一
Bはやつとひとりになつた。時計を見ると、もう十時である。ホテルの
室の中には、いろ/\なものが
散ばつて、かなりに明るい電気が
卓の上に、椅子の上に、またその向うにある白いベツトの上に一杯にその光線を
漲らしてゐる。今まで
間断なしに客が
出入して、低い
声音だの、高い哄笑だの、面白さうな
笑声などがその一室に
巴渦を巻いてゐたが――疲れ果てたやうな、早くさういふ人達から自由になりたいといふやうな、やゝ蒼白いBの顔がくつきりとその明るい光線の中に浮び出して居たが、本社からつけられた随員であり案内者であるSが、「しかし、もう、お疲れでせう。何しろ、
昨夜も夜行で碌にお休みにはなれないところに、すぐつゞいてこの客ですから――もうお休みになる方が好いでせう」と言つて、まだ話したさうにしてゐた二三人の客を伴れて起ち上つた時には、Bは始めてほつとした。Bは思はず溜息をついた。
Sは
暇を告げながら、
「それでは
明日はゆつくり
上つて好いですね? 僕はちよつと私用もありますししますから」
「え、何うぞ――」
「先生も静かにお休みなさい。東京の奥さんの夢でも御覧なさい……」
「
難有う……」Bはわざと外国風にSの手を握つて、「それよりも、君の私用も何んな私用だかあやしいもんだね。うまい私用ではないかね?」
「そんなことはありません。いくら僕がハルピンが好きでも、さういふものはありませんよ。矢張、先生と同じですよ。東京の郊外に置いて来た
嚊の夢でも見るだけですよ」
「何うだかわからんね? でなくつては、いくら好きでもハルピンに年に三四度もやつて来る筈はないよ」
「まア、その辺のところは先生の想像に任せますよ」Sはもう外に出てゐる二三人の客をあとから急いで追ふやうにして、「ではお休みなさいまし」
「さやうなら――」
扉は外からしめられて、
把手の手のぐるりと廻る
気勢がしたが、廊下を伝つて階段の方へと下りて行く跫声が暫しの間きこえて、そしてあとはしんとなつた。Bはまた溜息をついた。
かれはあたりを見廻すやうにした。やつとその時が来た! やつとその時がやつて来た! かれはかう心の中に囁いた。体がわく/\した。
「もう、大丈夫だ。誰も来る筈はない――」かう口に出して云つたが、しかもすぐ起ち上らうとはせずに――わく/\する心をぢつと押へるやうに、体を安楽椅子に深く
凭せて、そこにあるロシア煙草を一本取つてマツチを
摩つた。
煙がすうと立つた。
それにしても、かれは何んなにこの時の来るのを待つたらう。何んなにこの遠い土地に向つて
憧憬れたらう。此処に来るといふあてがなければ――その遠いハルピンに行けばあの
時子に逢へるといふ人知れぬ秘密の希望を持つてゐなければ、Bは決して今度の満韓旅行を承諾しなかつたに相違なかつた。たとへ、何んなに本社で歓迎して呉れると言つても、又理事級の人達のみが貰ふやうな高い旅費を呉れて、大切なお客様として随行員をつけて何処でも自動車で案内させると言つても、かれは決してそれを承諾しなかつたに相違なかつた。実はかれはかの女あるがために――あきも飽かれもせずに別れたかの女がハルピンにあるがためにのみ重い体を起して今度の旅行に
上つて来たのであつた。赤ちやけた殺風景な
山巒、寒い荒凉とした曠野、汚ない不潔な支那人の生活、
不味いしつこい支那料理、時には何うしてこんな不愉快な
塞外の地にやつて来たらうと思ふやうなことも
度々あつたが、しかしいつかは一度ハルピンに行つてかの女に逢へるといふことのためにのみ慰められて努力してやつて来たのであつた。Bは満韓の到るところをかの女と一緒に歩いたことを繰返した。何処に行つてもかれの身辺に、心に、かの女がついて廻つて歩いて行つてゐたことを繰返した。あるところでは、かの女に逢ふことのために勧められた美しい女を謝絶したことを繰返した。「先生は存外堅いんですね。僕は先生はさういふ方だとは思はなかつた。もつと解けた、色つぽい方だと思つてゐた。人といふものは見かけによらないものですね」かう言れた時、Bは、「だつて、君、かういふことがあるよ、いかに砕けたものでも、他に本当に恋したものがあれば、その女の心と一緒になつてゐれば、他に手が出したくつたつて出せないぢやないか。いや、僕にさういふ女があるか、何うか、それは此処には言はないけれども、もしさうだつたとすれば、僕が今他の女に手を出さないのも無理はないぢやないか。何しろ、その女が現に僕と一緒にゐるんだもの……。僕と一緒に歩いてゐるんだもの。ホテルに泊つて、ダブルベツトでさびしいだらうなどゝ君達は言ふかも知れないけれども、そこはねえ、君、ちやんと毎夜来て一緒に寝てゐるんだもの……」こんなことを言つて大勢の人達を
煙に巻いたことを繰返した。
しかし、今夜こそは、本当に、かの女が来る。あの飽きも飽かれもせずに別れた時子が来る
かう思ふと、Bはもう一刻もぢつとしてはゐられなかつた。かれはそのまま巻煙草を捨てゝ身を起した。
二
かれはしんとした長い廊下を静かに歩いて行つた。胸は一大事にでも臨んだものゝやうにわく/\した。
うまくゐて呉れゝば好いがな?
