モウタアの輪

田山録弥





 モウタアの音がけたゝましくあたりにひゞいて聞えたので、仕度したくをして待つてゐた二人はそのまゝ裏の石垣になつてゐるところへと出て行つた。外洋の波の高く※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)つてゐるのはそれと指さゝれたけれども、港の内は静かで、昨夜遅く入つて来たらしい二本マストの小さな汽船がそこに斜に横たへられてあるのを眼にしたばかりであつた。モウタアを仕かけたその小さな伝馬てんまは、すぐその向うのところに来てタプタプと波に浮かんでゐた。
「大丈夫?」
 あやぶむといふやうにして女は言つた。
「大丈夫とも、丸で鏡のやうぢやないか? 何でもありやしないよ」
「急に荒れて来るやうなことはありやしない?」
「保証するよ」
 Sは押しつけるやうにかう笑つて言つたが、此方に近く寄つて来るやうに手をあげてその船に合図をした。カタカタとまたモウタアがあたりに響き出したと思ふと、やがてその伝馬は石垣の雁木のところにかゝつてゐる二三隻の船の向うのところまで来て徐かに留つた。
「そこまでしか来られんかねえ?」
 とても入つて来られさうにもないので、仕方がなしにSは先きに雁木を下りて、一番近くにある船に自分が乗つて、そこから女の手を執つてやつた。女は辛うじてSのあとについて来た。
 やつとその伝馬に乗移つた時には、女はほつと溜息をついた。
「どうしたの」
「だつて、怖いんですもの」
 につと笑つて、
「大丈夫ね?」
「心配はないよ」
 かれ等は三日前にこのわだ中の離れ島に来たことを繰返した。何のために? あらゆるものから離れるために。世間の噂やら評判やらから離れるために。世の常の睦まじい夫妻のやうにしてあるいても誰にも眼をつけられないために。否、昨夜も「こゝなら大丈夫ね、誰一人知つてゐるものはないんですもの。どんなにしたつて構ひはしませんわね。誰だつて変な眼で見るものはありませんからねえ」かう女が言つたことをSはくり返した。
 それはさうしたことを考へる事情などは何一つなかつたけれども、それでも二人はをりをり黙つて深く考へたことを繰返した。もしも心中しなければならない身の上であつたら……? 電報で捜索される身の上であつたら……? さうしたらつらさもつらいだらうが歓楽も一層深いだらうとSは考へた。人間として生れて来たかひに、その歓楽を甞めて見たいやうな気もした。「どうだえ? そしたらお前死ぬかえ? 一緒に?」こんなことをSは言つたことをくり返した。
 モウタアはカタカタとあたりにひゞきわたつた。船は波をきつて進んだ。港の岸につらなつた家屋だの、石垣だの、二階屋だの、ぴつしやり閉つた障子だの、女が物を洗つてゐる雁木だのが目まぐろしくかれ等の前に動いて行つた。雲の間からをりをりさかしげに青空が覗いた。
 港町をはづれたところでは、二三日来の暴風雨に増水した赤ちやけた濁流が一すじ長く海に流れ落ちてゐるのが眺められた。それを横ぎる時には、さすがにその伝馬も夥しく動いた。女はSの手を堅く握つた。


