……此処まで来れば、もはや探し出されるおそれはない。あらゆるものから遁れて来た。あらゆる障碍から、あらゆる圧迫から、あらゆる苦痛から。かう思つて、Kはじつとあたりを眺めた。
サツと流れてゐる谷川が一番先きに眼に入つた。それはさう大して好いといふほどではないが、ところどころに岩石があつて、その上で新しい
Kはじつと一ところサヽラのやうに砕けて白く流れてゐる谷川の瀬に見入つてゐたが、その内部には常に絶えずかの女をはつきりと強く感じた。かの女を、たうとうその身のものにして了つたかの女を、嵐のやうな中を竟に此処まで引張つて来たかの女を、かの女の心を、かの女の肌を、かの女の眉を、かの女の唇を。
「あゝあゝ」
思はずかう言つてKは重苦しい溜息をついた。もう何うにもならなかつた。かれ等は行くところまで行かなければならなかつた。かれは
それはひとり手にさうなつて行つたやうなものだつた。かういふ風にしたといふよりも、かういふ風になつて行つたといふやうなものだつた。次第に両方からせばめられて行つた結果は、何うしてもかうなつて行くより他にしやうがなかつた。それはたとへて見れば、せまいせまい道を二人して通つて来て、やつと此処までやつて来たやうなものだツた。そしてその先には何がある? 何が待つてゐる?
「死!」
Kはじつとそれを見詰めた。その言葉を見詰めた。
かれは冷たい氷か、鋭利な
さうした内部の光景に引かへて、あたりは平和でのんきで且つ静かであつた。水はサツと快よい音楽を立てゝ流れた。山はどころどころに[#「どころどころに」はママ]白い雲を靡かせて
でも、張詰めてばかりもゐなかつた。
丁度自動車組合の一年の祝日か何かで、その前を何台も何台も美しく粧飾された自動車が通つて行つた。時々何処かで花火の揚る音がした。
「何処でせう? あの花火を揚げてゐるのは?」
「さア……何でも裏の方だね?」
「賑やかね?」
かの女はさう言つたが、そのまゝ立つて長い廊下を向うの方へと行つた。その突当りは窓になつてゐて、そこから裏の方がずつと一目に見わたされるらしかつたが、痩せてすらりとした身を女は半ばそこに
「来て御覧んなさい――」
と言つてKを誘つた。
「別に変つたことはないんだらう?」
「でも、いろんなものが出来てゝよ。舞台なんかも出来てゐてよ」
「そんなものが出来たのかえ?」
「何でも、あそこで、この町の芸者達が
「ほう」
で、そのまゝ二人並んで、長い廊下をずつとその突きあたりのところまで行つた。
「ほ! 成ほど、すつかり舞台が出来てるんだね?」
「ね、さうでせう。中々大がゝりでせう。ホラ、あの自動車がいろいろなものを運んで来た」
「見物席をつくるんだね?」
「さうね」
「今夜やるんだらうね?」
「さうらしいわね」
大きなテントの
そこに女中が通つて行つたので、Kはそれを捉えて、
「大変なお祭だね?」
「え――」
女中もそこに立留つた。
「今夜やるのかね?」
「さやうで御座いませう」
「行つて見るかな?」
「何でも、今夜は賑やかなさうで御座いますよ。K町からも芸者衆がまゐるさうですから――」
「あそこに立つてゐるのは、此処の芸者かね?」
女中はじつと見てゐたが、
「さやうで御座います。あの
「…………」
はつぴを着た男が頻りに杭を打つたりなどしてゐた。だしぬけにけたゝましい音が空気を
「あんなところで揚げてゐるんですね?」
女はかうだしぬけに行つた。
「何処?」
「そら、あそこ? 山の裾のところから
「あゝわかつた――」
成ほどそこに小さな筒が一本立てられてあつて、人が五六人黒くかたまつてゐるのがそれと見えた。
またすさまじい音がした。空には今度は豆を煎るやうな音がパチパチとして、そこから小さな赤い風船が一つ二つ三つまでふわふわと飛び出して来た。
K達は何の余念もないやうに、じつとそのふわふわと空中に漂ひながら落ちて来る小さな赤い風船を眺めた。しかしそれもほんのわづかであつた。二人が並んでその長い廊下を
それにしてもよくもかうした
死ぬのには、何処だつて好い。唯、一日二日の静かな休息が欲しい。静かに落附いて死にたい……しかもKはそれを口に出しては言はずに、そのまゝその向う側に停つてゐる小さな軌道車へと乗換へて行つた。
その小さな軌道車は、半ば山に添つたやうなところを、また半ば野の中のやうなところをゴトゴトと烈しく動揺しながら進んで行つた。かれ等は別れて来た幹線――一直線に
車中の乗客達の全く変つて了つたのも、かれ等を此上なくさびしくした。まさかに駈落者とは看破されないまでも、違つた種類の人間でもあるやうに、わるくじろじろと見詰められるのも、何となしに一種の不安をかれ等に誘つた。Kにしてもかの女にしても、成るたけ窓外の野山ばかりを見るやうにして――人の顔は見ないやうにして、その小さな軌道車の終端駅である駅までやつて来たことをKは繰返した。でも幸ひなことには、その停車場前には、M温泉までの乗合自動車が汽車の時刻と連絡して、きちんとそこに客を待受けてゐた。
