エンジンの響

田山録弥




想像を排す


 また想像を排さなければならないやうな時代が来た。想像は作をするに就いてはなくてならないものであるのは言ふを待たないが、この想像が新しい時代の人達の単なる要求と相混合して、十のものを百、百のものを千といふやうに、大きなしかし空疎な幻影を描かしめるものの多いに至つては、我々は又例の幻滅論を繰返さなければならなくなる。
 新時代の発生は、自然の順序として、さういふ形を帯びて来るのは、これは止むを得ないことであるかも知れない。自己にあらずんば、自己の体感したものにあらずんば、自からうけがはれないのは、けだし新時代の若い心の自然の現はれであらう。若い心は物を色濃く見、又は物を誇張して考へ、自然を自己の主観で彩つて見なければ承知が出来ないものである。自然に対する驚異、又は自然力に対する恐怖、知識と体感との程度が低ければ低いほど、その無法な想像の力が根本の要求と共に跳梁をほしいまゝにするのである。想像は若い心を天上に持上げると共に、又同じく地下に深く墜落せしむる。実際、事実、自然――この三つを正当に、偏らずゆがまずに見たり考へたりすることが出来ないやうにする。憧憬しようけいとか、小さな自己肯定とか、乃至は思ひ上つた天才らしい自意識とかに陥つて、自分の実体をすら本当に考へることが出来なくなる。かういふ境地にある若い心は、その前にどんな人生が横つてゐるかも知らなければ、どんな自然がひろげられてあるかを知らない。唯々たゞ大きなものとか、深いものとか、立派なものとか、ゑらいものとか、さういふものを自分の眼の前に見るばかりである。私はこれまでに随分長く、又随分多くさうした若い鍛練せざる心のつまづいたり、倒れたり、裏切られたり、空中楼閣のやうに土崩瓦解どほうがかいして行くのを見た。見たばかりではない、現に、私もさういふ心の境を通つて来た。そして自己の要求の意の如くならないのを、又想像の頼むに足らないのを嘆いたり悲しんだりした。私は思ふ、若い心に取つては、実にこの無法なる要求と想像との中をいかにくゞりぬけて行くかといふことが一にかゝつて其人の力と、精神と、強弱とに存するといふことを。
 直覚はたゞちに自然の神秘に入ることが出来るといふ。それを私は疑はない。しかし、直覚があるからと言つて、常識を踏みにじつて了ふ人達には私は左袒さたんしない。常識は、少くとも自然の外面的『あらはれ』である。又自然の、不可解の自然のある輪廓の集つて出来たものである。無論、自然の堂奥に入らうとするには、常識ばかりではその扉を開くことは出来ないが、直覚が必要ではあるが、しかし直覚と思つて、実は想像であり、幻影であり、単なる要求であるものよりも、ある律を、ある法則をつかんで来てゐるだけそれだけ常識の方が自然に向つて、コツコツ歩を進めてゐる形になる。直覚を常識で包まれて了つて手も足も出なくなつて了つた人は、それは論外だが、私達はその常識の中にゐて、孜々しゝとして自然の神秘に向つて進んで行く人のするのを時として見かける。そしてさういふ人に対しては、常に尊敬の念を払はずには居られない。
 想像は、直覚、常識、単なる要求の表面をつゝんでゐる烟霧えんむのやうなものであることを考へなければならない。

『自然を深めよ』


 一人の青年が酒と女に身をつめたといふ事実を、『極めて常識的』と言つて批評した人がある。又、情慾に引づられて金を盗み且つ放火するに至る心理を、『道徳的に頽廃』した青年だと言つた人がある。かういふ捉へられた頭で、また何事をも知らない頭で、いやしくも芸術の批評をしやうとするのは、あらゆる文学史を無視したものと言はなければならない。又、この同じ人は、『自然を深めよ』と言ふことを言つてゐる。そんなことは言ふをたないことである。しかもこの人は要求、単に要求ばかりをしてゐて、いかに自然を深むべきかと言ふことには少しも言ひ及んでゐない。寧ろ考へてゐないと言つても好い。当人は考へてゐるつもりでも、唯懸声ばかりをしてゐるのみである。
 この人は、私の作では『妻』が先づ先づ好いさうだ。深みはないが誠実なところがあるさうだ。丁度『妻』位に共鳴する年輩なのだらう。やうやく放蕩息子の境から脱して、新家庭でもつくつて、理想的にやらうとしてゐるのだらう。かういふ人に、性慾を書いた私の作などのわかる筈がない。

