紅葉山人訪問記

田山録弥




 随分もう昔だ。その頃のことを繰返して見ると、いつの間にか月日が経つたといふことが染々しみ/″\と考へられる。尾崎紅葉と書いた返事が来た時、自分は何んなに喜んだか知れなかつたが、其喜びももう想像が出来ない位薄い印象を残してゐるに過ぎない。
 明治二十三四年頃の紅葉山人こうえふさんじんの名声はそれは隆々たるものであつた。紅葉、露伴と名を並べて言はれてゐたが、何方どちらかと謂へば、矢張紅葉の方が評判が好かつた。『色懺悔いろざんげ』『此ぬし』それから『読売新聞』に『おぼろ舟』を出した。
 春の屋主人はもう其頃は余り小説を書いて居なかつた。鴎外漁史おうぐわいぎよしもまだその処女作『舞姫』を世に公にしなかつた。其時分の大家号授与所に言はれた『国民之友』の春夏二季附録には思軒、美妙、嵯峨の屋などといふ人達が書いてゐた。
 紅葉山人の小説は艶麗な文章で聞えてゐた。それに硯友社の人達が常に其の周囲を取巻いてゐて、何処となく領袖といふやうな貫目があつたので、それで一層其頃の若い人達の渇仰の的となつた。
『読売新聞』で、露伴の『ひげ男』と紅葉の『伽羅枕きやらまくら』とを同時に掲載する計画を立てたのは、あれは確か二十三年の春頃だつたと思ふ。両花形が腕くらべをするといふので、それは非常な評判であつた。何方が旨いか、何方が成功するか、かうした声は到る処で聞えた。私なども、町の角に大きく出てゐる画看板を見て、その名声にあくがれた貧しい文学書生の一にんであつた。
 紅葉は『伽羅枕』を牛込うしごめの北町の家で書いた。太田南畝なんぽ[#ルビの「なんぽ」は底本では「なんぼ」]の屋敷の中だとかいふ奥まつた小さな家で、裏には大きな樫の樹が笠のやうになつて繁つてゐた。八畳の前の庭には、木戸がついてゐて、そこから、硯友社の人達は『居るかい』などと言つて入つて来た。
 北町の通を私は其時分よく通つた。其小さな門に、尾崎と書いた表札がかけてあつて、郵便箱には硯友社と書いてあつたのを今でもはつきりと記憶してゐる。やがて『読売』に出た二つの作は、何方も読む人達の心を惹いた。『ひげ男』は殊に評判がよかつた。『流石さすがは露伴だ!』といふ声が彼方此方あつちこつちから聞えた。それにも拘らず、露伴は五六囘で筆を絶つて、飄然として、赤城あかぎの山中に隠れた。『伽羅枕』は百囘近く続いた。
 私は其頃、毎日弁当を持つて、上野の図書館に出かけた。それで貴重書類の中から西鶴物などを借り出して読んでゐた。また時には西洋の小説などを出して来ては読んだ。西洋から入つて来た文学と漢文学と国文学と、それから徳川時代の戯作者の文学とが渦を巻いて乱れ合つてゐるといふやうなのが、当時の文壇の状態であつた。私は解らずなりにも英吉利いぎりすの文学をその頃かなりに読んでゐた。サツカレーの『虚栄市バニチーフエーア』『ニウカムス』ヂツケンスの『ヒツクウイク』『二市物語』などを読んだり、ウイルキー・コリンス[#「ウイルキー・コリンス」は底本では「ウイルキーコリンス」]の『白衣婦人』『イビル、ジニアス』を読んだりした。ワシントン・アービンクやブレツト・ハートのものなどをも読んだ。
 ロシアの作家のことを書いた評論を一冊さがし出して、人の知らないたからでも得たやうにして一生懸命に読耽つたことなどもその忘れられない一つである。その本にはゴーゴリだの、トルストイだのゝ顔が出てゐた。
