通俗小説

田山録弥




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 私が鈍才であるためかも知れないが、何うも本格的な小説が書けない。一時は随分そのために苦労もし、骨も折つて見たのであるが――人一倍いろいろなことをやつて見たいと思つてゐるが、その出来ばえの如何といふことよりも、何うもそれでは自分で満足が出来ない。こんなものをいくら書いたつてしやうがないといふやうに思はれて、あとでそれを振返つて見る気になれない。その癖、私のかねての願望はさうではなかつたのである。いやしくも小説家として筆を持つて立つてゐる以上、何んなことでも書けるやうにならなければ本当ではない。いかなる人生でも展開して来やう。いかなる人間でも如実に描き出して見せやう。かう思つてやつて来たのである。ところが、さういふことは非常にむづかしいことで、口でこそ言へるが、いざとなつては、容易に実行出来るものでないといふことが次第に私にわかつて来た。自己と同じ程度に他を見るといふことは、それは容易に出来ることではなかつた。或は全く不可能であると言つても好いかも知れなかつた。従つて本格小説が多くは通俗小説に堕して了ふのも止むを得ないことであると言はなければならない。
 本格的であつてそして心境的の手堅さを持つたやうなもの、さういふものが一番好いのであるのはわかり切つてゐるが、何うもさういふものは、外国でも沢山はないらしい。私達も以前は外国の小説でさへあればすぐれてゐると思つてすぐ傾倒して了つたものであるけれど、今日考へて見ると、随分低級な通俗小説をも立派な作だと思つてゐたことがないとは言へないのである。低級になればなるほど、通俗になればなるほど、いろいろな思想や考へや理窟などを盛つたものが多くなつてゐるので、却つてその方を時代思潮に触れてゐるなどと思つたこともあるのである。人生をむきだしに浅く説明したやうなものを却つてすぐれた作だと思つたのである。
 作中に出て来る人物を心境的に詳しくあらはすといふこと――その骨折は大したものだと思はれるが、しかもその難関は誰でも一度は通つて行くであらうと思はれる。そして本格的で同時に心境的であることの難かしいことを痛感するであらうと思はれる。
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 人生のことは理窟で知つてゐるのでは駄目である。知識で知つてゐるのでも駄目である。ぢかにその中に浸つて行つたのでなければ、またぢかにその細かい空気に触れて行つたものでなければ、人生のことは本当にはわからないものである。そして人生が本当にわかつてゐればわかつてゐるだけ、その人の考へ方は具体的になつてゐるものである。単純に理窟できめて了つたりしないものである。主義とか思想とか、乃至は時代思潮とかいふものよりももつと奥に人生が静かに展開されてゐるのを知つてゐるものである。そしてさういふ人は、学問や知識がなくとも、その事物の本当であるか否かを、鍍であるか否かを、好加減な饒舌であるか否かをすぐ看破して了ふものである。
 従つて作中に思想がないと言つて、問題がないと言つて、または大きな時代思潮に触れてゐないと言つて不満に思ふのは、さう思ふ人が理窟や知識で人生を知つてゐるばかりで、本当に人生の細かい空気に浸つてゐないためではないか。さういふ風に物を見るのは、却つてその人生に対する心持の本当でないのを裏切つてゐるのではないか。かう私は常に思つてゐる。
 しかしその反対に、主義にしても、思潮にしても、また時代意識にしても、それは単に理窟ではなしに、庭に横つてゐる人生の細かい空気から醸し出されて抽象されて来たもので、さういふ主義やら思潮やらの起つて来る基礎は、矢張底の底の人生にあるのであるから、さう一概に捨て去ることは出来ないとはそれは言へる。つまりそれは内から行つた形と外から行つた形との区別になるのである。そしてその内から出て行つたものには、完全に底の人生が背景になつてゐるから、外から触れて行つたものとは、形は同じでも質は非常に違つてゐる。さういふ風に内から出発した形ならば、同じ作の内容に対する不満でも、その形はさつき言つたのとは丸で違つてあらはれて来るであらうと私は思つてゐる。プロレタリアの人達でも本当に内部から動いて来たのならば、それは立派な存在であると私の言ふのは、実はそこを指してゐるのである。