「一体、何があるの? そこには?」
 その濁つた波をこちらに横ぎつて来た時女はきいた。
「何でも二三千年前の住民の横穴だの、その時分に書いた絵見たいなものだのがあるんださうだ――」
「そんなもの見てどうするの?」
「別に、どうするつていふこともないけどもね。さういふものを見に行くのも面白いぢやないか?」
「さう」
「三千年前に住んでゐた人間の住宅を見るのは面白いぢやないか?」
「さう――?」
「何でも五六年前に発見されたんで、今では県で保護してゐるさうだ。非常にめづらしいものださうだ」
 その濁流を横ぎつた時だけで、あとは海は静かであつた。波といふほどの波もなかつた。入江になつてゐる向うは、嚢のやうにくびれて、玉若酎わかす神社の方へ行くのとは全く違つた方向に次第に海の狭められて行つてゐるのをかれ等は見た。暫くすると低い丘の裾は両方から靡き落ちて、やがてそこに掘立小屋のやうな家屋が一軒しよんぼりとさびしさうに立つてゐるのが見え出して来た。
 モウタアの音はあたりの丘やら海やらに反響して、カタカタとけたゝましい音を立てた。小さな車の目まぐろしく回転するのにじつと女は目をとめてゐたが、「どう、私達もかうしてこゝに来て、モウタアでも買つて暮しませうか」と言つて笑ひながらSの方を見た。それはきのふだか、頬の赤い無邪気な女中が、さういふ風にモウタアを沢山買つて、それを船頭達に貸して、つまり東京での貨車の[#「貨車の」はママ]やうなことをして、それで生活してゐるものが沢山にゐるといふことを話してゐたからであつた。
「さうだね?」Sもその目まぐろしく回転する小さな車に目を留めながら言つた。
「さうしたら好いでせうね?」
「本当だね?」
 しかしそれだけだつた。それから奥には二人は入つて行かなかつた。二人とも実際さう出来たらどんなに好いだらうと思ふのであつたけれども――それこそどんなに幸福だらうと思ふのであつたけれども、しかも二人ともそれをどうすることも出来なかつた。二人はそのきめられた境涯から離れて来ることは出来なかつた。船は次第にその丘の裾の両方から靡き落ちたところへと近寄つて行つた。


 そこにゐる硅藻土を採る人達はかれ等の出かけて行つたのをめづらしがつて、何年にも東京から来た方は見たことはないなどといつて、女の髪に、衣裳に、姿に、ダイヤの指輪にその眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはらせたが――現に、その中の一人は役場から預かつてゐる大きな鍵を持つて、そこから遠くはないその横穴のあるところへとかれ等を伴れて行つて、その柵にかけてあるかけ金を明けて、四畳敷ぐらゐの横穴、天井もその周囲をも奇麗に石斧で削つたらしいあとのはつきりと残つてゐる横穴、そこの奥の石壁の滑らかな一部に、女性らしい人の姿が子供が徒書いたづらかきでもしたかのやうにぼんやりと出てゐて、その陰部とも覚しきあたりに、キザキザと刻まれたあとのあるのを示して、「矢張、男と女のことですな。……その時分にも、二三千年前にも矢張それがかうして問題になつてゐたんですな!」とその案内してくれた人が真面目にいつたので、Sも女も思はず微笑したが――否、この他にはその附近にまた沢山にさういふ横穴があるといふことを聞いて不思議な心持に撲たれずにはゐられなかつたが、しかもそれよりも一層かれの心を惹いたのは、そこに、その入海の一角に、その所長とも覚しき人の三十くらゐの細君と一緒に、一人の子供もなしに小奇麗に暮してゐることであつた。Sはそこに小さな窓を見た。その窓にはあたりに不相応なレイスカアテンのかけられてあるのを見た。椅子の二三脚立てられてあるのを見た。そこから七八間離れたところには、硅藻土を奥から遠く運んで来るトロコのレイルが敷かれてあつて、何でも時間によつてトロコが六台も七台もつゞいてやつて来るといふことであるが、しかも今は静かで、あたりはしんとして、鴎が二三羽そらに飛んでゐたのをSは見ただけだつた。否、かれ等が戻つて行くと、その窓の中のテイブルの上にはちやんと茶器が揃つて出てゐて、にこにこした所長が、「さア、奥さん……どうぞこちらへ――」と言つて入口のところに立つて躊躇してゐる女を迎へ入れた。
 すらりとした痩削やせぎすな細君はやがてきまりがわるさうにして、ビスケツトを入れた菓子器などをそこに運んで来た。
 その話を聞いてゐなかつたならば――船の中で船頭からその話を聞いてゐなかつたならば、S達はそれほどそれにその心をひかれなかつたであらうが……その話、その所長達二人が、恋のためにあらゆるものを捨て、世の中をも捨て、親をも捨て、財産をも捨て、かうしてこのあら海の中の島の一角に住んでゐるといふその話は、かれらの心に深い感動を与へずには置かなかつた。Sにしても女にしてもじつとその生活に引入れられずにはゐられないやうな気がした。
「いや、どうもありがたう――」
 遠慮しては却てわるいと思つたSはかう言つてそのまゝその卓のところに行つて腰をかけた。
「どうもえらいところで――」所長は笑ひながら、「大したものでもなかつたでせう? わざわざ見にお出でになるやうなところではないでせう?」
「イヤ」
「奥さんにはことにさうでしたらう」
 所長はにこにこと笑ひかけながら言つた。
「いゝえ」
「何しろかういふところですからな――」
「でも、かういふところにお住ひになつたら何も面倒がなくつておよろしいでせうね?」
「皆さんがさうおつしやるんです……」所長は少し間を置いて、「それは世の中の面倒はなさすぎるくらゐですけれども、それでも住んで見ると、退屈しますよ」
「それはさうでせうけども――」
「何しろ、さつき貴方がお出になつた時だツて大変なんですもの――。めづらしくモウタアの音がする。また県庁の役人でも来たかなと思つてゐると、どうもさうでない。別品べつぴんさんが乗つてゐるといふので、大騒ぎなんですもの――何しろ、東京から来て下さる方なんかはいくらでも歓迎して好いんですけども、何も御馳走するものもありませんでね?」
「いゝえ、もう、その御好意だけで十分です」
 Sの眼にも女の眼にも、さびしい生活のさまが映つた。小さな家屋。半分ぬりかけて放つてある荒壁。炉が奥の一に切つてあつて、そこで細君が湯を沸してゐるのがそれと微かにわかつた。それはかうしたところにゐて、おつくりも何もしないのでそれと際立つて美しくは見えてゐないけれども、その眉といひ額といひ、輝いてゐる眼といひ、やさしい面ざしといひ、世の常の容色とはどうしても思はれなかつた。またしても女は眼をそつちの方へと遣つた。
 所長はいろいろなことを話した。冬の寒いことを話した。雪はさう大して深く積らないけれども、その時分には誰もやつて来るものもなく硅藻土を運搬する船さへやつて来なくなつて、二人きりで暮すやうな日が多いことを話した。またこのあたりには何んな生魚でも沢山にゐて、網を打てば、いつも持て余すほど入つて来るので、必要なものだけ取つて、あとは海に戻してやるなどゝ話した。
「私も、東京に行つたこともありますし……いろいろ目論見をしたこともあつたんですけども、わけがあつてすつかり思ひ切つてしまひましてね……こんなところにおちぶれの身となつてしまひました」後にはかれはさびしさうにこんなことを言つた。


