武林文子に対する批評の中では、広津和郎の言つたことに私は一番多く共鳴した。『だが、道徳性を離れて見た場合、この女性は男性に取つては魅力ある存在である』以下十行ほどはことに好い。流石は芸術家の見方だけあると思つた。
存在といふ方から人間を見ることは多い見方の中でも、ことにすぐれて徹底したものであるといふことを私はこれまでにも度々言つて来た。しかし、普通人にあつては、さうした心境に達することは容易でないのであらう。皆なそこまで入り得ない中に、或はその
『白霧』の女主人公をそれに対比させて言つてゐる形なども面白い。存在といふ方から言ふと、無論後者よりも前者の方が面白くもあれば意味もある。つらさもつらいだらうし、苦しさも苦しいだらう。そこに文子の存在の上に一種の淡い意義がある。自分のやつてゐることそれ自身がひとつの立派な創作であるといふ風に文子自身が言つてゐたが――それはやゝ思ひあがりすぎるが、さうした形がいくらかはないではない。あの存在から比べれば、『白霧』の主人公の存在などは、もつとずつと幼稚なものだと言つて好い。
無想庵の小説は拙いかも知れない。しかしあれを馬鹿にして了ふことは出来ない。あれを馬鹿にするものは、偶その馬鹿にした人の男女状態の深くないことを語つてゐるやうなものである。あゝいふ状態にゐるものがいかに苦しいか、またいかに自暴自棄に陥るかを知らないことを表白してゐるものだ。
存在といふことは、飽までも第一義的である。これだけは何うすることも出来ない。何んなに悪であらうが何んなに不道徳であらうが、価値あるものは捨てることが出来ない。価値とは何ぞや、曰く人を惹かずには置かない一つの存在!
人間をいかに描くかといふことよりも、人間をいかに見るかといふことの方が先きである。何ういふ風に見て、何ういふ風に感得する? これが作者として検せられる一番大切なことである。あの作者は何ういふ風に人間を見たか。何ういふ風に人間を感得したか? その答の如何に由つて、或は主観詩人とされ、或は客観詩人とされる。
然るに、この人間を感得するといふことについても非常に沢山な階段がある。それは華厳の『十地論』どころの騒ぎではない。もつともつと沢山にある。だから厄介である。批評がよく水掛論に終るのは多くそのためである。従つて作者の側から言つても、その作中の人物が小主観的に堕ちることを第一の恥とする。何うかして誰が見てもそれと
刹那の感得も、その内部の出来てゐる出来てゐないで非常に違つて来ることを私達は考へなければならない。
正宗白鳥の『安土の春』『勝頼の最後』共に面白い。わが劇壇は始めてかういふドラマを得たと言つて好いだらう。しかしこの作者が飽まで主観詩人であるといふことは一層はつきりとなつて来たやうに思はれる。信長にしても勝頼にしても、客観的人間としての味は非常に乏しいやうである。『安土の春』が、明智の出て来るのも当然だと思はせるやうな空気を出さうと骨を折つてゐるのはわかるが、あまりにそれを極端にしすぎて、百姓の子供を信長に踏みつぶさせて通つて来るのなどは何うかと思ふ。『勝頼の最後』の方にしても、あの惣蔵と百合野の形ちは、あまりお芝居にすぎてゐる。が、全体としては白鳥式にキビキビしてゐて好い。私の考では、現代ものよりも歴史ものゝ方が好くはないかと思はれる。
『愛慾』は読んだ時には引寄せられるやうなあるものを感じたが、あとでは段々それが稀薄になつて行つて、今、思ひ出さうとしてもはつきりそれがつかめないやうになつて了つてゐる。それといふのも、矢張、描かれてゐないためではないか。シインがくつきりとそこに展けられてゐないためではないか。従つてレイゼ・ドラマとしては好いが、やつて見たら、存外印象がはつきりしなくはないか。あれはあれだけでは損である。あれはもう一度浮び出させて細かに描くことが必要である。