またあまりに月並にすぎた言葉だ。

 私は妻に言つた。
『要するに、夫が妻の魂をつかみ、妻が夫の魂を攫むことが出来ないがために、さうした2と3の問題は起つて来るのである。しかしお互ひに魂までを深く攫むといふことは非常に難事だ。決して惚れ合つたとか、愛し合つたとかいふ言葉で、簡単にすまして置かれるものではない。互ひに両方の魂をつかむ努力をし、互ひに欲し、互ひに愛し、それで一生かゝつても攫めるか、攫めないかわからないやうなものである。その証拠には夫婦は沢山あつても、真にさういふ風にお互ひの魂を攫み合つたといふものは千に一、万に一もない。皆な自己と自己との寄り合ひである。我と我との衝突である。それを子供が中にゐて相互を融合させるための役には立つけれども、しかし心から夫のためを思ひ、妻の為めを思ふ夫婦は稀だ……。自然の生殖の本意が、男女共に違つてあらはれてゐるために、何うしてもさういふ風には出来ないやうに男女は造られてゐるとさへ思はれる位だ。お互ひにその難事を遂げようとするには、他の大きな力の前にひざまづかなければならない位にそれ位に難しいものだ……。だから、争闘を一生しつゞけて居る夫婦もあれば、添つたものだから為方がないと言つてあきらめて了ふものもある。夫妻関係は決して楽なものではない。またのんきに考へておくべきものではない。男が女の魂をつかみ、女が男の魂をつかむといふことは、一生の長い修業であつて、何よりも最も大切なことである……』

 世間の中で誰知らぬものもないほどの位置に身を置いたといふことが、須磨子に死を選ばせた大きな原因になつてゐるといふこともわれ等は考へなければならない。

 世間をおほふほどの力は持つべきである。しかも世間に蔽はれることは、つとめて避けなければならない。さうでないと、世間の為めに自己が失はれて了ふやうなことに往々にして邂逅する。須磨子の場合などにも多少さうしたところがある。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房
   1923(大正12)年4月15日刊行
初出:「文章世界 第十四巻第二号」
   1919(大正8)年2月1日
※初出時の表題は「赤い小さな実」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:岡村和彦
2018年2月25日作成
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