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 芸術だから、すぐれたものを書きさへすればそれで好いわけであるが、単なる芸の集合は私は取らない。何故なら、芸の集合はともすれば饒舌に堕落し、駄洒落に堕落し、面白半分に堕落するからである。それは人間だから面白く遊ぶのはわるいとは言はない。面白く遊ぶ中からも好い芸術が生れて来ないとは言はない。しかし、私は何方かと言へば芸術派であると共に人生派であることを望む。表現派であると共に内容派であることを望む。
 以前硯友社の人達のやつたやうな交遊は私は取らない。お互ひに遠慮なく自分の持つたものをそこに披瀝して、お互ひにその好いところに感化されるやうな交遊を私は望む。一面は好敵手! ござんなれ! であると同時に、一面は互ひにその長所を学び合ふやうな形であることを私は望む。
 完全を求めるといふことは、存外価値のないことだといふことはずつと前にも私は言つたが、今でも矢張私はさう思つてゐる。金剛石の径の一寸なるものは無論好いが、しかもその好いといふことにこだはつて、その完全といふことにこだはつて、それでなければ宝石であるかひがないと思つて、他の宝石をも宝石としないやうな態度は私は取らない。私達は何んなつまらない雑草にも花の咲くことを見なければならない。またその雑草に取つては、それが勢一杯の花であることを考へて見なければならない。それは単に花といふ上から批評すれば、いくらでも美しい花があるだらう。すぐれた花があるだらう、立派な花があるだらう。その小さな花などは存在すら認められないだらう。しかしさういふ風に見るのは、世間的見方で、それは好い批評とは言はれないのである。さうした批評はいつか月並にされて了ふのである。本当の批評は、さうした不完全な雑草の花の中にも本当の自然の存在を認めるのである。だから、私に言はせれば、花の小さきを憂ふる勿れである。花の不完全なのを憂うる勿れである。唯、いかにして勢一杯の花を咲かせるかといふことに力を致し思ひを致すべきである。
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 あの二重印税の問題は、私達にも全然関係のないことではないから、ちよつと此処に言つて見るが、あれは本能問題で、理窟できめて了ふことの出来るものではない。単に好いとかわるいとか言つて了ふことの出来る問題ではない。相手以外に第三者が入つて行つたつて、何うにもなるものではない。あれは狭斜あたりでよく出会でつくはす男女の関係にさへ似てゐる。あれはお互ひに喧嘩をするなり愛憎あいそつかしを言ふなりしてわかれて了ふか、さうでなければ、何だ貴様は! 馬鹿を言ふな、と言つて何方かが何方かをぐるか何うかするより他為方がないやうなものではあるまいか。あの印税といふ契約は、契約をすべきものでないものを契約した女の起証きしやうと言つたやうなところさへある気がするから――。
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 作品には無論作者の心持がその背景を成してゐる。否、作者の生活まで入つて行かなければ、その本当のことを言ふことは出来ない。否、更にこまかく言へば、作品はその時その時の作者の心と生活のバロメイタアであると言はなければならない。
 作者の心が疲れて居れば、どうしたつてその影響がその作品の上にあらはれて来る。作者の心が金に捉はれてゐれば、何うしたつてその作品は銅臭を帯びて来る。女に捉えられてゐれば、何うしたつていやにべたべたする。しかし、月評などでは、そこまで入つて行けない。何となく気がさして作者に気の毒になる。ところが、合評会になると、割合にさういふことが言へる。兎に角内輪同志だからといふ気があつて、十分物を言へると見える。従つてこれはかういふ作者の心持乃至生活だから、かういふ作品が出来たのだらう? また前の作に比べてこの作のおつとりとしてゐるのは、これは作者の今の境遇がその前の作を書いた時分と違つてゐるからであらう。さういふ意味でこの作はよくも言へるしわるくも言へるなどと平気で言ふことが出来る。またこの作者の将来もその今の生活のために何んなに変つて行くか、それが見物みものであるなどとも言ふことが出来る。それが私には面白かつた。すべてさういふ風に中まで入つて批評して貰つたら、お互ひに何んなに為めになるだらうと思つた。