批評といふこと


 I君の私に対する批評には、非常に嘘が多い。さうでなければ、聞きかじりの噂話を本当にしたやうなものが多い。『そんなら何うしたら好いか』と言つて涙をこぼしたといふ鑑定家は柳田君のことだらうが、そんなことは柳田君が捏造したならいざ知らず、そんなことはあつたことがない。又、島崎君を新生活に導いて再び世に立たせたのは私だと言つてゐるが、これなどは殊に大きなウソだ。何方かと言へば僕の方が島崎君に負ふ処が多かつた位だ。しかしI君のさういふのは、I君自身が私の感化を受けたことが大きかつたので(これはI君自身が何処かで言つてゐた)それで島崎君もさうだ位に思つたのであらう。それから硯友社けんいうしやの傾向に私が同化することが出来なかつたことを説く条に、『その癖、かれは渠等と共通な感傷性を脱し切れなかつた』と言つてゐるが、僕の感傷性と硯友社とを一緒に考へるなどは頗ぶる粗笨そほんな頭だ。硯友社には、僕の持つた感傷性のやうなものは少しもなかつた。むしろその感傷性を私はよく硯友社の人達から笑はれ且つ冷笑された。
 それから、I君は、僕の真相として、段々物質的自然主義なのがわかつて来たと言つてゐるが、それはさういふ風に君が私を見たので、私一人に取つては、何の増減もない。また物質的自然主義といふことも、君が考へてゐるやうなものではないと私は思つてゐる。物質は唯物質だけで解釈が出来ると思つてゐるのが、そもそも君の哲学がある型にはまつてゐる証拠だ。
 それから『岩野を残して先に死にたくない』かう独歩が言つたのは事実だが、それを『渠の創作的態度に公けの疑問をさし挟んだのを気にして』はそれはウソだ。ウソでないまでも、余り自分を買被かひかぶりすぎた自惚の言葉だ。君は膃肭獣おつとせい々々々と言はれて、独歩にひやかされてゐたではないか。
 それからユイスマンスの『ラ、カテトラル』を猛烈な表象主義の作だと言つたが、この猛烈の二字はユイスマンスを知らない証拠である。猛烈どころか、かれの重苦しい退屈な煩悶は、人をして不思議なセンチメンタリズムを感ぜさせられるものである。『アン、ロウト』などは殊にさうだ。
 これだけは事実だから、抗議を申し込んで置く。

理想主義的自然主義


 M君の『理想主義的自然主義』は、イヤに中ぶらりんの議論である。T君の書いたO氏を主人公にした作を評して、中ぶらりんだと言つてゐるが、さういふ人のこの論文の中ぶらりんであるのは不思議な気がした。私はレアリスチツクであり、同時にアイデアリスチツクであるといふのは好いが、一体自然主義にさうでないものが何処にあらうか。自発的な反動でなく、輸入された反動だと、君は日本の自然主義を評してゐるが、果してさうだらうか。それは輸入された反動もあつたかも知れないが、(たとへば君の『煤烟』のやうに……)私には決して自動的反動がなかつたとは思はれない。否、『煤烟』にすらも、その自動的反動があつたのを、認めることが出来るのである。
 それからフランスに於ける自然主義と、ロシアに於ける自然主義との別を説いてゐるが、そしてロシア文学の鼻祖プウシキンあたりが自然主義を輸入したと言つてゐるが、その時分にはフランスには、まだ完全な自然主義は打立てられてゐなかつた筈である。私の考では、ロシアの自然主義は、寧ろフランスの自然主義とは別途に発達したやうなもので、ゴンチヤロフや、トルストイの最初の作品には、ゾライズムなどゝ言ふものは、少しも交つてゐないと言つて然るべきだ。
 それに、アイデアリスチツクで同時にレアリスチツクであらねばならぬといふ議論は、非常に穏健な物のわかつた議論のやうだが、さういふ処に立留つてゐては、何うも徹底したところまで行けないやうに私には思はれる。であればこそその元祖のゾラでさへ、ロマンチツクでいけないなどゝ批評されて、徹底自然主義見たいなものまで出来て行つたのではないか。

物質と本能


 金のことを唯単に金だと思ひ、物質のことを単に物質だとするやうな議論ほど幼稚なものはない。金は『本能』である。本能の変形である。物質もまた然りだ。
 天台の教議などで、物質を出発点にしてゐる形なども私達は考へなければならない。それにしても唯物、唯心の議論の多きことよ。或は右より見、或は左より見て、そしててんでにその説を主張してゐるが、何故もう一段上にあがつて、心即物、物即心といふ境まで行かないのであらうか。また更に進んで、現象即実在論まで入つて行かうとしないであらうか。
 自然は我なり、我は自然なり、何故人々はかう思はないのであらうか。自然を深めよといふことは、自己を深く知れよといふことである。小さな肯定や小さな否定に捉えられたり、又は小さな想像や小さな要求に捉えられたりするなといふことである。自己を謙虚にして、深く苦み且つ知れよといふことである。観察や解剖の武器を、今の人道主義者などは、兎角すると捨て去らうとする傾きがあるが、それは正宗の刀が危いからと言つて、それを鞘に収めた形である。観察と解剖の武器を持つことは、危ないには相違ない。又、それを持つたものは辛いには相違ない。しかし危ないから、辛いからと言つて、そんな危いものは、辛いものは持つ必要はないからと言つてそれを無造作に振捨てゝ了ふといふことは、却つて人間を弱く且つ愚かにするものである。何故なら、観察と解剖とは、人間に賦与された性の中で最も高いものであるから、『愛』といふことも、この観察と解剖との性がなければ、本当の、深い、理解の伴つた、自然の持つたやうな『愛』には到達することが出来ないものであるから……。

愛と慾


 本能を超越することは、人間には一番むづかしい。しかし超越しなければならないものであるかも知れない。何故と言へば、本能の苦悩は兎角人を仏の前につれて行くからである。手を仏の前に合はせる最も純な動機は、必ず『愛』と『慾』とが起つて来てゐる。そして『愛』と『慾』とは、仏の境地では、矢張煩悩の一つである。『愛』と『慾』とを超越しなければ、仏の三昧に入つて行くことが出来ない。『愛』をモツトオに[#「モツトオに」は底本では「モットオに」]した人道主義者なども、さういふ境のあることを考へて見なければならない。唯、普通に、仏教の教理としてそれを看過かんくわしてはならない。現象即実在論のもう一段上位に位してゐる境地は、そこを指してゐるのではないか。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「毒と薬」耕文堂
   1918(大正7)年11月5日発行
初出:「文章世界 第十二巻第五号」博文館
   1917(大正6)年5月1日
※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2020年5月27日作成
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