動的芸術

田山録弥




 静かな芸術から動いた芸術に進んで行つた。それが新しい文学の最近の傾向であると思ふ。
 動いた芸術と言ふことは、動いた物象、動いた人物、動いた心理――さういふものをそのまゝに現はさうとする芸術である。動いている……樹が風に動いてゐる……それをそのまゝ描く。
 将来派の芸術は無論さういふ処を狙つて興つたものに相違ない。心の萎靡頽敗ゐびたいはいした形でも、昏迷惑溺こんめいわくできした形でも、何でも、それをそのまゝに、気分のまゝに描かうとした処が面白い。
 心の現象と外面の現象とのぴつたり合つた処に起つて来る動的情緒、その気分を描くには、在来の単純な描法を用ゐてゐては十分にその効果を現はすことが出来ないにきまつてゐる。では、何ういふ方法を用ゆるかと言ふと、それは研究すべき問題で、中々一朝一夕には言はれないやうなものであるかも知れぬ。しかし私の考では、影の多い文章を書くことが必要だと思ふ。つまり単純でない文章である。いろ/\細かい気分がその周囲にくつゝいてゐるやうな文章である。
 淡い中に濃い影をつゝみ、原色の中に複雑した色彩を包むといふことは、芸術上の唯一の至妙境に達するものでなければ容易に解することの出来ないやうなものだが、そこまで達することが、動的芸術を作るに於て最も必要である。一句、一章――そこに躍動した影が自然に出て来なければならぬ。
 静的芸術と動的芸術とを比較して見ると、前者は何うしても過去的、追憶的で、その芸術は物語風になつて行く傾きがある。これに比べると、後者は現在的、刹那的、描写的で、少しでも過去になつて行くやうなところがあると、その運動はすぐ停止されて、そして停滞して了ふ。
 動くといふことは現在のことである。現在ばかりのことである。過去があつても、それは純粋の意味の過去ではなくつて、現在に来て融和されて了つた過去である。現在と一緒になつて動いてゐる過去である。であるから、静的芸術では過去は過去として描かれ、現在は現在として描かれてゐるが、動的芸術になると、あらゆるものすべて現在で、それが平面的に生きて動いてゐる。物語といふものがその原則から言つてすつかり亡くなつて了つてゐる。
 私はこの運動を大変に面白いと思ふ。リアリズムからナチユラリズム、ナチユラリズムからインプレツシヨニズム、それからこの動的芸術は一歩を進めて出て来てるのである。作者は物語から描写に行き、そこからこの活動に出て行つた。
 ホルツの徹底自然主義などもこの運動に間接に連絡してゐると私は思ふ。ホルツの見た所も、矢張現在にのみ行かうとしてゐる。つとめて御話風の処を脱却しやうと心がけてゐる。『真に迫る』といふモツトウ以外に、絵画的平面的にならうとするやうな特徴が徹底自然主義に十分に明かに見えてゐるが、そこがこの動的にならうとする運動と相連絡してゐる点である。しかし、印象派の絵画はまだ十分動的ではない。モネあたりには、もう余程さういふ処が見えてゐるが、――『停車場』だの、『セイネ』だの『水の上』だのはその好例だが、それでもまだ静かな心持、言ひかへれば過去を味つたやうな心持が一面に満ちてゐる。刹那の気分を尊重してはゐるが、それは動いた刹那でなく、静まつた刹那である。空気、光線をも描くまでにその描法は進んでゐても、それは矢張停滞した空気、光線である。
 ホルツの徹底自然主義も矢張それと同じである。刹那まで進んで行つた形はいかにも面白い。……だの――だのまで用ゐてそれを現はさうとしたのなども面白い。しかし矢張、まだ停止してゐる。印象派の絵画的に停止してゐる。で、ホルツの芸術は宜しく一歩を進むべきであつたが、つひに其処まで出ずに、単に一形式として文芸史上にその名を留めたに過ぎずに終つた。
 平面的、印象的で、そして刹那的に動いた芸術が段々提供されるやうになつて来た。
 自然(実際)に於ても、時間といふものはあるやうでないやうなものである。二千年前と今と同じだ。多少の変化があつても、それは大きな意味から言つて眼にも見えないやうな変化である。人の上に人が重なり、世の上に世が重なり、時間の上に時間が重なり、そしてそれが皆な現在に来てゐる。現在に来て融和されてゐる。現在を透してのみ人は過去を認めてゐる。だから物語といふものは、物語そのものよりも、物語つた時の心持の方が重大なものである。現在を離れては、物語は完全に成立しないやうなものである。そこに、眼を附けて、段々発達して来たのが、現代の新しい文学の根本生命である。
 時間のないやうなものだと言ふことは、芸術に於て殊に多く証拠立てられてある、傑作を読んで見ると殊にそれがよく分る。西鶴、近松、もつと溯つて源氏あたりでも、その人を動かす処には、時間がない、過去がない、全く私達と共通してゐる現在である。
 現在的、刹那的――そこからより外に、動的芸術は生れて来ない。そこを私達は考へて見なければならない。
 それに、動的芸術に於ては、かういふことが必要だ、既に現在的であり刹那的である。即ちその根本約束に於て、抽象的であり得ないと共に、作者の回顧的、追憶的、打算的の心持を容るゝ余地が絶対にないといふことである。即ち、主義とか観念とかさういふものがなくつて、運動――唯、運動があるばかりである。有意識無意識を問はず、唯作者の主観と外物との燃焼の上に生じた生々とした運動が認められるばかりである。
 動いたまゝのインプレツシヨニズム――私は其処に新しい芸術を認める。
 一方に於て平面的で、そして一方に於て立体的であらうとする芸術である。
 時間といふものを眼中に置かないのも、またその一特色である。
 私はかういふ傾向に長い間対してゐた。リアリズムの整正、細緻、それと比べると、殆ど正反対な傾向を持つてゐる。遠近法などゝいふものは殆ど無視されてゐて、それで却つて、根本的運動を示さうとしてゐる。根本的写生を試みやうとしてゐる。面白いことだと思ふ。
 人間は常に自然を師としてゐる。自然を外にしては、殆ど何等の新しい運動をも産出することが出来ない。唯、その自然に対する見方が千変万化で、そこから種々な反対矛盾したやうなものが生れて来る。そして実はそれが皆な融和すべき本質を持つてゐる。
 しかし、この動的芸術がいかなる効果を此の世界に持来すかは、無論疑問である。動的芸術はその描写法に就いて、或はその遠近法に就いて、将来種々の難関に邂逅しなければならないと思ふ。時間のないことゝか、飽迄具象的で、刹那的でなければならないといふことは原則上(自然を標準にして)面白い意味のあることだが、さてこれを何うしたら、完全に、縦横に、且つ自然に芸術とすることが出来るか、それはこれから十分に研究すべきことだと思ふ。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「毒と薬」耕文堂
   1918(大正7)年11月5日発行
初出:「文章世界 第八巻第四号「若草号」」博文館
   1913(大正2)年3月15日
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2020年12月27日作成
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