此方が来るのは知つてゐるのだから、すぐ電話をかける筈になつてゐるのだから、大抵その心構へをして待つてゐるだらうけれども、ゐれば好いがな……。何処かに出てゐはしないかな?
かう思ふと、いくらか不安にはなつて来た。しかし、大連あてにかれによこしたかの女の手紙の文句がしつかりとかれの心に絡み着いてゐるので、別にそれほど強く感じもしなかつた。たとひ今はゐなくとも、今夜は逢へるといふ自信がかれの心の底にはつきりと棒のやうに
横つてゐた。
廊下のつき当つたところが、ボオイや女中のゐるところになつてゐた。そこに静かに
灯が漲つてゐるのをBは目にした。しかしハルピンは今頃は客がないと見えて、あたりはひつそりとしてゐた。大きなサボテンや葉蘭の鉢が硝子の中にくつきりと見えてゐた。
さつきの女中がBの跫音をきいて、そこから顔を出した。
「――――?」
「電話は三階にもあるんだらうね?」
Bは落着いた態度で訊いた。
「御座います――――」
「何処だね?」
女中は蒼白い小さな顔をあたりにくつきりと見せながら、「おかけになるんですね?」かう軽く言つて、そしてBをその背後にある電話室の方へと伴れて行つた。
それはBに取つて持つて来いの電話室であつた。そこには二十燭ほどの電気がついてゐて、その戸を排して中に入れば、何んな秘密な話をしようが、外からそれを立聞きされる
憂は少しもなかつた。それに、女中にしても、ホテルだけにさつぱりしてゐた。そこを案内するとそのまゝすぐ元の方へと引返して行つた。
電話の番号は、かの女が大連の旅舎あてによこした手紙で、ちやんと知つてゐたけれども、念のため、そこに置いてある電話帳を繰つて、そのゐる家に当てはめてから、Bは躍る心を押へつゝ
徐かに
把手を廻した。ベルがあたりの静かな空気にけたゝましく響きわたつてきこえた。
「二十三番――」
かう呼出すと、すぐ通じて、向うから女中らしい声がきこえて来た。
「どなたで御座いますか。は、は、さやうで御座います。武蔵野で御座います。時子さんで御座いますか? あなたはどなた? Bさん……? ちよつとお待ち下さいまし」かう言つて引込んで行つたが、つゞいてすぐ女が代つて出て来たらしかつた。
「お! 時子!」
「あなたはBさん、まア――」その電話はかう言つたが、何でも電話のあるところが
端近で、言ひたいことも思ひ切つて言へないといふ風で、暫く絶句してゐたが、いくらか、小声になつて、「待つてゐたんですの。いつおつきになりましたの?」
忘れられないその声がなつかしく体中に染み込んで行くのをBは感じながら、「今日の昼頃ついたんだがね? 今まで客があつて、電話をかけるひまさへなかつたんだよ」
「さうですか。何うしたんだらう? もうゐらつしやりさうなもんだ。此間のお手紙では、是非もうお着きにならなけりやならない。何うかなすつたんぢやないかしら? ハルピンにはお出でにならないやうになつて了つたんぢやないかしらと思つてゐたんですの……。今も思つてゐたところなの、私うれしい……」その声は低く微かに、いかなる音楽もそれほど強く体に心に染みわたるものはないやうにBの耳に伝へられて来た。
しばしは両方で黙つた。しかしこの沈黙は千万言にも尚ほ勝るほどの感動を二人に与へた。二人の間には心と心とがぴたりと合つた。体と体とがぴたりと触れた。その中間に電話の線が横つてゐるなどは思へなかつた。
「……………………」
「…………? それぢや、私、これからすぐ伺ひます。大丈夫ですよ。心配なんかいりませんよ。Hホテルですね。あなたのゐらつしやるところは、此処からすぐなんですの。いくらもないのですの。ホテルの何処? 二階? さう? 三階なの? 三階の右の二番目の室なの? ぢやすぐ行きます……」かう言つて、チリチリンと電話が切れた。かれは暫らくそこに立尽した。不思議な気がした。そこにある電話の口も
把手も、電話帳も、その狭い室にさし込んで来る
