波の音

田山録弥





『何うもあれは変だね?』かう大学生の小畠こばたはそこに入つて来た旅舎の中年の女中に言つた。それは広い海に面した室で、長い縁側と、スロオプになつてゐる広場とを隔てゝ、向うに波の白くすさまじく岩に当つて砕けてゐるのを目にするやうなところであつた。
『え?』
 頷で客の指す方に眼を遣りながら女中は訊いた。
『あの女さ?』
『あ、あの岩の上の? 本当ね? 何うかしてるのね?』女中もぢつと其方の方を見た。
 岸に近く、大きな岩の突立つてゐるその一角には、さつきからその女――十八九の女学生風の庇髪に結つた女が、さも大海おほうみのどよみに引込まれてでも行きさうに、ぢつと長い間立ち尽してゐるのをかれ等は目にした。さつきまでは立つてゐたのが、今はいくらかこゞみ加減に岩の一角に身を寄せるやうにしてゐた。
『さつきから、あそこにゐるんですか?』
『さう――』
 小畠は答へた。
『いやねえ! さつきも向うでそんなことを言つてゐたんですけどもね。誰か言つてやつて呉れると好いのねえ!』女中はぢつと其方を見詰めるやうにして、『もしものことでもあると、それこそ本当に可哀相ですからねえ?』
うちの客?』
 小畠は訊いた。
『いゝえ、家のお客ぢやないんですけどもね。何でも、K館に来てる客ださうですよ。昨日からですよ、あゝしてあちこちに立つてゐるのは。何でも昨日の夕方とか、向うの松原の中を泣きながら歩いてゐたのを見たものがあつたので、それから皆なが気が附き出したんですツて? 何でも、家の番頭さんがK館に言つてやつたさうです?』
『ひとりつきりなの?』
『さうですつて。…………あとから誰か来るやうな話で、一昨日から来てゐるんださうですけども。――そのつれなんか来やしないんですつて?』
『可哀相だな』
『本当に誰か言つてやつて呉れると好いと思ふのねえ。あの若さで、間違ひでもすると、それこそ可哀相ですからねえ』
 女中はまたその岩の上の方をぢつと見た。
 大学生の小畠には、しかし何うすることも出来なかつた。自分で言つてやりたいやうな気持もしないではなかつたけれども、さうかと言つて、余り軽挙かるはづみに、果してさうか否かもわからないところに出て行くわけにも行かなかつた。かれは軽い胸の故障を治すために半月ほど前から此の海岸の旅舎に来てゐるのであつたが、そのわかい心には、波の音も、雲のたゝずまひも、松原を透してさし込んで来る夕日の影も、微かな音を立てゝ沖を通つて行くエンジン仕かけの漁船も、すべて情緒を惹くの材料とならぬものはなかつた。かれはレクラムのハイネの詩集を手にしつゝ、いつも裏の松原から灯台の方へと出て行つた。時には、日の暮れ果てゝ了ふまで、その灯台の丘の上に立つてゐることなどもないではなかつた。かれも昨日の夕、帰つて来る松原の一角でその女学生風の女が向うから歩いて来るのにふと出会でつくはしたことを思ひ起した。青白い、何方かと言へば丸顔の美しい顔が浮き出すやうに薄暮の海岸の空気の中に見えてゐたことを思ひ起した。
『駐在所では知つてゐるのかね?』
『何うですかね? 知つてゐても、あそこにゐる巡査はのんきですからね?』かう女中は言つたが、しかしいつまでもそんなことに取り合つてゐるわけには行かないといふやうに、そのまゝすたすたと長い縁側を向うの方へと行つた。


 暫く経つた後には、その岩の上には、最早その女の姿は見出されなかつた。いつ下りたともなしに――いつ下りて磯を通つて行つたともなしに、その空しい岩の上には、唯白く凄じく波が打寄せてゐるばかりであつた。
 不思議にも小畠には、その女のことが気になり出した。かれは立つて縁側へと出て行つた。そしてあたりを見廻した。そこからは遠く長崎の鼻の方まで見える筈であつたけれども、しかも何処にもその姿を見出すことは出来なかつた。かれは其処にあつた草履を突かけて磯の方へと出て行つた。
 まさかにあのまゝ身を投げて了つたとは思へなかつたけれども、また、そんなことを気にして見たとて為方しかたがないとも思つたけれども、しかもかれは磯から磯へ、松原から松原へと行つて見ずにはゐられなかつた。かれはさうした不仕合せな娘の涙がそのまゝその身に迫つて来るのを何うすることも出来なかつた。かれは日の暮れるまで松原の中をあちこちと歩いた。


