谷合の碧い空

田山録弥




 静かに金剛不壊といふことを思ふ。既に金剛不壊である。生死なく、暑寒なく、煩悩なしである。しかしそは生死なく暑寒なく煩悩なしを言ふことではない。又、生も可なり死も可なり暑寒煩悩も亦可なりと言ふことでもない。生の喜び、死の苦みは十分に受けることが必要である。また寒い暑いも人よりも一倍敏感に感じなければならない。唯考へなければならないことは、生死暑寒煩悩といふことは、実は、生命をめぐる方則はうそくであつて、それが我々人間の総てゞはないといふことである。生命の廻転する枢軸は、金剛不壊の力を以て常に無窮に動いてゐるではないか。

 両岸に触れたり、泗流しりうとゞむる所となつたりしてはいけない。又、停滞して腐敗してはいけない。我々は中流を静に流るゝ木片でなければならない。

 トルストイの『日記』を評したメレジコウスキイの評論は面白かつた。私の考ふる処に由ると、トルストイは、生死寒暑煩悩を非常に強く受けた人である。普通の人達の受けることの出来ないほどの敏感と細かい観察とを以て受けた人である。それでゐながら、かれは両岸に触れなかつた。又泗流のとゞむるところとならなかつた。その本体は常に金剛不壊の姿を保持してゐた。愛を説きながら、かれは実は愛を離れ、人道を説きながら、実はかれは人道を離れた。であればこそ、生死はわが欲するまゝにきたるといふやうな暗示の深い境まで進んだ。

 経験で体得した方則は非常に力強い。少くともかれ自身に取つては、その方則は生きて動いてゐる。しかし世には経験を口にすれば、即ち経験道に堕し、観察を口にすれば即ち観察道に堕し、愛慾を口にすれば、即ち愛慾道に堕して了ふものが多い。さういふ人には、経験も、観察も、愛慾もすべて危険である。総てその身を傷けその心をやぶる鋭利なやひばである。恐しい両岸の誘惑である。私達はさういふ心境に停つてゐてはならない。経験も、観察も、愛慾もすべて金剛不壊の本体を背景にして、始めてまことの意味を着けて来る。

 恐怖は一体何処から生じて来るか。私はすぐ答へることが出来る。欲する心から、求むる心から……。
 欲する心あり求むる心があるがために、憂愁が生じ、その憂愁から恐怖が生じて来るのである。恋愛の問題がさうである。生死の問題がさうである。金銭の問題もまたさうである。
 欲する心に停つてゐては、あらゆる誘惑とあらゆる悪魔とがその隙に乗じて、恐怖の翼を拡げて迫つて来る。
 所謂罪悪はそこに生れて来る。
 飢人の食を奪ふといふやうな辣腕は、到底欲する心には動いて来ない。

 三枚の衣、一鉢の飯、さうした行を聖者は行した。衣食問題は大きな問題ではあるが、そこまで行けば、立派に世間の貧、苦、乏を解くことが出来る。
 何のための美食、又何のための美衣、又何のための美食を取り美衣を纏ふものに対する羨望乃至反抗ぞや。欲する念があるからではないか。求むる心があるからではないか。乃至は満たされざる念慮があるからではないか。
 三枚の衣、一鉢のめしを得ることすら出来ないやうなものは何処にあるであらうか。いかなる貧者も、又いかなる下等社会の人達も、これよりは富んでゐるに相違ない。また一日労働してこれだけのものをも得られないといふほどそれほど生活難の社会ではない。何のための貧、苦、乏に対する同情ぞ。矢張り同情するその人自身が欲する心に悩まされてゐるためではないか。
 聖者はこの欲する念を捨てたいがために、労働すら捨てた。それは不当の欲がその労働の中にすら潜んでゐるのを見たゝめである。そして聖者は食を乞うて歩いた。そして一日一食の食を……。
 貧者の貧を訴ふるのは、富者の富を誇るのと、実は同一であるのである。

 汚い黒斑くろぶちの犬がのそのそと歩いて私の坐つてゐる窓の処に来た。
『滑稽だな』
 私はかう思はず言つた。
 犬は音声を聞いて、ちよつと立留つて私の方を見たが、その言葉がわからないので、さながら恐れたやうに、――又は薄気味わるいといふやうに、のそのそと去つて垣根の方に行つた。そして出て行く穴を探した。しかし其処にはさうした穴が何処にもなかつた。犬はまたのそのそと歩いて私の窓の下に来て、又私を見た。
『滑稽だな』
 私は又言つた。何うしたわけか知らないが、その犬のあるのが、さうして動いて来てゐるのが、私には不思議にも滑稽に思はれた。唯それだけだ。それが何うしたわけか、一日も二日も私の頭の中に残つた。黒斑の汚いのそのそしたその犬が……。

