文壇一夕話

田山録弥




現実といふ意味


 現実に接触したところに今の新興文芸は生れたのだと言はれる。現実なるものゝ意味をよく了解することの必要なるは言ふ迄もない。然るにその根柢を為して居る現実が、多くは空疎な抽象的のものになつて了つたり、大ざつぱなものになつて了つたりして、まだ真に実際的の現実を理解し飲込んで筆を執るといふ態度の尠ないのは甚だ心細い、例へば処女が妻となり、母となつて現実に触れて行く事実は世の中に有りあふれた日常の些事さじである。その平凡な事でも真率な心を以てマジメに考察し研究して見ればそれが動かすべからざる実際の現実である。殊更に特異な感じや、事件の発展に興味を繋いで居る人達は、やはり空な現実に煩ひされて居るからであるまいか。

経験といふ意味


 私とて必ずしも現実なるものを知つてゐるとは言はない。けれど経験は多少私をしてこの世間の現実を思はしめた。私はその現実を低い地上のたしかな立場から、自分の心持に照して作品に顕はしたいと思ふ。つまり私一個だけの現実、個人を通じて見た現実のライフである。即ち私自身の現実なりライフなりを芸術と結合むすびあはせて行かうといふのが私の主意だ。私の茲にいふ現実は、各個人が実際に接触して得たところの現実といふ意味に他ならない。

子供


 私に子供があるとする。『子供は可愛いものでせうね?』と訊かれる。『否』と私は答へる。そんなら『憎いか』と訊かれても、また『否』と繰返す。
 或時は憎く、或時は可愛いのが、子供に対する心持である。
 島崎君は『芽生めばえ』の中に子供は自分の一部分であると書かれた。
 子供との関係は本能の関係である。

似非デカダン


 自己の生活に濫して酒肉を買ひ、はたに迷惑をかけてもてんとして恥ぢないやうな、生若い似非デカダン、道楽デカダンには私は何時も怖毛おぞけを振ふ。

イブセン


 曾て長谷川天渓君がイブセンの作風を雪舟の絵画に譬へて言はれた。あの骨ばかりの肉を付けない作風はたしかに雪舟の山水そのまゝである。彼独特の領域にして、北欧の風雪がつちかつた奇峭きせう、峻厳、冷酷の気は、あの粗ツぽく力強い筆致に遺憾なく描破されて居る。ツルゲネエフやフロオベルのやうに柔かい肉附けをした作家から見たら、イブセンの作柄は如何にも没趣味な殺風景な、非芸術品に見えたであらう。
 私の見る所ではイブセンは非常な経験家であつたらしい。なげき※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいた苦悶の子といふことが歴々あり/\と解る。手強くなすつた刷毛跡の一筋にも、彼の涙と溜息が潜んで居るやうに感ぜられ、鋼鉄の針のやうな一線一線に彼のライフそのものがついて見えるやうに思はれる。

『それから』の評


 夏目漱石氏の『それから』を読んだ。一種の心理を描出しやうとする作者の工風を面白いと思つた。けれど大体に於て、説明的学究的の弊に堕して居るのを飽足らず思つた。『かういふ理由だからかうだ』といふ風に頭から定めてかゝられるので、折角細かに並べ立てた心理が遺憾ながら読者に多くの余情と印象を残さない。むしろモドカシ只歯痒はがゆいやうな一種冗漫の感じを与へる。
『坑夫』を見ても解ることだが、ともすると漱石氏の作風には、ある一事件の道行ばかりを描いて、先方にある大事な的は、そのまゝ出さずに取残して置くといふ傾向がある。例へば『坑夫』では鉱山に行着くまでの経路を書いて、それ以上の肝要な所へは手を着けてない。此度の『それから』でも目貫めぬきな事件に取りかゝらうといふ前で筆を止めて居る。このネライ所が何となく技巧的に思はれてならない。それに『それから』の最後にある赤い色に見えると言つたやうな所も、何となく持つて行つてくつ付けたやうで厭な感じがした。

