私達の思つたり、考へたり、行つたりする一段上に本当の生活があるやうな気がする。そしてその生活は、今私達がやつてゐるやうな、そんな喧しい、または利害一遍な、何うしても自分達の欲するまゝを通さずには置かないといふやうなものではなくて、もつと自然な、静かな、平和なものに近いやうに私には思はれた。
戦闘と言ふことが高調せられたり、征服被征服といふ字が用ゐられたりするといふことは、余り好ましいことではないと私は思ふ。何故なら、戦闘で勝利を得るといふことが決してすべてを解決したことではないからである。また征服被征服といふやうな心境では、到底人間の魂まで入つて行くことは出来ないからである。この世の中では、征服したものゝ方が本当の勝者か、それとも征服されたものゝ方が本当の勝者か、ちよつとわからないやうなことがよくあるものである。私の考へでは、さうした思想よりも、人間は次第に無抵抗主義の方に一歩々々入つて行く傾向を持つやうになつて行かなければならないものだと思ふ。
矢張、主観だけでは駄目だ。主観が客観的価値を持つやうにならなければ――。
果実はその熟する少し前に於て、落ちたり腐つたりすることが非常に多い。十中五六は駄目になつて了ふ。これに由つて見ても、人間が一生を健かに送るといふことは、容易なことではないやうな気がする。
労働問題も、戦闘状態を一度は取つて見る方が好いかも知れない。しかしそれで解決が出来ると思つては間違ひだ。
障子を開けて見ると、海がすさまじく荒れてゐる。暗澹としてゐる。そしてその岸近いところにあるかくれた礁のところだけに波が白く砕けてゐる。一面に空を蔽つた雲は概して鼠色で、ところどころ雲切がして、明るく日の光りがすかされて見えて居りながら、銀箭を射たやうな雨はすさまじく降り
ひとりさびしい鼠色の海に向つた心――それはあまりにさびしすぎた心であつた。
『夜もすがら船もよひして出て行くかつを取る船に海幸あれな』これは常陸の平潟の旅舎で詠んだものであるが、私達の眠つたその旅舎の一間のすぐ下が海で、明方近くまで終夜準備した船が発動機の音を立てゝ出港して行くさまは何とも言はれず勇ましかつた。通り一遍の旅客でさへ其準備の大変なのを見ては、その日の漁の幸運をかれ等のために祈らずにはゐられないやうな気がした。
しかし、段々きいて見ると、その間はかなりに遠いらしかつた。二里位あるやうなことを人々は言つた。『矢張、原釜へは、中村から行かなけりやうそぢやな。道がわりいでな。それに渡しをわたらなけりやなんねで……』かうある男は話した。
釣師沢の海水浴場を通つて、それから次第にさびしい海岸の松山の中に入つて行つた。成程道がわるい。山見たいなところを越して行くかと思ふと、今度は絶壁と絶壁との間のやうなところを縫ふやうにして通つて行かなければならなかつた。それに、わかれ道がところどころにあるので折々立ち留つて考へて見なければならなかつた。私達は次第に新地で下りたことを後悔した。
でも、山を越すと、美しい海が見えた。磐城の海岸の特徴を成した黄灰色の
『
こんなことを言ひながら、私達は波の寄せては引き、引いてはまた寄せるところを歩いた。
また越えなければならない松山が来た。しかも、長い、長い、脊から脊へと伝つて行かなければならないやうな松山が――。少し行くと、原釜の此方に展げられてゐた入江がそれと指さして見えたけれども、その
『成ほど、これは一里やそこらぢやない。こんなに遠いんなら、中村から行けばよかつた』
終には私達もこんなことを言ふやうになつた。
松山を向うに下りて、それから暫し長い間を入江の岸のやうなところ、それもひろびろとその入江を見渡すのではなくつて、田や入江や畠のごちやごちやに入込んだやうなところを歩いて行つた。ひよろ松の林もあれば、篠竹の藪もあつた。またそこらに散在してゐる二三軒の農家もあつた。と、急に、路は松の林の中に尽きて了つた。
前は大きな入江である。それを渡りさへすれば、その志す原釜海水浴であるのがそれとわかつた。しかし路が絶えて了つたので、何処が何処だかちよつとわからなくなつた。入江を渡るわたし場を私達は先づ第一にさがさなければならなかつた。
私はあつちへ行つてはきゝ、此方に行つては聞きして、漸くその渡場は、その向ふの帆前船の沈んでゐるところであるといふことを教へられた。しかも、そこには小屋があるのでも何んでもなかつた。
辛うじて其処まで行つては見たが、私達を渡して呉れるやうな船はそこら近所に見当らなかつた。
『船がないぢやないか』
『本当だ……』
『何うしたんだらう?』
為方がないので暫しそこに立尽した。けれどいつまでさうして待つてゐても、いつ船がやつて来るのか殆ど見当がつかなかつた。私達は困つて了つた。
ふと見ると、遠い、遠い対岸に、船のやうなものが見えた。はつきりしてはゐないが、何うもさうらしい。で私達は声をあげて、『おーい、おーい』と呼び始めた。やがて其船はやつて来た。私達はほつと呼吸をついた。
原釜の海水浴場は、すぐその向うの徙崖に
鮎川から
峠道の両側は、草藪で、ギスなどが頻りに鳴いてゐた。
大
何故と言ふのに、そこには人目を
『フム、好いところだな』
私はかう言はずにはゐられなかつた。
私は思つてゐたのとは違つて、島の周囲を
『好い処だな』
私はかう再び言つた。
そこから七八丁下りて行つたところに、山雉の渡頭があつた。渡船小屋としては立派すぎるやうな瀟洒な家屋――此方の室に大きな囲炉裏が切つてあつて、それにつゞいた室はすつかり綺麗に片附いてゐたが、私達の入つて行つた時には、その向うの方に、この家の主人らしい四十先の男が午睡をしてゐるばかりで、あたりに誰れの姿も見えなかつた。前のところでは二三羽の鶏が頻りに餌を
私達がドヤドヤ入つて行つた気勢を聞いても、午睡をしてゐる男は容易に起きて来るやうな様子も見せなかつた。家の後を覗いて見ても、上さんらしい女も誰もゐなかつた。
時間が来なければ船は出さないのであらう。乗手の数がある数に達しない中は、こゝに待つてゐなければならないのであらう。かう思つて私もそこに仰向になつた。
何といふのんきさであらう。私もそこで一時間近くの昼寝をした。そして目が覚めた時には、乗客が既に三四人そこに集つて来てゐるのを見た。主人も昼寝から起きて来て、囲炉裏の傍に胡坐をかいて、うまさうにプカプカ煙草を
私は主人やさうしたこの地方の乗客達から、いろいろとこの附近のことを聞いた。此処等は冬でもさう寒くはないさうである。雪も多く積つて一尺位のものであるさうである。決してさびしいとか、暮しにくいとかいふことはなく、鮎川まで行きさへすれば都会で得られるものは大抵は得られるといふことである。『なアに、さびしいことも何にもねえ。わしは三十年も此処にゐるが、何一つ恐ろしいと思つたこともねえ』かう言つてその船頭は笑つた。
十一二の女の児は、雪の日にも鮎川まで学校に通つて行くといふことであつた。私はかうした人達の一生を想像せずにはゐられなかつた。
暫くして、数名の船頭は上から下りて来た。私達は徙崖の上を此方に伝つたり、彼方に伝つたりして、漸く波の寄せて来る岩のところまで行つた。そこには一隻の舟が絶えず波に漂つてゐる……。