 盂蘭盆うらぼんが来たので、子供が酸漿ほゝづきを買つて来た。と、不意に、垣根に添ひ井戸端に添つてその赤い酸漿の無数に熟してゐるシインが浮んだ。老いた女がそれを手で採つてゐる……。口では酸漿がフウフウ鳴つてゐる……。
 それは私の死んだ母だ。母親は死ぬ前の年あたりから、酸漿を庭に植ゑて、そしてそれを歯のない歯ぐきに当てゝ頻りに鳴した。縁側に坐つてゐても鳴らし、道を歩いてゐても鳴らした、飯を食ふ時には、それを口から膳の上に出して、そして箸を取つた。
 母親は赤く熟して鈴生すゞなりになつた酸漿を楽しさうにして見てゐた。そしてをりをりそこに行つては、一つ二つ採つて来た。近所の女の子などが通ると、呼びとめてそれを採つてやつたりした。
 母が死んでからもう十二三年になる。それでもかうしてその姿や心は私の魂の中に入つて生きてゐる。母のやつたことや行為を私や私の妻がまたやつてゐる……。昨夜はこの母の魂を迎へるために夕暮の門に出て迎火をした。

 こゝまで書いて、急に思ひ立つて、また日光の山の中に来た。『一握の藁』時分の恐怖、不安、動揺と比べると、かうも違ふかと思はれるほど静かな暢気な気分に満たされてゐるのを私は感じた。山も川ももう感傷的の気分を誘はなかつた。追憶も悲しいさびしい追憶でなくて、唯あつたこととして私の心に現はれて来るばかりであつた。過去が単に過去としては考へられずに、現在と未来と一線になつて、私の心に現はれた。山や川や石やが依然として同じ形でゐるのも、寂として動かず欠けず崩れずにゐるのも、却つて私に金剛不壊の本体を暗示した。
 いたづらに激昂したり、感傷したり、嘆いたり笑つたりした昔が思はれた。自然の無関心を嘆く心と、自然の無関心と無関心にして無関心にあらずと見る心との相違を私は山に入る汽車の中で考へた。

『さう言ふ風に見て了つてはつまらないぢやないか。この世の中は死んで枯れたやうに思はれるぢやないか』かうある人は私に言つた。馬鹿を言ひ給へと私は言つた。かういふ風に見て来る上に起つて来る歓喜は、決していまゝで得た歓喜や快楽の比ではないのである。社会からまたは社会の表面に浮流してゐる空気から生れて来る歓喜や快楽ではないのである。自然の無関心は、金剛不壊は、いま漸くそのまゝの姿を以て、私の心に続いて来て居るやうになつた。

 法華経は驚くべき書だ。あんな本は世界には又とあるまいと思はれる。何と言つて評して好いかその言葉を知らない。一切のことが其処には皆な書かれてある。ことに『時』と言ふことに就いては、最も深い洞察と感じとを以てかれてある。
 芸術? 宗教? 芸術でもなければ宗教でもない。其処に描かれたシーンなどもつと先である。華厳は議論だが――抽象究的ちうしやうきうてきで説明で一概に推して行つた議論だが、法華経はもう議論ではなかつた。飽迄描写である。心のシインが心のシインに無限につゞいて描かれてある。転輪、再生を描いた条文などは殊に意味が深い。
 世相を代表し、客観を代表した観世音菩薩をわざわざ他から持つて来た形などにも深い意味がある。世尊の持つた客観性の普賢菩薩と他から来た観世音菩薩との対比の上にも、考へて見なければならないことが非常に多い。
 普門品ふもんほんのすぐれてゐることは誰も知つてゐるがあゝしたことをあれだけの権威を以て言説した、そして人を信じさせる力を持つてゐるのは、驚くべきことだ。

 孤立は確かに偉大である。しかしその孤立を言説せず、またその孤立が単に自己の孤立にとゞまらざるに至つて、その偉大は更に一層を加へて来る。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「毒と薬」耕文堂
   1918(大正7)年11月5日
初出:「文章世界 第十二巻第八号」
   1917(大正6)年8月1日
※初出には第13、14節があります。
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2021年5月27日作成
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