 それは私などもさうであるが、何うも日本の作者はわるく固くなりすぎてゐる弊がある。書いたものをお互ひに見せ合ふとか、批評し合ふとかいふことは、青年の時分にはよくやつたものだが、今ではそれがなくなつて了つてゐる。わるく一家を成しすぎてゐる。そこに行くと、外国の作者はお互ひに好いところがあつて、フロオベルの手紙やゴンクウルの日記などを見ると、お互ひに批評し合つたりなぐさめ合つたりしてゐる。また作についての近況を尋ね合つたりしてゐる。よく手紙でこんなことが言へると思はれるやうなことまでその中に書いてある。それを見ると、私はいつも羨しい気がする。私達も何故それをやらないかと思ふ。しかし、日本では何うもそれが出来ない。何故か出来ない。或はそれは作者といふ本当の意識がまだ外国ほど深く出来てゐないためではなからうか。
 唯、「新潮」の合評会で不足だつたのは、その雑誌の性質上止むを得ないことかも知れないが、もう少し若い作者達のものを丁寧に批評したら何うかと思つたことであつた。それは「新潮」を買つて読む人だつて、さうした若い作家のものなどを長々と批評するのは好まないのは知れ切つてゐるけれども。しかし好いものがあつたら、何んな雑誌に出てゐるものでも、合評に上せてやる方が好くはないか。そのくらゐの親切があつても好くはないかと思つた。
 兎に角、作者達が互ひに真面目にいたはり合ふのは好いことに違ひない。それは競走心理、争闘心理なども起るには相違ないけれども、それとてそれを陰険な方に持つて行かずに、互ひに研鑽砥礪ていれいするやうにしたならば決してわるくはないと思ふ。第一、抑塞よくそくされた心の流通をよくするだけでも、文壇の空気を明快にする利益がある。
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 苟くも作者と名のついたものは、誰でもその書いたものの好評であることを欲しないものはないから、わる口を言はれるのは好い心持でないのはわかり切つてゐる。従つて、月評は何となく気味がわるい。不愉快でもある。何うも為方がない。書いたのだから、何か言はれるのは我慢しなくつてはならない。かう誰でも思つてゐるらしい。『まあ、為方がない。年貢を納めるつもりでゐるのサ』現にこんなことを言つてゐる作者も一人や二人はあるのを私も知つてゐる。で、大抵は(君達よりも作者の方が好く知つてゐるよ。そのわるいところは百も承知だよ!)こんなことを腹の中で言つて我慢してゐるらしい。私も現にそのひとりでないとは言へない。
 さうした不愉快な批評なんか何うしてなくならないのであらう? もつとのんびりした心持で作をしたり読まれたりする時代は来ないであらうか? かうしたことは私達には何遍も考へた。現に、国木田のゐる時分にも、『何うも日本の文壇ぐらゐ小舅こじうとの多いところはありやしない。何うだつて好いぢやないか。正直正太夫が何を言つたつて、鴎外が何を言つたつて、そんなこと何うだつて好いぢやないか。日本ではだから好いものが出来ないんだよ。小舅が多ほすぎるんだよ。猫も杓子しやくしも批評をするんだからな』こんなことを言つたことは覚えてゐるが、『めざまし草』の『雲中語』などはそれはひどかつたものである。今日でも図書館に行つて繙いて見ればわかるが、よくあんな批評をされて黙つてゐたものだと思はれるくらゐである。しかし、今日になつて考へて見れば、あの『雲中語』だつて、無かつた方が好いとは言へなかつた。何故なら、あの中にも非常に為めになることがあつたから。またそのために芸術に対する心持が常に緊張させられてゐたから。
 だから、何んなに苛酷な月評でも、その根底に芸術といふものを持つてゐる中は好い。お互ひに本当のことを言つてゐる中は好い。わるく陰険にならない中は好い。しかし一度芸術といふ心持を失ひ、わざと皮肉に出て、実際問題をその背景に持つやうになつて来ては、私もそれを唾棄だきせずにはゐない。
