百合子は雪解のあとのわるい路を拾ひながら、徐かに墓地から寺の門の方へと出て来た。
もしそこに誰かゞゐたならば、若い娘の
その野上の墓といふのは、墓地の入口から、秋は
どこか遠くで汽車の通る音がした。野には春を知らせた静けさが漲りわたつて、野蒜、なづ菜、芹などが、榛の林の縁を縫ふやうに添つて流れてゐる小川の岸を青く彩つた。
百合子には自分ながら自分の心が解らなかつた。何うして今日墓に詣づる気になつたのか? とてもとてもさうした気持はなかつたのに――深くその秘密を胸に
そんなことはない。
かの女は急に打消した。
勿論かれ等の間には、男としての、また女としての交際があつたのではない。否たとへあつたとしても、それは別に問題ではないが、それは咲き出した
かの女は去年の秋深く、かれに贈るために、その河岸の
二人の間は不思議にも誰にも知られずに過ぎた。親達にも兄妹達にも知られずに過ぎた。この世の中では誰も二人のことを知つてゐるものはないのであつた。恐ろしいことでも何ともなかつたのだ。却つてそれは喜ばれたに相違なかつたのだ。それほど輝かしい恋であつたのに、世に知れれば世に羨まれ、人に知れれば人に妬まれる恋であつたのに――それが矢張いけなかつたのか、それが不運のもととなつたのか。
だしぬけに、何の予告もなしに、三時間の中に、もはやかれはこの世にゐないといふことを耳にした時の驚きと悲しみ――否それよりもその輝かしかつた恋を、睦しかつた恋を、楽しかつた恋を、誰にも打明けることが出来なくなつた苦しみを百合子は今でもをりをり繰返した。かの女はその
こんな悲しい悲哀がこの世の中にあり得るかといふやうな日が続いた。
かの女は
『百合は此の頃どうかしたのかえ? いやにぐじ/\してゐるね? 何か悲しいことがあるなら、隠さずにお話しな?』
かう言つて母親は穴のあくほどかの女の顔を眺めた。それに比べては、父親はのんきであつた。
『なアにそんなこと心配するものではないよ。性慾だよ。あゝめそめそするのは皆性慾だよ。早く婿がねをさがしてやれば好いんだよ。』
晩酌に機嫌よく酔つた父親はこんなことを言つてあはゝと笑つた。
『カア、カア、カア――カア。』
鴉が向うの樹の梢で鳴いた。百合子はじつとそれを睨めた。
ある日は百合子は驚いたやうにして自分の心を眺めた。
これが自分の心だらうか。本当の心だらうか。この心が底にあつたために、この身はその秘密を自分ひとりで処分する気になつたのだらうか。そんなことはない。そんなことはない。かうかの女はそれを打消した。
しかもその打消しは十分ではなかつた。かの女はこの恋が誰にも知れなかつたといふことについて泣いた。知れてゐたならば、少しでも知れてゐたならば、さうした心は
かれが死んでから、その話の起るまでの間に尠くとも一年は経つた。野芹、梅の花、春の雨、鶯、杜若、蛍の飛び交ふのを見ても、
いくら考へたつてしやうがないこと。もうこの世にはゐないのだ。さうして静かに野に
自分ひとりしか知つてゐないといふ心持の周囲から、いろ/\な新しい芽が日増に長じて行つた。悲しい芽。生々とした芽。自然の力にはどうしても抵抗することは出来ないと言つたやうな心の芽。その恋心をすつかり別なものに移してしまふことが出来るやうで出来ぬやうな心の微かな芽。それを敏感な母親の眼は決して見そこないはしなかつた。母親は此頃娘が次第に憂欝から浮び上つて来るのを見た。時には晴やかな顔をして縁に立つてゐるのを見た。ともすると以前の歌の声が静かにその口から洩れた。
母親が静かな低い声でその話を百合子の耳に囁いたのは、今年になつてからであるが、それは頗る自然に且つ滑かにかの女にはきかれた。
それは先づ此方の心に一
しかも誰もかの女の心の変遷を、無操持を、場合によつては無節操を咎めるものはなかつた。今まで漲つてゐた悲哀さへ、愛着さへ、少しの叛逆をそこにしめして来なかつた。それは
さうだ。それで好いのだ。この心をそのまゝ持つて行けば好いのだ……かう百合子は何遍となくその心に囁いた。かの女はひとつのものからひとつのものへと大きく動いて行つてゐるその身を感じた。それは非常に悲しいものでありまた楽しいものであつた。善いもわるいもなければ節操も無節操もなかつた。さうなつて行かなければならないためにのみさうなつて行つたやうな気がした。
かの女が野の墓へと思ひ立つたのは、その目出度い結納が取交されて、結婚の日どりが双方の人達の口に上るやうになつたその翌日であつた。
かの女はひとつのものからひとつのものへと大きく動いて行く自然の道程の
知らせずにそつと家を出て来た百合子は、一時間近くもその墓石の前に
墓石の前で欷歔してゐた間のその悲しみも、あの突然の死を耳にした時のやうな鉛のやうな重苦しいものではなく、むしろ明るい快感を伴つたものであつたことを百合子は繰返した。恋と涙と
百合子は山門のところに来て、足駄に溜つた泥をその傍にある扉の角に当てゝ落した。
ところどころにかたまつて雪は残つてゐたけれども、それでも明るい午後の日影のさしわたつた路が長くかの女の前に
少し此方に来たところで、向うからかねて仲好くしてゐるこの町の照子といふ娘が、
『まア、百合子さん!』
『まア!』
百合子は少し具合がわるいと思つたけれども、つとめてそれを押しかくすやうにして元気よく言つた。
『何処へ行らしつたの?』
『ちよつとそこ?』
『お寺から出ていらしつたわねえ? 貴女?』
図星をさゝれて
『え、ちよつと?』
『何方か知つてゐる方がいらつしやるの?』
『いゝえ、お墓参りよ。』
『お墓参り? めづらしいのね。どなたのお墓?』
『親類のよ。』
『それはさうと、お目出度いんですつてね? 結構ね。私、是非近い中にお祝に行かうと思つてゐるのよ。』
『そんなこと――』
泣き腫した顔の真赤になつて行くのを百合子は感じた。
『もう日はおきまりになつたの?』
『いやよ、牧山さん。そんなにひやかしちや――』
『だつて……』
二人はそこで暫く立つて話した。それは溝に添つたやうなところで、蘆だの蒲だのの枯れて折伏した上に雪がところどころにかたまつて残つてゐるのをかれ等は眼にした。午後の日影が黒みがかつた