 別れを告げてこちらに来たS達にも絶えず後が振返られた。一生の中にいつまたこゝに来るやうなことがあるだらう? かう思ふと、その小屋にも、窓にかけてあるカアテンにも、窓際につて矢張名残惜さうにこちらを見てゐる所長の顔に午後の日影の淡くさしてゐるのにも、その細君がさびしさうに横顔をこちらに見せて裁縫に坐つてゐるのにも堪まらなく心が惹かれた。何だかそれは他人のことではなくて、かれ等二人がさうして客を送つてゐる場合にもあてはまるやうな気がした。かれらは後には船の中に後向きに坐つて、成るだけそつちを見ないやうにした。
 さうした別離の心が伝つて行つたか、モウタアがどうしても――いくら一生懸命になつて船頭がグルグル廻しても、容易にそれが廻転し初めないので、かなりに久しい間、かれ等はその船の中にさうして後向きになつて坐つてゐなければならなかつた。小さな輪は何遍も何遍も廻された。後には、これで廻転しなかつたらどうするんだらうと心配になつて来るくらゐ何遍も廻された。普通ならば、こんなことはよくあるかえ? とか、廻らない時は困るねえ? とか何とか声をかけるのが常であるのに、それを何遍となくゝり返してゐる船頭の態度がいやに真剣なためか、それともそれにS達がじつと深く見入つてゐたゝめか、何の言葉も三人の間には洩れて来なかつた。と、だしぬけにけたゝましい音がしてモウタアの小さな輪は廻転しはじめた。皆の顔は喜悦に蘇つた。
「左様なら!」もう一度かう別れの言葉がくり返されたが、少し行つて振返つた時にも、まだそこに所長の窓に凭つた姿がはつきりと見えてゐた。モオタアの響きは入江に反響して、カタカタと絶えず動いて行つた。





底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
   1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
   1925(大正14)年11月10日
初出:「サンデー毎日 第四巻第四十三号」
   1925(大正14)年10月1日
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2020年12月27日作成
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