明治文学の概観

田山録弥




一 飜案の時代


 明治の文学は、飜案の時代、飜訳の時代だと言へる。国民性といふことが言はれるけれど、その国民性と文学と何の点まで一致して居るかといふことは疑問である。
 勿論、それは明治の時代がさういふ時代であるからである。物質上ばかりでなく、精神上にも一般に模倣飜案といふことは争はれない。学者も思想家も創作家も、西洋の著書からその思想と問題と様式と着想とを得て来て、そしてそれを今の実際に当てはめやうとしてゐる。従つて、明治の文学は先に進み過ぎた文学、国民性にかけ離れた文学、切実の度のない文学、更に進んで空疎な文字の多い文学であつたといふことが出来ると思ふ。
 その証拠には、明治の文壇に起つた議論とか、思潮とかをけんして見ると、それは大抵は西洋から翻案し来つたもので、それに就いて徒らに空論を上下して居るやうなものが多い。覚醒の第一の警鐘と謂はれる『小説神髄』からして既にさうである。其他、没理想の議論でも、ハルトマンの美学でも、ニイチエの美的生活でも、イブセンでも、オスカーワイルドでも、所謂自然主義でも、皆なさうである。いつでも国民一般の平行線よりも百歩も二百歩も先に出てゐる。
 しかしこれが悪いといふのでは決してない。さういふ模倣好きな、翻案好きな国民だから、文学の方面ばかりでなく、総ての方面に於ても、短かい年月の中に、驚くやうな長足の進歩をしたのである。文学で見ても、『小説神髄』時分と今とを比べて見ると、かうも違ふかと驚かれる位である。僅か二十七八年の中にかうした進歩をしやうとは、誰も予期するものがなかつたに相違ない。
 鳥渡ちよつと見たところでも、文体の変化、これが第一に驚かれる。『色懺悔』などが迎へられた同じ文壇に、今日の整つた文体が出て来やうとは何うしても思はれない。今の文体は、その体裁に於ては、全く和文漢文の領分を離れて、西洋最近の作家の文体の塁を摩してゐるものが尠くない。総て、お話風から進化して、描写の方面へと進んでゐる。次に、観察の進歩、これなども中途で留つては居ずに、ドシドシその根柢に向つて進んで行つたといふ趣がある。第三に創作の構造、これなども、段々古い技巧の衣をぬぎ捨てゝ、一直線に新技巧に向つて進んだ著しい跡が歴々と指点してんされる。
 私の知つてゐる明治の文壇は、『小説神髄』以後であるが、自分で考へて見ても、その進歩の急激なのには驚かずには居られない位である。その時分の小説を出して来て見ても、文体の乱雑、着想の幼稚、殆ど読むに堪へるやうなものはないと言つても好い位である。それほど進歩してゐる。しかし、それは前に言つたやうに、飜案的、飜訳的であることは勿論である。寧ろ飜案的、飜訳的であつたから、さういふ長足の進歩をすることが出来たとも言へる。