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『陸の人魚』だつて、『魔笛』だつて、または『叛逆』だつて、新聞小説といふことを眼中に置いてゐなかつたならば、もつとぐつとすぐれたものになつたであらう。惜しいことには、何れもこれも皆な受ける受けないといふことに重きを置きすぎてゐるために、或ひは書くべきところを書かず、或ひは誇張しなくとも好いところを誇張し、それがために折角の人間味を稀薄にし、心理を平凡にし、お芝居を多くし、集中しなくつても好いものをわるく集中したりしてゐる。
 その癖、作者はいづれも骨を折つてゐる。決して投げては書いてゐない。『陸の人魚』だつて、全体から言へば、その気分にすつとしたところがある。矢を空間に放つたやうな感じも何処かでしてゐる。『魔笛』だつて、筆は上品だし、作者の浸つて来た生活などにも好いところがないとは言へない。『叛逆』だつて、秋声氏でなければ入つて行けないやうなところまで入つて行つてはゐる。よく纏つてもゐる。しかし、何れもこれも新聞意識があるがために、わざわざ実物をわるく曲げて書いてゐはしないだらうか。かう書く方が本当だと意識して居りながら、わざとさういふ風にやつてゐはしないか。
 もしさうだとすると、芸術から言つて、非常に不経済なことではないだらうか。立派な筆を持つてゐる作家が、さうして第二義的に下つて書いてゐるといふことは、非常に惜しいことではないか。それは通俗を成るたけ芸術に近よせて来るといふことは必要であるかも知れない。さういふ心持も諸氏にはあるかも知れない。しかし私の希望としては、諸氏にはさういふことよりも、本当のものを書いて貰ひたい。心境と本格とぴつたりと合つたやうなもの――面白くなくても好いから、さうした本当のものを書いて貰ひたい。
 それは新聞の方から言へば、いろいろな理窟が言はれ得るだらう。受けなくつては困るだらう。平凡な、他の奇のない心境小説でも困るだらう。それは私にもよくわかる。私も新聞を書いた場合には、さういふことを気兼ねしたこともある。しかし私達に取つても、そのために新聞の方から註文をつけられるといふことは困るのである。餅屋は餅屋にまかせて貰ひたいのである。
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 或ひは将来には、新聞小説と私達の書くものとは、全く別なものになつて了ふかも知れない。なまじひに、お互ひに譲り合ひ妥協し合つてゐるからいけないので、全く別々になつて了へば、それで文句はないのである。現に、此頃、新聞社で懸賞で募集してゐる小説があるが、あれなどがその一面のあらはれであると見て差支はあるまい。新聞を経営してゐる人達は、その自分の経験から割り出して、何ういふものが自分の新聞の読者に向くかといふことを一番詳しく知つてゐるわけであるから、ああいふ風に次第に新聞小説をつくり上げて行くといふことも賢い為方と言はなければならない。現に外国などにもさういふ作品は沢山あるし、さういふ作者も山ほどあるのであるから、さうなつて行つたところで別に不思議はないのである。唯、さうなれば、私達とは全く違つたものになるのは止むを得ないことである。
『しかし、何んな通俗なものにも好いものが出来ないとは言へないね。形は何んなに通俗小説でも、その作者の才分如何に由つて、本当のものでも出来るのではないかね?』私の説を聞いてゐたひとりはかう言つて私の方を見た。それはたしかにさうである。さうなくてはならないのである。しかし今の通俗小説――ああいふ風にわるく形に、筋にばかり拘泥し、甘い低級なシインにばかりあくがれて、現代の日本の生活とは何等の交渉を持つてゐないやうな今の通俗小説には、とてもさういふ真摯しんしな心持などは望むことは出来ない。馬鹿げて大きな複雑した光景とか、わるく塗られたペンキのやうなあくどい色彩とか、乾き切つた抽象的な悲劇とか、さうしたものが混雑ごたごたとそこに展開されてあるばかりである。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「夜坐」金星堂
   1925(大正14)年6月20日
初出:「新潮 第四十一巻第二号」
   1924(大正13)年8月1日
※初出時の表題は「文芸時評/二三の問題」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:hitsuji
2021年8月28日作成
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