 夕飯の時に、同じ女中がそこに来て坐つた。
 小畠は訊いた。
『さつきの女は何うしたね?』
『よく知りませんけれども、K館でも家で知らせてやつたり、何かしたもんですから、注意してゐるさうですから、大丈夫でせう。あれから、家に帰つて手紙か何か書いてゐたさうですよ』
『ふむ――』
『今夜あたり危ないんぢやないかね?』
『大丈夫ですよ。何でも向うの番頭がかゝりきりで気をつけてゐるさうですから……』かう言つたが、盛つた茶碗を盆に載せて戻しながら、『何うなすつたの? 大変気になさるのね?』
『だツて?』
『それは死んでは大変ですけどもね。大丈夫ですよ。そんなに、わけなく人間は死ねるもんぢやありませんよ。本当に死ぬ気なら、あんなに彷徨ふら/\してゐはしませんよ』
『それはさうだらうけども――』しばし黙つて、『でも、死なうにも死ねずにゐるのが可哀相ぢやないか?』
『それはさうですけども?』
『よくかういふのがあるのかねえ?』
『え……時々ありますよ。いつかなんか、飛び込みかけたのを後から押へたことがありますよ……。死にたくなくつて死ぬものは、るたけ人目のあるところで飛込みますね?』
『さうかな』
『ですから、あの娘なんかも大丈夫ですよ』
『さうかな』
 かう言つたけれども、しかも小畠は安心することは出来なかつた。夜の空気は余り体に好くないと思ひながらも、かれは浜辺をそここゝと歩いた。
 岸に打寄せて砕ける波が白く線を成して見えた。灯台のともしびは、廻転する度に、その幅の広い、大きい、長い光芒を夜のくらやみに曳いて行つた。海は真闇で、船の灯らしい灯も見えなかつた。
 小畠は深く人生を思はずにはゐられなかつた。かうして立つて歩いてゐるかれすらも、来年はもはやこの世にゐるかゐないかわからなかつた。その女は勿論、かれすらもこの世の中にゐなくなつて、波ばかりが高く※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)つてゐるやうに思はれた。かれは松原の夜露に濡れながら裏口からそつと自分の室へと帰つて行つた。


 ぽつかりと眼が明いた。ドウ、ドウ――波の音が凄じくきこえる。と、その波の中にその女の浮びつ沈みつして漂つてゐるのがはつきりと眼に見えるやうな気がした。瞬間! 今の瞬間! それがあの女の生の終極! もはやその荒波の中にもまれてさひなまれてそして呼吸も絶え果てゝ了つてゐる。その長い黒髪が海水の中に藻のやうに乱れてゐる。着てゐる着物も脱げて、白い肌があらはに水中に漂つてゐる……。と、かれは一種の深い衝動を総身に感じた。かれは身が縮まるやうな気がした。かうしてはゐられないやうな気がした。昨日の中に言つてやれば、言つて慰めてやれば、さうしたことはなかつたのに、思ひ返して生きてゐて呉れたかも知れなかつたのに――と、今までそれと知つてゐながら黙つて見てゐた自分の罪が許すべからざるもののやうに思はれ出して来た。かれは床から起き上つた。そして溜呼吸ためいきをついた。
 否、そればかりではなかつた。かれは廊下へと出て、裏口の戸を一枚そつと明けて見た。遅く月が出たと見えて、しんとした松原が明るく銀色に光つてゐるのをかれは目にした。かれは昼間はとても見ることの出来ない他界の光景をそのままそこに発見したやうな気がした。かの女ばかりではない、自分すらも波の音に誘はれて行きはしないかと思つた。
 松の葉が一枚一枚はつきりと数へられるかと思はれるほど、それほど明るく銀色に月はさし込んで来てゐた。かれは祈るやうな心持で、(あしたまで生きてゐて呉れ! 何うかして生きてゐて呉れ!)かう深く自分に言つた。(さうしたら――あしたまで生きてゐて呉れたら、屹度僕が救つてやる、屹度救つてやる!)で、かれはそこに立ち尽したまゝ、暫しは身を動かさうともしなかつた。
 波の音がいへうごかすばかりに高く高くきこえて来た。


