知多半島の東浦から西浦に越えて行く路は、今までにないほどの興味を私に誘つた。『知多半島ツて、こんなところかなア、こんなに面白い地形とは思はなかつた』私はかう独語した。
私は東浦の河和から車で越した。低山性の複雑した丘陵が、時には東を開き、南を開くといふやうな形を見せてゐたが、次第にのぼるにつれて、北も西もすつかり眼中に落ちて来た。その地平線の濶さ! 東浦も見えれば、西浦も見える。南の方には伊勢湾が開けて、その向うに
『峠に行きますと、寒くなりますよ』
かう車夫は言つたが、果してその通りであつた。海を越した鈴鹿山脈には、雪が白く、右に偏つて
車夫は行く行く話した。
『そら、そこに、向ふに、山が見えるでせう、あれが、
私の目の前には、遠い昔が浮んだ。京都を落ちて、美濃の大炊の
尠くとも、義朝の悲劇は、暗い心の悲劇として日本の歴史の中に指を屈しても好いと私は思ふ。それに、湯殿で殺されたといふ形が面白い。それに、数年経つて、その子の頼朝がわざ/\そこにやつて来て、大法会を行ふと共に、長田父子を
野間はさびしいところだつた。海岸の漁村にしか過ぎなかつた。やがて私はその頼朝のやつて来た時に建てたといふ寺の山門の前に立つた。義朝の首を洗つたといふ血の池には、午後の日影がさしわたつて、いかにも血のやうな色をしてゐた。未だにその恨みが生きて漂つてゐるやうな心持を私に誘つた。
それに、あたりの荒廃してゐるさまが、何とも言はれないさびしさを私に感じさせた。寺の本堂もそのまゝださうだが、それもすつかり大破してゐる。あたりには松が風に鳴つて、かうしたシインの中に、『時』が無限に没却して行くさまをそれとなしに私に思はせた。
義朝の墓は五輪塔型であつた。そこには、この他に、織田信孝の墓や、平康頼の墓があつた。周囲の深い樹の間から、午後の日影がさし込んで、それが風に動いて、心も揺らぐやうな気がした。
ふと、その墓の上に一杯に小さな太刀が積んであるのに眼をとめた私は、
『何だね? これは?』
『それですか……』車夫は寄つて来て、
『これが、それ……お湯殿で御殺害なされた時に、木太刀でも一本あればと
『へえ!』
私も不思議な気がした。
『木太刀を何処かで売つてゐるのかね!』
『え、庫裏にあります』
で、私はそこから少し離れた庫裏に行つた。成ほどそこには、木太刀が沢山あつた。縄で束ねて幾束も幾束も重ねられてあつた。私も一本十銭の奴を三本買つて、それに、私の名と子供達の名を書いて、そしてそれを墓の前に来て手向けた。殺されたあとで、さうした木太刀が何本あつたつて、しようがないやうな気がするけれども、しかし、さう思ふのが、人間の心だ……。さういふ風にやさしいのが人間の心だ……。
そこにある探幽の絵は、義朝最後のさまを描いて、立派な芸術であつた。その絵があるがために、その暗い悲劇が始めて浮ばれたやうな気がした。で、私も車の上でいろ/\なことを考へた。何うかして、これが書けないか。小説に出来ないか。戯曲にならないか。内海に上陸して、殺されるまでのことを仕組んでも立派なドラマになりはしないか。しかし、それだけでも好いが、もつと跡といふものを附け加へて、つまり私達がかうやつて数百年後に訪ねて行く心持をもつけ加へて、そして作品にすることは出来ないか。と、私の心にはハウプトマンの『エルガ』が思ひ出されて来た。あゝいふ風にでも仕組んだら何うか。旅客が一夜、そこに泊つて、そして昔を思ふといふやうにして仕組んで見たら、何うか。こんなことがそれからそれへと思ひ出されて常滑から名古屋の方まで来ても、それでもまだそのことが私の心に絡みついてゐた。松の鳴る下の五輪塔の墓、午後の日影の血のやうにさし透つた小さな池、丘の麓に残つてゐる御湯殿の跡――私は何うかしてそれをドラマにしたいと今でも思つてゐる。