灯の光線も何も彼もすべて
喜悦に輝いてゐるやうにかれには思へた。
三
かれはやがて元の室へともどつて来て、暫しは
茫然として椅子に腰を下してゐたが、まア少し片附けようと思つて起上つて、そこに
卓の上に出してある雑誌だの案内書だの報告書だのを鞄の中に入れて、それを向うの方へと持つて行つた。紙屑の散ばつてゐるのは、屑箱の中に入れ、紅茶茶碗のよごれてゐるのは其方の
卓の方へと持つて行つて置いた。かれは不思議な気がした。此処で、かういふところでかの女に逢ふといふことは、
此方に来るまでは想像も出来ないことだつた。否、
此方に旅して来てからは、長い間かの女に逢ふことを目的にしてゐたにはゐたにしても、それが着々と進捗して、こつそりと誰にも知れずに、二つの心と二つの体がかういふ風に塞外のホテルの一室に相対しようとははつきりとは思つてゐなかつた。Bはまたしても椅子に身を
凭らせて冥想的にならずにはゐられなかつた。
Bとかの女との関係、時子が何うしても
此方に来なければならなくなつた理由、今でもその世話になつてゐる人から時子が離れることは出来ないらしい物語――それは此処には言ふ必要はなかつたほどそれほどかれ等は相逢ふことを喜ばずにはゐられなかつたのである。その世話になつてゐる人の上から言へば、さうしたことはとても堪へられないことであつたらうけれども、罪であつたらうけれども、しかしかうしたパツシヨネイトな心と心とが相触れるといふことは何うすることも出来なくはないか。咎めたところで咎めきることは出来なくはないか。しかも、それも長い間ではなく、せい/″\四五日――それを通過しさへすれば、あとはいかに逢ひたくとも再び逢ふことが出来なくなる二つの心と体とではないか。それは世話になつてゐる人に対しては罪ではあるが、その罪は赦さるべきではないか。四五日後にはいかに燃えても再び相見ることが出来ないといふことで許さるべきではないか。否、考へるともなくさうした考へに
耽つた時には、Bは何とも言はれない悲哀に落ちずにはゐられなかつた。さういふ風に触れ合つた二つの心が、この世の運命といふものゝために、再び遠く離れ去らなければならないことを考へた時には、かれは深く、一層深く恋愛の淵に臨んだやうな気がした。
突然、かれは軽いスリツパの音の遠くからきこえて来るのを聞いたやうに思つた。かれははつとして耳を
欹てた。次第にそれは階段から廊下の方へと近寄つて来る跫音だといふことがわかつた。しかしそれはひとつの跫音ではなかつた。何か女同志が囁き合ひながら歩いて来てゐるのであつた。いきなりBは全身に強い衝動を感じた。かれはかの女の
気勢と声とを感じたのである。
「この
室ですね?」
(さうです)
さうした声が耳に入つたと思ふと、
扉の
把手がぐるりと廻つて、さつきの女中の小づくりな蒼白い顔がひよいと見えて、その向うに、色の白い、眼のぱつちりした――その眼から額へかけては、何遍夢に見たか知れないその時子の顔が
笑を含んで
此方を見てゐるのをBははつきりと見た。
Bは急いで
起上つた。そしてそつちへ二三歩近寄つた。
「お!」
「まア、貴方!」
女中が見てゐなかつたら、かれ等は互ひに抱き合つたかも知れなかつた。Bは時子の眼の中に光つたものを見ると同時に、かれの眼にも熱いものが溢れて来るのを感じた。時子は
何方かと言へばじみなつくりをしてゐた。以前から派手なのが嫌ひで、まだ若いのにあまり年増づくりだなどと言はれたのであつたが、その好みは今でも変らないらしく、黒繻子の帯に
素銅の二疋鮎の
刻のしてある帯留などをしてゐた。髪は前の大きく出た割合に旧式な束髪にしてゐた。それにも拘らず、そのすらりした姿は、明るい
室の夜の光線の中にくつきりと浮び上つて見えた。