 女中の顔を見るや否、いきなりかれは訊いた。
『何うしたらう? あの女は? 死にやしなかつたかしら?』
『何うですかしら?』
 女中は晴れやかに笑つて見せた。かの女に取つては、そんなことは何でもないといふやうに見えた。朝日は明るくあたりに照つた。昨夜、夜中に見たやうな光景はもはや何処にもその面影を留めてゐなかつた。岩の上には白く波が打寄せて来た。
 かれがその娘のことをその女中から詳しく聞いたのは、それはもはや昼近いころであつた。娘は昨夜も手が離せなかつたといふことであつた。夜中にそツと裏口を開けて出やうとするところを、隣に寝てゐた番頭に見出されて、幸ひに何事も起らなかつたけれども、今だにその危険は除かれないので、K館では困つてゐるといふことであつた。駐在所にも届けるには届けて置いたけれども、さう厳しく言ふことも出来ず、またさう厳しく言つたために、却つてその死を促すやうなことがあつてはならないと言つて、唯、陰ながら保護してゐるぐらゐなもので、それ以上には何うすることも出来ないといふ話であつた。
『そして家にゐるのかね』
『何うですかね』
『まさか、さうかと言つて、外に出さないツていふわけには行かないだらうからなア……』
『困つてゐますよ。K館では――』
『可哀相だな』
 小畠に取つては、何うしても自分が出て行くより他為方がないと言ふやうな気がして来た。(さうだ――俺が行かう! そしてやさしく言つてやらう! さうしたら、わかるだらう。わからないことはあるまい。もし、俺が出て行かないために、そのまゝ死なせるやうなことがあつては、それこそ遺憾だ……。それこそその罪――それははつきり罪とは言ふことは出来ないかも知れなかつたけれども、しかし救ふことの出来るものを救はなかつたといふ心苦しさが一生自分について廻るにきまつてゐる)と、その美しい青白い女の丸い顔がはつきりとかれの眼の前に浮び出して来た。
 かれは出かけて行つた。磯から磯へと歩いた。K館の前をも行つたり来たりした。と、丁度よくそこにその番頭がゐたので、それとなしに、その女の家にゐるかゐないかをたしかめて見た。番頭の話では、女はさつき灯台の方へと出かけて行つたとのことであつた。
 番頭はかれの方をじろじろ見ながら、
『あの方をあなたは御存じなんですか?』
『いゝえ……』
『ぢや、何うしてそんなことをおきゝになるんですか?』
『いや、ちよつと――』
『貴方はC館のお客さまですね?』
『さうだ――』
 番頭はもう少し何か言ひ度さうな顔をしてゐたけれども、かれがそのまゝ此方へ来て了つたので唯ぢつと此方を長く見送つてゐた。彼は一番先きに灯台の方へと出かけて行つた。
 そこは石工達が深く石を掘り下げたために谷のやうになつてゐるやうなところであつた。かれは灯台の前からぢつとその裏の胎内くゞりの方へと行つた。そこにも女の姿は見当らなかつた。
 かれはそこから灯台の反対の方に出て、石切谷の向うからひろびろと連つてゐる砂浜の方へと歩いて行つた。波濤はたうが白く線を成して打寄せて来てゐるのが見えた。


 たうとう松原の角のところで、小畠は女の姿を発見した。
 女は下に展げられた海をぢつと見詰めてゐたやうだつたが、かれの近寄つて行く足音を聞きつけて、そのまゝ青白いさびしさうな顔を此方に向けた。
 すぐ娘は立つて向うへ行かうとした。
『ちよつと、ちよつと……』
 小畠は声をかけた。
『………………?』
 女は迂散臭うさんくささうに、また声をかけたものの何者であるかを探すやうに、疑深うたぐりぶかい眼をかれの方に向けた。
 小畠は近寄つて行つた。『少し、お話したいことがあるんですがね?』かう言つただけで、あとは何も言はないでも、娘にはそれが何であるか、敵であるか、味方であるか、かの女を捉へるためにやつて来たのか、かの女を慰めるためにやつて来たのか、それともまたかの女を死の淵から救つて呉れるために、否、或はそれ以上にきずついたかの女の心を蘇らせて呉れるためにそこにあらはれて来たものであるのかといふことがひとり手にわかつた。女はいきなり枯れた草原に身を突伏した。そして夥しく泣いた。二人は始めて口をもきゝ合つた身ではなしに、既に深くその苦しさを知つて呉れてでもゐるものか何ぞのやうに、心も体も此方こつちに寄せかけるやうにして泣いた。午後の日の光線のさしあたつてゐるしんとした松の林の中には、女の泣声が微かに震へるやうにきこえた。
『本当に、本当に……もう泣かなくつても……泣かなくつても好いんですから、ね、ね、ね……』男のいたはる声が静かにした。
 女は打伏しに袖で顔を蔽つたまゝ、暫しは泣くをとゞめなかつた。小畠は小畠で、何をきかなくとも、その悲哀が、苦痛がはつきりとすべてわかつたやうな気がした。
『本当にもう泣かなくつても……何うにでもしますから……。ね、ね、してあげますから』
 男は女の背を撫でるやうにして小声で言つた。
 泣き止ないのをやつとなだめ賺した時には、女はもう袖を面に当てゝゐなかつた。涙に泣き濡れたかの女の顔には、死ばかりか、心の傷痍きずをも救つて呉れた男に対する感謝の色がはつきりと上つて来てゐた。頭上では松の音が微かに鳴つた。





底本:「定本 花袋全集 第二十二巻」臨川書店
   1995(平成7)年2月10日発行
底本の親本:「草みち」宝文館
   1926(大正15)年5月10日
初出:「女性改造 第二巻第四号」
   1923(大正12)年4月1日
入力:tatsuki
校正:津村田悟
2019年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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