 二葉亭の『浮雲』は、其頃、文壇的に評判があつたといふほどでもなかつたが、それが一種の深い印象を当時の文学書生の群に与へたといふことは争はれなかつた。『浮雲』――心理描写――ロシヤ文学、とてもあの細かい彫刻のやうな筆致は真似が出来ないと思はれてゐた。私は其頃であつたか、それともそれから一年ほど経つてからだか忘れたが、ロシア文学に就いていろ/\な知識を得たいと思つて、嵯峨の屋主人を神田のある下宿に訪ねて行つたことがあつた。主人は其時トルストイやガンチヤロフの話をいろ/\して聞かせた。
 で、私は紹介も何も無しに、紅葉山人に宛てゝ手紙を書いた。
 其返事はすぐ来た。『君たちのやうな熱心家の為めにこしらへた雑誌だから、それに入会したまへ』かう言つて、『千紫万紅せんしばんこう』といふ雑誌の成規を添へてよこした。そしてその方の幹事は江見水蔭えみすゐいんがしてゐるから、詳細はそこに行つて聞き給へと附け加へてあつた。
 で、私は初めて紅葉山人を訪ねた。
 それは二十四年の五月の二十五六日頃であつた。雨の晴れた、日影のをり/\射す、水蒸気の多い日だつた。紅葉山人は其頃新に細君を貰つて、北町から横寺町へと移転してゐた。新婚についての逸話は既に多く世の中に洩れて聞えてゐた。菊と紅葉の模様の揃ひの湯呑茶碗の話などは、貧しい一文学書生を羨殺せんさいせしむるに十分であつた。それに、其他にもいろ/\な話を聞いてゐた。
 貧しい一文学書生――キヤラコの黒の紋附の羽織に小倉の袴を穿いて、髪を長くして中央から分けた一青年は、玄関の隣の八畳から、庭に面した長い縁側を通つて、そのまゝ広い二階へと案内された。縁側のところを通る時、若い細君の赤い手絡てがらが、くつきりと白い横顔と一緒になつて見えてゐた。
 机のそばの火鉢の前で、兼ねて逢ひたいと思つた作家と相対して坐つた時、私は言ふに言はれない喜悦よろこびを感じた。それに色の浅黒い、男らしい、誰に向つても城府を設けない物の言ひ方が、臆病な私の心を和げた。私はいろ/\なことを話しかけた。
『矢張、西洋の物は読むやうにしないと、駄目だね』
 山人はかう言つて、『此間、アメリカに行つてる友達から、ゾラのものを送つて来たので、読んでゐるが、それは随分細かい。よくあゝ書けると思はれる位だ。坊さんが堕落するやうなところを書いたものだが、実によく書いてあるよ』傍に置いてあつた扇を取つて、それをひろげて、『丁度、この扇の襞のやうに、明るいところと、暗いところとが実に巧に書き分けてある……我々ももう少し何うかして、さういふところに出て行きたいと思ふが……中々難かしいね』
『これですか』
 私はかう言つて、傍に転がつてあつた一冊の洋書を取つた。それには ABB※(グレーブアクセント付きE小文字) Mouret's Transgression By Emile Zola としてあつた。
 それから私は英吉利文学の話だの、詩の話だの、西鶴の話だのを持出した。
 西鶴に就いてはかう言つた。
『西鶴はちよつと分らん。あれは檀林の俳諧から出来たものだから、檀林の俳句から入つて行かなけりや、よく解らんねえ』
 八畳の壁には、巌谷一六居士こじの書いた、新婚を祝つた幅物がかけてあつた。其頃、山人はまだ二十七八位であつた。私は一躍して大家となつた山人の幸福な生活を羨まずには居られなかつた。
 二階からの眺めは広々としてゐた。屋根の続いた上には、地平線が遠く晴れやかに望まれた。緑葉りよくえふに射す日影、白いカンナ屑のやうな雲……
『富士が見えますね』
