批評的精神を難ず

田山録弥




批評的精神


 批評的精神とか、自己を深く見詰めるとか言ふことも、人間としては決して第一義的ではない。無論さうしたことも人間には必要なことであり、なくてならないことであり、ある時期には人間の修養上、研究上、または自然に促された要求として、さういふ種類の心持をかなりに多く持つものであるが、しかしそれは決して全身的または根本的ではない。もしそれが総てゞあるやうになれば、その人は必ず行詰つて了ふ。平凡で、単調で、終には何うにもかうにもならなくなるやうに疲れて了ふ。
 何故かと言へば、人間はいくら見詰めたとて、いくら解剖したとて、さうした処の境地では到底深いところに入つて行くことが出来ないからである。これはあゝである、かうであると理解したところで、それは知識としてこそ役立つばかりで、第一義的には何うにもならないからである。単に批評するといふ心持では、人生もよくはわからないし、芸術もよく味ふことは出来ない。
『うん、あれはあゝなるのは当り前さ』
 かういふ風に、すつかり自分独り飲み込んでゐるやうに、自分は何でも知つてゐるやうに簡単に言つて了ふ人を私はよく見かけるが、それは批評ばかりで世間乃至人間を見てゐるからである。そしてさういふ人間には、決して物の真相はわからない。いつも膜一重隔てゝ物を見てそしてそれが本当だと思つてゐる。
 世間を見渡すに、実に、批評が多すぎる。おせつかいが多すぎる。本当のことは少しもわかりもしないのに、色々なつまらない評判ばかりを立てゝゐる。それもその批評が正鵠を得てゐて、矢が黒星に当るやうなのならば好いが、少しは人間のためにもなるが、碌々当りもしないペラペラ矢で煩さくやつて来るのだから堪らない。そしてさういふ人達の言ひ草が面白い。『だつて為方がない、自分の眼の前に、さうした物体があるんだから為方がない。さういふペラペラ矢を放つのも自分の天職だから為方がない』とかう言つてゐる。何故もう少し本当の核心に向つて進んで行くことをしないで、さういふところに甘んじてゐるのだらうか。
 それは批評的精神も、我利々々の連中とか、または何も知らない初心なエゴイストとかには役に立つかも知れないが、少くとも根本的の人生乃至人間には余り必要がない。今では私などは寧ろその批評的精神を払ひ捨てゝ了ふために努力してゐる。
 生中なまなか批評的精神などがあつては、見ようと思ふものも見えない。聴かうと思ふことも聞けない、味ふと思ふことも味へない。私達は既にあまりに研究とか比較とかといふことには魂を浪費した、批評的精神のために本当のものを曇らせられた。磨きつゝあると思つてやつてゐたことは、実はその心の疑を曇らせるためにのみ役立つて来てゐたのであつた。私達はもつと本当でなければならない。世間的な批評的精神などに惑はされてゐてはならない。
 今になつて批評的精神なぞと言ふのは、折角出て来た古い殻の中にあと戻りをして行くやうなものである。

全身と全心


 私達は今はさうしたものでなしに、全身を以て、または全心を以て他に触れて行かなければならない。人を研究しようなどゝ思つてはならない。人を材料にしようなどゝ思つてはならない。さういふ態度では、何処まで行つたつて、人間の本当のことはわからない。私達は人間の中に自分と同じ心、同じ姿、同じ魂を発見することにつとめなければならない。これが好いとか、あれがわるいといふことではない。同じ心、同じ姿、同じ魂をぢかに行つてつかんで来なければならない。自己のすべてを持つて、他から他のすべてを探して来なければならない。