で、K達は何の苦もなしに、時には田舎の村落の中を、時にはその背景に大きな山を持つた野の中を、また時には
大きな浴舎は三階建で、若い
「もつと狭くつて好いんだがな? 六畳か八畳ぐらゐで好いんだがな?」かうKが言ふと、女中は別に何も言はずに、かれ等を三階の向うの角の今ゐる
女中が下りて行つたあとで、かの女は深い溜息をついた。
「何うしたの?」
「…………」
女は何も言はずに再び重ねて溜息をついた。
実際、口に出しては言へないやうな切迫した心持をかれ等は感じたのである。何うして好いかわからないやうな心持を。折角やつて来た場所が苦しい辛い場所であつたやうな心持を。出来るならば二人抱き合つて声をあげて思ふさま泣きたいやうな心持を。
かうした場合を、かれ等は既に何遍も何遍も想像してゐたのである。さういふ身の上になつたら何うだらう?と何遍も何遍も思つたのである。しかし、さう思つた時には、一方に花やかな美しい詩のやうな空想が伴つて来てゐて、たとへ悲しいにしても、辛いにしても、何等かの美しさの慰めと言つたやうなものがそこにあつて、十分それを慰めて呉れるであらうと思つたが、さて実際此処に来て見ると、それは空想で、その美しさの慰藉の代りに、却つて冷めたい
Kはあたりを見廻した。一方だけの
此処ならば、さうあやしまれることもあるまい。静かに落附いてその運命に面することが出来る……とかれは思つた。
――奥さんとお子さんにすまない――この言葉は、それまでに何遍女の口に
その涙と嗚咽の中をその同じ谷川の瀬の音が縫つた。
あけ方にKはそつと起きてそして浴場へと下りて行つた。
谷の鳴る音がサツときこえて、
かれはかれ等の運命に従つて行くといふことが、さう大して難かしいことではないやうな気がした。このほの白い暁の空気、他界をそれと聯想させるやうな静かな空気、それに誘はれて行けば、さう大して悲しいことでもないやうに思はれた。あの昨夜の涙の床、互ひに取ひしぐばかりにかき抱いた二つの体、しかもつひにつひにひとつになることの出来ない悲しみ、あの悲しみだけでも、かれ等はわけなくその運命に従つて行くことが出来るやうな気がした。
かれは静かに階段を下りて、そつと影のやうに、深く底に沈んでゐるやうになつてゐる浴槽へと入つて行つた。そこには誰もゐなかつた。他界にでも来たやうに誰もゐなかつた。玲瓏として珠のやうな湯が大理石の浴槽から一杯に溢れ落ちてゐた。
かれはじつと深くその中に身を沈めた。
町で経営してゐる共同浴室は、その橋をわたつて向う側に行つて、それから町を少し山の方へと歩いて行つたところにあつたが、それは普通温泉場に見るものとは違つて、非常にハイカラな新式なものであつた。ドイツのバアデンバアデンの浴室などをも参酌したものらしかつた。
Kはかの女と自分とをそこに見出した。それはそこに着いたあくる日の午前の十一時頃であつた。かれ等は宿の女中に聞いてやつて来た。かれは規定の金を払つて入口の女中に湿式浴室の専用を頼んで置いて、その整理の出来る間を二階の乾式浴室の中に過した。そこには大きな陶器製の丸い筒があつて、そこから乾いたラジユム・エマナチオンが、ひとり手に呼吸されるやうに出来てゐた。二人はさし向ひに椅子に腰をかけたまゝ暫くじつとして黙つてゐた。
女がじつとしてゐるのに引かへて、Kは心が落附かないといふやうに立つたりゐたりした。窓のところに行つた時には、そこから落ちて死ぬことでも考へてゐるかのやうに身を
Kはその朝の微白い空気の中にも、死ぬことの
かれは不思議な気がした。それはこの世の歓楽だらうか。普通この世に生きてゐる人達の常に浸つてゐる歓楽だらうか。かれにはさうは思へなかつた。その運命に面して居ればこそ、その悲しみを持つて居ればこそ、その涙に浸つて居ればこそ、さうした不思議な歓楽が味はされて来るのであつて、普通ではとてもさうした心理は起つて
Kもひとりでは町を歩く気がなかつたので、行きかけて止して、そのまゝかの女のあとを追つて、川の方へと出て行つた。
正午に近い七月の暑い日影は、キラキラとあたりを照して、川の流も、岩も、人家も、通つて行く人の影も、向うに見える山々も、すべて皆な点描派の画のやうに強烈に光つて輝いて見えてゐたが、その橋の上を十間ほど離れて向うに歩いて行くかの女の後姿を見た時には、Kは今までついぞ覚えたことのない愛着を強く感ぜずにはゐられなかつた。かの女がかれのためにあゝした愛着を示したといふことは、Kに取つて何とも言はれないことだつた。たしかにかれは二つの魂がひとつなつて空に翔けるのを見たやうな気がした。