『夕方などは好いよ』
『それは好いですな!』
 私はワザ/\縁側のところに立つて行つて四辺あたりを眺めた。

 私の家は其頃矢張牛込にあつた。
 貧しい私の家は、其頃間数の多い家になど住むことは出来なかつた。私は三間しかない汚い家の中に居た。私は机を座敷の八畳の一隅に置いた。
 机の前が硝子障子になつてゐるので、其処から猫の額のやうな小さい庭が常に見えた。はふつたまゝにして置いた万年青おもとの鉢だの、せいの低い痩せこけた芭蕉だの、ボケだの、薔薇だのが見えた。時には明るい日影が射したり、雨がしめやかに降つてゐたりした。私はいつもそこで日を暮した。
 正午ひる近くなると、豆腐屋の声が彼方此方あつちこつちに聞えた。
『録、お飯だよ』
 なかば白髪しらがになつた母親は、かう言つて隣の間から声をかけた。
 紅葉山人を始めて訪問して帰つて来た時には、自分のうちが此上もない汚いみぢめなものに見えて、情けなかつた。畳のデコボコしたのも佗しければ、障子の紙の黒くよごれてゐるのも不愉快であつた。私は着物も着へずに、長い間、机の前に坐つて、黙つて考へてゐた。
『勉強する外仕方がない』
 かう思つて、私は下唇を噛んだ。
 私はもう其頃、小説を二つ三つ書いて持つてゐた。それを二度目に行つた時、持つて行つて山人に見せた。山人は後で、二枚ほど直して批評をつけて送りかへして呉れた。
柳ちる千筋となでし黒髪も
 かういふ句を二度目か三度目の時に山人は短冊に書いて呉れた。
 それから、私は江見水蔭の家をもたづねた。
 硯友社――根岸派――早稲田派――民友社派――やゝ後れて千駄木派などといふ名目みやうもくが、其頃文壇にあつた。
 作家は矢張硯友社に多かつた。出版書肆などの関係も硯友社が一番密接な関係を持つてゐたらしかつた。紅葉山人は『読売』ばかりではなく、春陽堂などといふ書肆にも大きな勢力を持つてゐた。
 しかし全体の傾向から推して来ると、文壇の先頭に立つてゐるといふ方面ではなかつた。西洋の感化を受けた作家乃至作物は少なかつた。
 硯友社同人の持つた一種通がつたイヤミと言つたやうなものに対しても反感を持つ人がかなり多かつた。
『文学者になる法』といふ皮肉なものを書いた不知庵(今の魯庵)や正直正太夫しやうぢきしやうだいふや、それに、民友社の人達も何方かと言へばその向ふ側に立つた人達であつた。
 民友社の人達は、政治と文学とを一致させたやうなテーストにその基礎を置いてゐた。ビーコンスフイルド卿の小説などを持出した人もあつたやうにすら私は記憶してゐる。そして、此派には基督教の影響が著しく及んでゐる。硯友社の人に言はせると、『あんなバタ臭いものは仕方がない』と言つた。実際さうであつた。そこからは、湖処子の『帰省』だの、蘆花の『夏の夜がたり』などが生れた。嵯峨の屋の自然を詠歎したやうな文章もその新聞に載せられた。
 鴎外漁史は二十四年の中頃あたりから段々文壇に其姿を現はして来た。漁史がドイツから齎し来つた知識と学問とは、幼稚な当時の文壇を驚かせた。
 二十四年の『国民之友』の夏期附録に載せられたSSS同人の詩の翻訳、それから続いて『しがらみ草紙』の発刊、『舞姫』の発表――一時は文壇の評論界を席巻した概があつた。

『舞姫』と紅葉の『拈華微笑ねんげみせう』が一緒に『国民之友』の春期附録に出た。

 紅葉の作に、『焼継茶碗やきつぎちやわん』(袖時雨)といふのがある。丁度、私が紅葉山人を訪問した頃に書いてゐた作だが、それは、鴎外漁史を主人公にしてゐるものだといふことを私は後に聞いた。