『一切の事』の評


 秋の創作界は中々賑やかだつた。私の見たものゝ中では星湖君の『一切の事』を好いと思つた。ハウプトマンの『平和祭』が何となく偲ばれて、一種の暗い気持が頭に残つた。作者のジミな暗い筆つきが、あの暗い色を描くに最も適当でありヱツフヱクチプであると思つた。

『歓楽』の評


 その時代その年代に存在して居る人物でなければ書いてもツマラぬものゝやうに私は思ふ。『歓楽』は流石に部分的に面白い。然し、あの小説に出て来るやうな年格好の詩人が現代の日本人中にはまだあるまい。全体としてシミ/″\胸へ来なかつたのはそれが重な原因であらう。明治四十年代の小説なら尠くとも四十年代の人間が書きたい。現代の事相や人物を現代の作家が書いて、始めて其所に事実と作品との接近が見られ、迫実の域に近寄り得られると思ふ。

日本の文芸


 余り言ひすぎるかも知れぬが、日本では到底露西亜文芸のやうなものは興らぬかも知れない。何故なら、日本人の中には露西亜の小説に出て来るやうな人物が居ない――モデルの無い作品の憐れむべく、浅墓なものになり易いのは言ふまでもない。

アンドレーフの『七刑人』


 アンドレヱフの『七刑人』を読んで見た。読んで期待した程のものでないのに甚だ失望した。第一、七人を死刑場に誘つて行くといふ事を主眼とした点に事件的小説を思はせる。第二に七人を書分けやうとする作者の小さな技巧が余り見え透いてゐる。第三には同時に起つた事件を、一人づゝ章を追つて書分け、最後の死刑場に集めるといふ作者の趣向が何だか小さくつて、自然のコンポジシヨンといふ気がしない。
 結末、死刑場のあたりは流石に凄愴せいさうたるものがあつたが、これとても作者の心持見方から来た凄愴ではない。事件から生れ、事件に附帯した凄愴たるに過ぎない。必ずしも作者の手腕がそれによつて現はれるとは言はれない。
 章を分けて一人々々書次いで行つたこの材料を、広い横面上へ一時に並べ出すことは出来ないだらうか。

『東京だより』の記者


 十月十九日国民新聞所載『東京だより』に『吾人は必らずしも馬琴の勧善懲悪主義を以て、総ての作物を律せんとするにあらず。されど所謂いはゆる当今の或る傾向に就いては、甚だ寒心に堪へざるものなからず。』と書出して、『或は又た社会の根底を、性慾に措き、神聖なる可き夫婦の関係を、唯だ一種の性慾機関となし、所謂る家族以外に、自由なるものを、要求す可く、絶叫するものあり。而して世或は之を目して、之れ我等意中の事にして、未だ道破し得ざるものを、道破し得たりとて、之に雷同して、天下に外道的伝道を試みる者あり……政治上に危険なる運動は、当局者の細心に注目する所也。されど社会を根底より顛覆せんとする思想に至りては、之を唱ふる当人も、其禍の甚大なるを知らず。之に和する応声虫も、其害の甚深なるに気附かず。彼等が看て以て一場の茶話となしたる者、実に国家元気衰頽の原因となり、社会秩序紊乱びんらんの動機となる也。』かう結んで居る。
 この記事を読んで私はまづ『必ずしも馬琴の勧善懲悪主義を以て、総ての作家を律せんとするにあらざる』東京だよりの記者が作家と作品とが、如何なる関係交渉を有するやをもすら知らざる低級読者の群の一人なのを此上なく遺憾におもふ。
 作家は感官に触れ、胸中に映つた事々物々を、たゞ現象として取扱ふのみである。要するに現象である。主張ではない。又経世論では無論ない。経世者がその現象に怖毛を振ふのは勝手だが、それを以て芸術に対さうとするのは、読者としては殆ど無価値である。探偵小説を読んで盗賊の真似をするといふやうな読者――さうした眼と心を以て芸術に対する読者をわが賢明なる『東京だより』記者に発見しやうとは、私は夢にも思はなかつた。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「毒と薬」耕文堂
   1918(大正7)年11月5日発行
初出:「文章世界 第四巻第十四号「秋風号」」博文館
   1909(明治42)年11月1日
※「アンドレーフ」と「アンドレヱフ」の混在は、底本通りです。
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2020年6月27日作成
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