二 西洋作家の感化


 西洋の作家の感化、これが一番明治の文学に大きな影響を与へてゐる。西洋の思想なり問題なりに触れた人達が、いつも先頭に立つて歩いて行く。
『浮雲』は明治の文学の中で、いろ/\な意味に於てすぐれた作だが、これがロシア文学の影響を受けた作であるといふことは、今では誰も知らぬ人はない。二葉亭はガンチヤロフあたりの作品を読んで、そしてその様式で明治の其時代のある社会を写さうと試みたものである。『平凡』なども、あれと全く様式を同じくした作がガンチヤロフの集中にあるといふ事である。
 民友社は当時にあつては、新しい、西洋に渇仰した若い人達のハイカラな団体であつた。そしてその団体がイギリス、フランスの通俗小説の流行から、稍々真面目な、主観的な文学に社会を導いて行つた功績は、没すべからざるものがあると私は思ふ。思軒のユーゴーの飜訳などは、今日から見れば大したものではないが、それでも当時にあつては、若い文学青年を導いたものだ。
 しかし、飜訳の正確と言ふことが期せられるやうになつたのは、鴎外漁史が出てからである。それ以前には、西洋文学の輸入は、大抵好加減の程度に留つてゐた。何ういふ作家が今西洋にゐて、何ういふことをしてゐるかなどといふことは、其時代の青年には余り多く報道されなかつた。青年にもさういふ興味を抱いて文芸に対してゐたものは、あまり多くなかつたやうである。
 でも、ロシア文学の話は、二葉亭、嵯峨の屋の書いたものから、よく人々の口に上つた。『罪と罰』の飜訳された時には、ロシア文学はかういふ烈しい凄いものかと誰も皆眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。
 其時は丁度探偵小説の流行した時であつた。従つて『罪と罰』は、ある一方からは、探偵小説としての取扱ひを受けた。よく分つた人が居なかつた。それがたしか明治二十六七年頃である。
 鴎外漁史の飜訳は、次いで来る若い人達に、尠なからざる知識と希望とを与へた。『ふた夜』これはたしか読売新聞に出た、『うき世の波』『悪因縁』これは国民之友に出た。中で一番すぐれた影響を与へたものは、『埋木うもれぎ』と『即興詩人』である。
『埋木』と『即興詩人』とは、当時、苟くも文学に志してゐるものゝ読まぬものはないといふ位に評判のあつた作で、一廉の作家達も、それに由つて裨益されることが多かつた。
 それよりは時代が少し後れるが、二葉亭の『浮草』も評判な飜訳であつた。紅葉の文体、露伴の文体、鴎外の文体、何うもさういふものではまだ飽足らない。それに由つて十分に自由に新しい小説を書くことが出来ない。さうかと謂つて、柳浪の言文一致も、余りシヤロウで、会話沢山で、思はしくない。さういふ風に考へてゐる人達は、皆な『浮草』あたりを標準として進んで行つた。
 文章の変遷は即ち明治文壇の変遷を意味してゐた。紅葉山人は、文体に就いては、常に非常に苦心をした人であつた。『浮雲』だの、『いちご姫』だのゝ言文一致に満足せずに、『二人女房』を書いた。それから新聞に書く小説の文体も絶えず新意を出さう出さうと心がけてゐた。雅俗折衷でもいかんし、言文一致もイヤだし、仕方がない、地の文と会話とを全く分けたものでやつて見ようと言つて、さうした試みをしたことなどもあつた。それが、『多情多恨』あたりに来てやつと思ひ通りなものにぶつつかつたといふやうなことを言つたのを私は聞いたことがあつた。
 鴎外漁史の文章は、非常に堅い、漢文と国文とを交ぜたやうなもので、其文脈は全く洋文に属してゐた。その他、露伴、縁雨の文章、あゝいふ文章が勢力を持つてゐたといふことも不思議だ。

三 諸派


 派といふことは矢張あつた。民友社と硯友社とはやゝ対抗的と言つても好かつた。それに、根岸派と硯友社とは向ふ処を異にしてゐた。
 早稲田と千駄木、これもよく話頭に上つた。
 日清戦役以前、即ち二十七年頃までは、作家としては、紅葉露伴の時代、評論家としては鴎外逍遙の時代であつた。透谷などもゐたが、文壇的にはさほど重きを置かれてゐなかつたやうだ。
 鴎外漁史の『しがらみ草紙』に於ける活動は、明治文壇に於て他に見ることの出来ないものと言つても差支なかつた。蓆巻せきくわんといふ字があるが、実際評論壇に於ける第一人は鴎外漁史であつた。忍月、思軒、正一など皆な其手痛き鞭を受けた人々で、逍遙さへ五分五分の太刀打は出来なかつた。
 明治の二十八九年は、明治文壇に於ても忘るゝことの出来ないほど活気に富んだ年であつた。長い間、押へに押へてゐた若い人達は、日清戦役の後の文壇にヒシヒシと押し寄せて来た。
 鏡花、一葉、風葉、宙外、蘆花、秋声、不倒などといふ創作家と、樗牛、桂月、嶺雲などといふ評論家が雨後の筍のやうに簇生ぞくせいして、小説と評論とを書いた。
 太陽、文芸倶楽部、帝国文学、目ざまし草などといふ雑誌も皆なその年に出来た。
 目ざまし草に於ける正直正大夫の金剛杵こんがうしよ、鴎外、露伴、縁雨の三人冗語――これは後れて出て来た若い作家、評論家の群を、大家連が圧迫したやうなものであつた。第二期に於ける大家対新進作家の争ひは、一番明確にそこに現はれてゐたと思ふ。
 創作家に於ては、硯友社の勢力は長く長く続いた。二十三年頃から最近自然派の勃興に至るまでその命脈は保たれてあつた。小説を書く人は硯友社に行かなければ本当のことは出来ないと其頃は信ぜられてゐた。硯友社の人達も、評論では誰が何と言つても、小説は書けまいと竊かに自負してゐたやうなところもあつた。紅葉、眉山、柳浪、水蔭、小波――日清戦役後では、鏡花、風葉、秋声、春葉などが其名を専らにしてゐた。
 その中で、柳浪は自づから一派を成してゐた。題材にも硯友社の人達とは自づから撰を異にしてゐた。それにつゞいて、天外が出て来た。