 気に入らない妻が夫に情を尽すといふやうなもので、素人うけはしなかつたが、よく書いてある作であつた。
『舞姫』は硯友社風の作品に対して、別に一旗幟を立てたものであつた。浅墓な客観かくゝわん芸術に対して真摯な主観芸術の発表であると言つても差支なかつた。当時褒貶相半ばしたが、兎に角新しい試みであるといふことには誰も一致した。
 鴎外漁史の根岸派に近寄らなかつたのは面白い現象だ。露伴や思軒は硯友社の同人よりも無論鴎外漁史に近かつたが、しかも鴎外は根岸派に身を投じて、当時の大勢力である硯友社に当るやうなことはしなかつた。
 で、一方には『浮雲』のやうな心理描写があり、一方には硯友社のやうな雅俗折衷があり、思軒の翻訳文があり、鴎外の新しい試作があり、蘇峰三のハイカラな文章があり、湖処子、さがのやの新体詩があり、早稲田派の記実主義があるといふやうな文壇の空気の中に、私はゾラを読んだり西鶴を読んだりするやうな一文学書生であつた。
 紅葉山人の許には、其後も時々訪問した。
 その時分は鏡花、風葉などが段々その玄関に居るやうになつてゐた。紅葉山人は新聞を書きはじめると、いつも留守をつかつた。私などもよくつかはれた一人だつた。
 紅葉山人が初めての子を亡くした時の句に、
乳捨てに出れば朧の月夜かな
饅頭の数ほどもなき命かな
と言ふのがあつた。あの綺麗な細君からあの可愛い子が出来た。それさへ既に私のセンチメンタルな心を動かしたのに、それが一年も経たずに死んだ……私は紅葉山人があの門の処で、その子供を抱いてゐたことを思ひ出して、一種の悲哀に撲たれずには居られなかつた。
 花々しい生活――さういふことが、山人を訪問する度に、いつも私の胸に上つた。実際、其頃紅葉山人位人に羨まれる生活をしてゐる文学者はなかつたのである。友人も多かつたし、其周囲に集つて来る人も多かつたし、それに第一に収入が多かつた。いかな時でも来客の居ない時は滅多にないといふやうな生活であつた……。正月など年始に行くと、鏡花や風葉が袴をはいて、玄関のところにゐたりなどした。
 いかにも江戸子らしい気分の人で、議論もかなり好きであつた。常識を重んじて、そこから自分の実践する道徳を引出して来るといふやうなところがあつた。それに感情的でもあつた。
 私は江見水蔭のうちへもよく出かけて行つた。水蔭は其頃、元、紅葉の居た北町に住んでゐた。心置なく作の批評などをして貰へるので、後には紅葉の家よりも水蔭の家の方へ多く訪問した。八畳の座敷に経机を置いて、其処で水蔭は原稿を書いた。骨ばかりの提灯ちやうちんを封筒入にして吊して置いたりした。

 それはある夜であつた。私が水蔭の家に行つてゐると、紅葉山人が裏からこつそり黙つて入つて来た。
『もう帰つて来たのかえ?』
 主人がかう言ふと、
『えらい眼に逢つたよ』
 かう言つて、山人は旅で、旅籠屋はたごやで金を取られて、そこ/\に帰つて来た話をした。『たしかに隣にゐた奴だがね、金ぐさりなんかして、変な風采をしてゐる奴だつた。そいつに違ひないんだ……で、仕方がないから、旅籠屋にさう言ふと、初めの中は、変な顔をして却つて此方を疑がつてるんだ。癪だつたけれど、旅に出ちや仕方がない。本名をあかして頼むと、幸ひ僕の名を知つてる奴がゐてね、それから金を借りて、漸く帰つて来たよ』
 何でもそれは小田原の酒匂さかはあたりの話だと覚えてゐる。