時子は椅子にも腰かけず、ぢつと立つてかれの方を見詰めた。Bも何と言つて好いかわからなかつた。かうして相対しない以前にあつては、行つたならば誰がゐたつて構ふことはない、抱擁するなり握手するなり、思ふまゝに振舞はずにはゐられないだらうと思つたものであつたが――接吻なり何なりあらゆるパツシヨンネイトな表現を互ひに即座に現はさずにはゐられまいと思つてやつて来たものであつたが、しかも、いざ相対したとなつては、とてもそんなことの出来ないものであることをBは痛感した。沈黙――それが何よりの言葉だ。また何よりの深い情の表現だ。
女中は案内がすむとすぐ出て行つて了つた。
二人は尚ほ暫く黙つてゐたが、やがて女は涙を目に一杯ためて、二三滴膝の上に溢れ落ちるのをそのまゝにして――しかも強ひて笑つて、「だつてしようがないんですもの……御免なさい!」
「………………」
Bもつとめて涙を押へるやうにした。
「しようがないのね。
意気地がないのね。貴方、可笑しいでせう?」
涙顔を拭きもせずそのまゝで笑つて、「だつて、三年の
後でこんなところで御目にかゝつたんですものね。よく忘れずにゐて下すつたのね? 私がわるかつたのに――」
「……………………」
「さつきの電話で、貴方の声を聞いた時にはわく/\して了つたんですもの……。変だつたでせう?」
「それに、あの電話のわきに皆ながゐるんだらう?」
「それもあるんですけれどもね。そんなことは構はなかつたんですけれども……。これで私あそこでは割に自由にしてゐますの。義理でも叔母は叔母ですからね。それよりも、唯、わく/\して言葉も何も出ないんですもの……。変なものですね。嬉しいんだか、悲しいんだか、何も
彼もごつちやになつて了つたんですもの」
「僕だつて、さうだつたよ」Bはやつとこれだけを言つた。
再び紅茶を持つて女中が入つて来た時には、最早二人は相対して椅子に腰をかけて徐かにしてゐた。割合に普通の話を取交してゐた。
「それにしても、
此方はいやに
冷つくね。もう六月だつていふのに、
袷では寒いね!」
「それはさうですとも……。やつと
此方は春の好い陽気になつたばかりですもの……。アカシヤの花がやつと咲き出したばかりなんですもの。今までは……ねえ、お春さん――」女中を顧みて、「丸で内にばかり籠り切りで暮してゐたんですもの。ハルピンはこれからですよ。公園などにもこの頃やうやくロシアの女が出るやうになつたんですもの――」
「本当で御座いますねえ! やつと冬から出て来たばかし――」女中はかう言たが、そのまゝ徐かに
扉を閉めて出て行つて了つた。
「それでも痩せたね?」
「さうですか――かういふ気風ですから、別に苦労もしないんですけれども……。あの時分は肥つてゐましたもの……」
「病気をしたんぢやないか」
「来た時に、一度わづらひましたけれども、それからずつと丈夫で暮してゐますの……。どつちかと言へば、土地が
異つても別に何ともない方ですの――」
「面白いことがあるかね」
「別に面白いつていふこともありませんけれどもね。でも生きてゐさへすれば、もう一生お目にはかゝれまいと思つた貴方にも逢へるんですから……。それを思ふと、矢張り生きてゐる方が好いんですね。でもよく来て下すつたのね。私、本当にお礼を申上げるわ……」
「だつて、そのために、お前に逢ひたいばかりに、かうして話が出来なくつても好い、一目でも好い、さう思へばこそ、こんな満洲のやうな赤ちやけた殺風景な山や野ばかりあるところにやつて来たんだもの……。でも、今夜は帰らなくつてはならないんだらう?」
「好いんですとも、帰らなくつたつて――」時子はこんなことを言つて笑つた。二人の間にはいつかさつきの重苦しい感じは過ぎ去つて了つてゐた。否、いつの間にか時も過ぎて、
卓の上の時計の針は既に十一時に近いところをさしてゐた。それにしても、何といふ恋のパラダイスだらう。ホテルの三階の一室は、今夜に限つて、深夜の闇の中にくつきりとその明るい窓を際立たせてゐた。空には星が燦爛として輝いた。