四 細かい複雑した空気


 文壇の細かい複雑した空気は、容易に知ることが出来ないやうなものである。陰影もあれば、日向もある。出版者と作者と批評家との複雑した渦巻のやうな関係を知らなければ、その真相を知ることが出来ない。しかし、かうしたことだけは確かである。西洋の作物に通じてゐる人の手から新しい傾向が絶えず生れて行つてゐるといふことだけは確かである。
『文学界』に由てその創作議論を発表した人達も、矢張、西洋文芸の絶えざる愛読者であつた。透谷の自殺は、無論他に生理上の関係もあつたには相違ないが、その大きな原因の一つは、矢張、余りに早い先覚者で、そしてそれを容れるだけの余地が当時の文壇になかつたためである。硯友社の同人には、西洋文芸を完全に味はうことの出来る人が少なかつたのである。それが却つて、通俗な創作に留つてゐることが出来るやうな立場を作つたのである。
 二十九年、三十年、三十一年、この三ヶ年間は依然として大家対新作家の対立であつた。けれど新作家の作品の現出はいよ/\多く、『目ざまし草』の大家連も、後には、これに一々目を呉れるのが却つて馬鹿々々しいやうな気がするやうになつて来た。で、雲中語も段々さびれて行つた。
 読書界の形勢も、もう紅葉、露伴とは言はなかつた。誰か新作家の中から、変つたすぐれた作家が出さうなものだと期待されてゐた。眉山が紅葉を凌駕するだらうと一時は言はれたが、それもいつか型にはまつて、何うすることも出来ないやうな境地に居るといふことが段々解つて来た。評判の好かつた水蔭の短篇小説も、粗製濫造に陥つて、いつとなく段々声価を失つて了つた。稀世の才媛と言はれたばかりでなく、『目ざまし草』の大家連から同じ大家号を授与された一葉女史も二十九年の冬には、早くもこの世を去つて行つて了つた。鏡花は評判が好かつたけれど、それは一部の読者に喜ばれたので、あの偏つた文才が人間の千態万状を描写するに不適当であるといふことは、どんな批評家でもよく知つてゐた。風葉は『恋慕流し』の一篇で、驚くべき才能を見せて、一躍大家の群に入つたが、その手法、其観察、その文章、それが総べて硯友社から系統を引いてゐて、他にフレツシなところがないので、『もう少し独創的なものが欲しい』などと言はれてゐた。
 宙外は『ありのすさび』から『闇のうつゝ』を書いて、それから『新著月刊』といふ雑誌を始めた。この雑誌は早稲田の一部と硯友社の一部と相合同したやうな形になつてゐて、風葉、鏡花、宙外、抱月などが揃つて其処に筆を執つた。宙外の心理描写も、空想の分子が余り多すぎたので、硯友社の人達の作品と比べて稍々真面目な処があるにも拘らず、余り高い名声を得るに至らなかつた。
 柳浪が唯一人熱心に、例の会話沢山な写実的小説を書いた。
 写実主義と言ふことが其時分の文壇に多く言はれた。紅葉の『多情多恨』などはその空気から生れた産物の一つである。しかし、その所謂写実主義はまだ本当の写生といふやうなところにさへ達することが出来なかつたやうなもので、多くは『空想でこしらへ上げた写実』であつた。其時分では事実の相違などといふことは、どの作品にもあり勝ちのことで、それが別に作の価値に関係しないといふほど、それほど写生に疎かつた写実であつた。
 読者は其他に有望な新作家を求めることが出来なかつた。西洋の文芸に通じてゐる人は、もつと今までの型から離れた、すぐれた作家が出ても好いと思つた。其時分、徳富蘆花が稍々毛色の変つた西洋くさいものを書いてゐた。かれは『河島大尉』といふ小説を書いたり、ビヨルンソンの『ソルバツケン』を訳したりなどしてゐた。けれど、文章が何処か硬くつて、硯友社の若い人達のやうに手馴れたところがなかつた。
 藤村が『若菜集』を出して、当時の青年の心を集めたのは、二十九年であつたが、三十年か、三十一年かに、『うたゝね』といふ小説の処女作を書いて、それを『新小説』の巻頭に載せた。独歩が日光の山中にこもつて『源おぢ』といふ短篇を書き始めたのもその頃だ。しかし、さうした新しい試みも、微々たる勢力しか持つて居らなかつた。硯友社の若い人達の光輝かゞやきの前に、危く消え残る暁の星のやうなものであつた。
 で、小説壇はさういふ平凡な光景で長くつゞいた。日清戦後の Sturm Und Drung も、大して特色のある作家と作品とを残さずして過ぎた。明治の文壇は依然として旧時代を持続してゐた。
 でも、小説壇の振はなかつたに比べて、評論壇はかなり活気に富んでゐた。高山樗牛、大町桂月、田岡嶺雲などといふ大学派の才人を簇出して高い気焔を挙げた。樗牛が『太陽』の時文壇を舞台とすることの出来たのは、魚の水を得たやうなものであつた。鴎外を罵り、逍遙と戦ひ、紅葉露伴を論じ、その意気の盛んなことも、当時他に類がなかつたほどであつた。当時の小説の無価値といふことも度々樗牛の筆に上つた。