告白と芸術


 告白文学の議論もかなりに喧しいやうに見受けられた。しかし、これなども人生派と芸術派の立場の違ひを言つてゐるやうなもので、あれだけでは何でもない。あれからまだ先がある筈だ。自然主義の行詰まりか、それともそこから曙光を発見するかと言つてゐるが、無論そこから曙光が発して来るのである。自他融合の第一歩はそこから光を放つて来るのである。
 告白文学などゝいふ字は一体誰が言ひ始めたのか知らないが、いやしくも芸術であつてそして告白と言ふことがあるであらうか。告白らしい分子が多いとか少ないとかで、それでそんな批評をするのであらうが、告白なら告白、芸術なら芸術で、全くその種類からちがつてゐなければならない筈である。作者の根本の態度でちやんときまつてゐなければならないものである。それを批評家は、『しかし、そこから受けた興味が告白的興味』だからと言つて、それに告白と言ふ字をかぶらせ、『告白文学の流行』などゝ言ひ廻はしてゐるのは、余りに雑誌や新聞の手先に使はれすぎてゐはしないか。
 告白は何処までも告白でなければならない。芸術は何処までも芸術でなければならない。告白には懺悔が伴ふが、芸術にはいかに告白的分子が多くつても懺悔は決して伴つてゐない。読者がさういふことを感ずるのは、作者その人がその自伝的記実を単に自己のものとしてないで、万人のものとしてゐるところから起つて来てゐるためであつて決して懺悔的にやつてゐるためではない。自伝体小説は、内容的に言つて、人道的にその行動を批判されるのは為方がないが、それはそれで別に意味を成すが、それと芸術的分子とをゴツチヤにして、無闇に告白的文学などゝ言ふのは何うしたものか。
 その中で、ある匿名の人は『自からつくつた罠に入つて、それで勝手に苦んで、そしてそれを幅で書いてゐる』と言つてゐた。これなどは私の『残雪』に当てゝ言はれたものらしいが、私はへえ! と思つた。不思議な気がした。何故なら、余りにコンベンシヨナルな言方であるからである。余りに普通道徳を説く人の言葉に近いからである。芸術を知つてゐるものにはちよつと言ひたくつても言へないものであるからである。
 自からつくつた罠と言ふが、誰が自からつくつた罠に入つて行かざるものがあるか。避け、用心し、注意しつゝも、人間は時として繋縛けいばくの中に落ちて行くものではないか。根本的に、人間にはさうしたところがなくはないか。
 それに、作者は決して幅では書いてゐない。必ず何等かの批判をその中に蔵してゐる。作者の苦しんだ形、またその苦んだ形を芸術のために折伏せふぶくして進んでゐる形が何処かにある筈である。
 この折伏! 芸術の為めに折伏! これを批評家は見なければならない。それさへ見たなら、『告白文学』であるかないか、自伝的小説であるのはその材料だけであつて、さういふことは問題とするに足りないものであることはひとり手にわかつて来なければならない。

スタイルを重んぜよ


 作をするものは、何を措いても、新しい表現、新しい感動、新しいスタイル、さうしたものに全心をそゝがなければならない。単に新しいといふと語弊があるが、それはつまり作者の心が、魂が芸術をつくる場合には、いかな場合にも活躍してゐなければならないといふことである。思想的であり内容的であるといふことよりも一層その活躍の方が必要である。作者自身すらきたやうなものを何遍も何遍も繰返して書いて見たところで、人を動かすわけがない。またいかにそれが内容的であつたとて、人を動かす力がなくなつては、芸術としては役に立たない。芸術は気分であり力であり魂でなければならない。

 しかし、新しいと言つても、それは近頃の文壇の人のやるやうな、ちよつとした目新しいことを言ふのではない。めづらしい事件とか、不思議な事件とか、さうした題材を選んで見たところで、作者の内部が本当に新しい感動――全心全体の新しいスタイルを生み出すやうな緊張を持つてゐなければ、徒らに好奇の名を博するばかりに留つて了ふ。私とて決して探偵小説を好いと思はない。まためづらしい題材だけに引寄せられはしない。『大正の鏡花』の再生などは余り好いとは思つてゐない。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房
   1923(大正12)年4月15日
初出:「文章世界 第十三巻第十号」
   1918(大正7)年10月1日
※「苦しんだ」と「苦んだ」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「秋海棠」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:hitsuji
2022年2月25日作成
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