かれはさうしてそのあとから歩いて行つてゐることをかの女に知られないやうに注意深くある間隔を取つて行つた。Kはキラキラと輝く光線の中にその白い素足の小さく、しかも割合に早く、浴衣の裾に
Kは橋の中ほどまで来て不意に立留つた。かれは疲労に伴つてやつて来る眩惑を軽く感じた。
その日の午後には、K達は全く疲れ切つたといふやうにして昼寝をしてゐた。かれ等は並んでは寝てゐなかつたけれども、汚れた茶器を取りに其処へ入つて来た女中は、
(よく寝てること――)
かう思つてそのまゝ女中はそこから出て行つた。
それから尠くとも一二時間は経つた。西日がもはやかなりに深くさし込んで来てゐた。水の音が静かに絶えず
肥つた女中が下りて来ると、もう一人の方の女中は、それを捉えて、
「三番のお客はまだ寝てゐた?」
「えゝ」
「お前さん入つて行つても知らずにゐた?」
「え」
「よく寝るお客ねえ? 二人とも丸で死んだやうになつて寝てゐるぢやないの? もうお前さん、四時だよ。余程疲れたのね?」
「まア、いやな――」肥つた女中は変に笑つた。
「だつて、さうぢやない? あんなによくねてゐるのはめづらしいもの……。私が入つて行つたつて目なんか覚ましやしないんだもの……あゝ暑い」
「そんなことを考へるからだよ」
「ひる間、あゝして寝てゐて、夜になると、よつぴて起きてゐるんだからね。
女中はさう言つて小声で、「夫婦ぢやないのね?」
「さうかしら?」
「たしかにさうよ……。さうかと言つて芸者にしちや地道すぎるし、きつと、何かわけがあるのよ」
「さうかしら」
「あゝいふのは、気をつけないといけないのよ」
「さうかしら――」
三階の二人が前後してその深い眠りから眼を覚したのは、それからまた一時間も経つてからであつた。一番先に夢にでも
「もう、そんなことは言はない方が好い。考へない方が好い」
「…………」
大抵の場合女の方は黙つてゐた。その代りにその眼からは涙が流れた。Kはその涙を恐れた。あらゆる要求を示してゐるやうな、死をすら刻々に迫らせて来てゐるやうなその涙を恐れた。かれ等は最早何うすることも出来なかつた。かれ等は黙つて廊下の椅子に
もはや離れたいにも何うしても離れることが出来なくなつてゐた。さうかと言つて、その心の底をお互ひに口に出して言ふことが出来なくなつてゐた。二人は次第にさうして黙つてゐることに、唯顔を見合はしてゐることに、男が女の
かれ等はその沈黙の苦痛を、ひとつであらねばならぬ心の二つであることの苦痛をまぎらせるために、何ぞと言つてはそのぐらぐらする橋をわたつて、川向うのその共同浴場へと行つた。そしてそこで湿式浴室の準備を頼むための金をその肥つた女に払つた。次第にその女の眼も
ある時は、かれ等の他に、猶ほその浴室の準備を頼むものが二組、三組まであるのをかれ等はそこに見出した。さういふ人達は、皆な二階に上つて、そこで椅子に
「こんな設備は、他の温泉にはちよつとないな」
「本当ですな――」
「何でも、この湯はこれがあるんで、急に人気が出て来たといふことですな」
「さうでせう。これで、この設備をするには、中々金がかゝつたと言ひますからな――」
「それで、このラジユムはきゝますやろか?」
「よう
何といふのんきな心だらう。何といふのんきな会話だらう。さうして生きてゐる人もある。面白半分に生きてゐる人もある。それに比べたら、かれ等は? 何うしたつて死ななければならないかれ等は? さうした運命に従ふより
今日こそ、今日こそ――と思つていつも此処にやつて来るかれ等は?
Kはさつきこゝに来る前に、女が
「中々手間が取るね?」
「何しろ、今日は大入だからね。三組もあるんだもの――」
肥つた男はかう言つて、皆なに親しさをあらはすやうにして大きく笑つた。
「さうですな……ちよつと手間が取れませうな」
向うにゐる背の高い男が言つた。さつきの女も笑つた。
そこに共同浴場の女中が支度の出来たことを知らせに来た。
廊下――裁判所の廊下でも思はせるやうな長い廊下が、一号室、二号室といふ風に片側に一つ一つドアを持つて長く続いてゐるのがそれと見え出した。浴場の女中は大きな鍵でその
「これは上等だ――」
何処かでさういふ声がした。女中の笑ふ声もした。
K達の入つて行つたのは、矢張いつもの
ザ、ザ、ザ、ザ―― さうした音がやがてすさまじくきこえ出した。それは湯がしつくひの壁を伝つて一面に落ち始めたのであつた。時の間に湯気がそこに漲りわたるであらう。あたりは白い靄で
その壁を伝つて落ちて来る湯の音は、他界からの音楽のやうにかれ等の胸にある不思議を誘ふであらう。K達はやがてその