五 大正文学へ


 藤村の『若菜集』から、泣菫の『暮笛集』有明の『独紘哀歌』――明治三十四五年から六七年にかけては詩と歌とが文壇に大きな勢力を占めて来た。
 小説よりも、詩集、歌集などが読者の渇をしてゐた。
 其頃、一方に子規の『ほとゝぎす』があり、一方に与謝野寛の『明星』があつたのは、頗る注目に値ひする。『ほとゝぎす』の鼓吹した写生文は、硯友社の濃厚な文体に対して起つた、細かい平淡な境地であるのに引かへて、『明星』の新派和歌は、濃厚な熱烈な灼くやうな光を持つて、若い人達をその周囲に引きつけてゐた。晶子の歌などは殊にさうした傾向を多く持つてゐた。
『明星』の態度は、矢張明治文学の特色である飜案の態度であつた、上田敏や、馬場狐蝶や、蒲原有明や――さういふ人を通じて伝へられて来た西洋文芸の飜案がその主なる主張となつて居た。
 またベルレーヌの詩を読んだものは幾人もないといふやうな時代に当つて、象徴詩などといふことが盛に言はれ、わざとむづかしくしたやうな晦渋な詩が盛に鼓吹された。一方から言ふと、小説に於ける写実主義の反動といふやうなところもあつた。
 其頃は女子の教育は盛になつて庇髪ひさしがみと海老茶の袴とが段々眼につくやうになつてゐた。新派の和歌は、この新しい時代の女をそのサークルの中に入れることを過またなかつた。
 小説では、柳浪、天外、風葉が矢張その位置を保つてゐた。『魔風恋風』『青春』などがその頃の代表作である。
 日露戦役以前――即ち三十六七年頃は、文壇は全く沈滞し切つてゐた。紅葉が死に、樗牛が死に、鴎外は小倉の任地に行つて文壇とは没交渉になつて了ふ。逍遙は教育と倫理に没頭して了ふといふ風で、文壇には元老が全く跡を絶つたといふ状景じやうけいであつた。小説には、西洋の作品を飜案したやうなもので、今では活動写真でなくてはその存在を認められないやうな家庭小説などが頻りに批評の的になつてゐた。
 それを根柢から引くり返したのが、今日の文芸の始めを成したものである。写実主義を更に写生から打立てやうとした運動、象徴主義を単に『美なる情緒』といふやうなところに留めて置くまいとした運動、更に進んで、驀地まつしぐらに真に向つて突進して行つた運動、さういふ運動の気分が、日露戦役の終る時分から、凄じい勢でこの文壇に漲り渡つて来た。
 中でも、一番切実でそして一番有効であつたのは、文章の革新から起る気分の進化である。十年一日のごとく、文壇に覇王の位置を占めて、牢乎として抜くべからざる勢力のあつた硯友社が根柢からくつがへされて行つたのは、この文章の気分の変転が主なる原因であることは争はれぬ。そしてこの文章の気分の変転は二葉亭の飜訳や、『文学界』の人々の気分や、『明星』の人達の鼓吹や、『ほとゝぎす』の写生文や、さういふ処から長い間鬱積してゐて出て来たやうなものである。
 今日のことは説く必要がない。――しかし私は飜案時代の文学の型を脱せずにそのまゝ大正の時代に入つて行つた明治文学を惜む一人であることを此処に言つて置きたいと思ふ。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「毒と薬」耕文堂
   1918(大正7)年11月5日
初出:「文章世界 第七巻第十四号」博文館
   1912(大正元)年10月15日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「飜案」と「翻案」の混在は、底本通りです。
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2020年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード