早春

田山録弥




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 風邪を惹いた床の中で『蜻蛉日記』を読む。学生時代にもよくひつくり返したものだが、今になつて読むと、いろいろなことがはつきりとわかつて面白い。何の事はない、それはその時分の心境小説だ。やれ源氏、やれ枕の草紙と言つて、普通はそれ以外に何もないやうに言つてゐるが、かういふ心境小説が、しかも時の大臣の思ひものの書いた心境小説が残つてゐるとはいかにしても不思議だ。私はそこからいろいろなものを捜し出した。
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 私はそこから一番先にやさしい女の心を、今と少しも変つてゐない女の心を捜し出した。貞淑な心を捜し出した。男は相変らず箒で女はいつも貞淑であることを、またその女の貞淑は半分以上子供のために捲き起されたものであることを捜し出した。つゞいて私は今の文壇にある心境小説よりも一層深く細かく突込んで書いてあることを、ロオカルであることを、大臣の思ひものであつても、決してまけてはゐずに、男の我儘を十分に懲らしめてゐることを、勝手に振舞つてゐることを、決して奴隷のやうになつてゐないことを捜し出した。私は愉快だつた、私は女がその恋の苦しさに堪へずに、をりをり家を出て、山寺に参籠するあたりの条を読んで、恋するもののつらさに深く同感した。男と女の違ひこそあれユイスマンスの『途上』をそのまゝそこに見出したやうな心持さへした。
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 矢張好いものは残るな! と私は思つた。本当のものといふことを私はよく口にするが、つまりこれだな! と思つた。心境小説が好いとか、本格小説でなくてはいけないとか言つて議論するがものはない。本当でさへあれば好いのだ。止むに止まれず書いたものでさへあれば好いのだ。
 私はつゞいてそれによつてその時分の京都の市街のさまをかなりはつきりと眼の前に浮べることが出来た。その時分にも火事がよくあつた。ある夜は、その家の近くが焼けて、大騒ぎをして慌てゝ荷物などを出してゐるのに、大臣が見舞にも顔を出さない、大方他の女の方へ先きに見舞に行つてゐるのだらうと言つて腹立たしげに書いてゐるあたりなども私の心を惹いた。ことにあの三条から逢坂山に出て行く街道――今の大津行の電車の通つてゐる道は、今よりも却つてその時分の方が賑かであつたらしく、国守などの供を大勢れて威張つて上京するさまがはつきりとその中に書いてあつた。京から唐崎あたり、または石山あたりは、日がへりに女車で遊びに出かけて行つて帰つて来るのに丁度好い道程であつたらしい。逢坂山の下の走井――今でもその跡がちやんと残つてゐるが、その記事などはことにはつきりと目に見えるやうに描き出されてある。
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 初瀬はせの観音の流行仏であつたことも、またそこに参籠するものの多かつたことも、女が壺装束をして網代あじろ車に乗つて出かけて行つたことも、この初瀬への道程が三日路で、初めの日は宇治から船乃至車で木津川の此方側の橋寺に一泊し(この寺は未だに残つてゐる)その次の日は大和の椿市つばいちに行つて一泊し、そのあくる日にやつと初瀬につくことになつてゐることも私はその中から捜し出した。今と比べて見ると、何も彼もめづらしかつた。
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 篇中で一番面白いのは、大臣のつれないのにがうを煮やして、尼になる覚悟で、鳴滝の山寺に参籠する条である。あそこは立派に小説になる。その子の道綱が大臣とかの女との間に挿つてゐる形なども素敵である。今も昔も少しも変らないといふ気がする。今もそこらにさうした恋に悩んでゐる人達はいくらもあるに相違ない。
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 寺のこともかなりにわかるが、もう少し深く調べたなら、参籠の室の有様とか、炊事の具合とか、参籠したものと寺の坊主との雑り合つた生活のさまとか、さういふものがもつとはつきりとわかつて来るであらう。今と違つて寺の栄えたさまも飲み込まれて来るだらう。それにしても、その鳴滝の寺といふのは、何処であつたらう。高尾のあの寺ではあるまい。鳴滝には今は五智如来の堂しか残つてゐないが、あそこいらにその大きな寺があつたのであらう。もつと探してから出かけて行つて見たいと私は思つてゐる。
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 女は、そこに長い間ゐて、尠くとも半年くらゐはゐて、大臣や親類達の度々の下山の勧誘には何うしても応じなかつたが、しかも尼にもなり切れずに、かうした姿で京に帰るのには忍びないと思ひながら、愛慾の絆にほだされて、ある日急に思ひ立つたやうにして、そゝくさとそこから下山して帰つて来るさまが面白い。けれど路はかなりに遠かつた。あの鳴滝から京の二条あたりまで尠くとも四里はある。で、何彼と支度をしてゐる中に、一刻も早く立たうと思つたのがついひまが取れて、酉の刻と言ふから、今の夕の六時にその鳴滝の山寺を立つて、夜遅く、亥の刻、つまり今の十時になつて、自分の宅に着いたことが書いてある。そしてその後で、すぐ筆をつづけて、何うして帰つて来たらう! 愛も何もない男の許に何うして帰つて来たらう! と言つてなげいてゐる。何うしても、立派に今の心境小説であると私は思つた。
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 今でも女の作者の中に、『蜻蛉日記』の作者のやうな人がゐて、さうした生活をあゝいふ風に力強く色濃く描き出す人があつたら、それこそ何んなに嬉しいだらうと私は思つた。紫式部、清少納言も好いが、それにもましてまざ/\と私に逼つて来るのはその『蜻蛉日記』の作者の姿と心とであつた。
 京都はさういふ意味で、まだまだ何遍も行つて見たい。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「夜坐」金星堂
   1925(大正14)年6月20日
初出:「読売新聞 第一七二一四号」
   1925(大正14)年2月16日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:hitsuji
2022年1月28日作成
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