 水蔭と二人で、いかにも親しい友達であるかのやうに――他で聞いては、鳥渡わからぬやうな符徴の入つた流暢な話し振、それが何んなに私の耳に羨しく響いたか知れなかつた。
 北町の大きな樫の樹の下から、だら/\と坂を下りて、いへと家との間の細い通を通つて大通へ出て、それからまた坂を上つて、寺の墓地の傍を向ふに出ると……その二階家……戸が閉めてある。また寝てゐるな……。記念の多い二階家だ。
 私のやうな文学書生の議論に、それでもよく調子を合せて呉れたと今でも思ふ。『――そんなことを言ふなら、小説を書かん方が好い。小説は人が見るもんだからね、自分一人で蔵つて置くもんぢやないからね』かうしたことを山人はよく言つた。
 山人は退屈すると、銭湯に出かけて行つたり、大弓だいきうを引きに出かけて行つたりした。途中などで邂逅でつくはすと、『僕のうちに来たのかえ、これから弓に行くんだ、一緒に行き給へ』
 などと誘つた。
 大弓は獅子寺の中にあつた。今、勧工場くわんこうばのある奥の方にあつた。そこの主人も面白い男だつた。其処には硯友社の同人はな出かけて行つた。
 何でも、結婚した当座の話だと思ふ。細君が大きな丸髷姿か何かで神楽坂の通りを遣つて来ると、其処でふと山人に邂逅した。処が、山人が、『お買物ですか――』と笑つて声をかけたので、細君はきまりがわるいこと一通でなく、顔を真赤にしてよけて通つたといふ話はかなり名高い話で、その時分の文学書生は誰でも知つてゐた。そして誰も皆その花やかな生活を羨んだ。

 神楽坂の毘沙門びしやもんの縁日――
 その賑やかな坂の上から、中町へ出る路と、北町へ出る路と、それから紅葉山人の住んでゐる横寺町へ曲る路と、この三つが今でも私にはなつかしい思ひ出となつてゐる。
 北町の通では、その大きな樫の樹、それの西風に鳴る潮のやうな響、それから綺麗な娘の居た二階家の欄干、愛日学校の小さい生徒の群、それを通り越すと、通りが細く汚くなつて、何の興味をも惹かなくなつて了ふ。中町の通では刈込んだ綺麗な垣、槇や檜の多い栽込うゑこみの中の木犀のかをり、そこから見た富士の姿は、東京でも多く他に見ることが出来ないやうな美しさを備へてゐた。それから少し来て、菊を栽培する家の妹娘……砲兵中佐の総領娘……ある大名の家令の娘……
 横寺町の通は、山手で名高い旨いどぶろくを売る居酒屋、墓地を隔てゝ紅葉山人の二階の窓……
 明治二十三四年頃から卅四五年まで、私はこの通りを何んなに歩いたか知れなかつた。恋にあくがれたり、名誉にあくがれたり、富貴にあくがれたりして、時には失望の心を遣るに場所がない為めに、わざ/\其処に出て来たりした。私の家は牛込の山手の奥にあつた。裏に沢山実の生る栗の木があつた。
 紅葉山人を思出さうとすると、牛込の山手の空気と気分とが、先づ私の心を襲つて来る。賑やかな神楽坂の通の奥に住んで居た文壇の大家といふ風に、何うしても私には思ひ出されて来る。





底本:「定本 花袋全集 第二十七巻」臨川書店
   1995(平成7)年7月10日発行
底本の親本:「椿」忠誠堂
   1913(大正2)年5月5日
初出:「文章世界 第七巻第十四号」
   1912(大正元)年10月15日
※初出時の表題は「紅葉訪問記」です。
入力:岡村和彦
校正:津村田悟
2019年12月27日作成
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