随分もう昔だ。その頃のことを繰返して見ると、いつの間にか月日が経つたといふことが
明治二十三四年頃の
春の屋主人はもう其頃は余り小説を書いて居なかつた。
紅葉山人の小説は艶麗な文章で聞えてゐた。それに硯友社の人達が常に其の周囲を取巻いてゐて、何処となく領袖といふやうな貫目があつたので、それで一層其頃の若い人達の渇仰の的となつた。
『読売新聞』で、露伴の『ひげ男』と紅葉の『
紅葉は『伽羅枕』を
北町の通を私は其時分よく通つた。其小さな門に、尾崎と書いた表札がかけてあつて、郵便箱には硯友社と書いてあつたのを今でもはつきりと記憶してゐる。やがて『読売』に出た二つの作は、何方も読む人達の心を惹いた。『ひげ男』は殊に評判がよかつた。『
私は其頃、毎日弁当を持つて、上野の図書館に出かけた。それで貴重書類の中から西鶴物などを借り出して読んでゐた。また時には西洋の小説などを出して来ては読んだ。西洋から入つて来た文学と漢文学と国文学と、それから徳川時代の戯作者の文学とが渦を巻いて乱れ合つてゐるといふやうなのが、当時の文壇の状態であつた。私は解らずなりにも
ロシアの作家のことを書いた評論を一冊さがし出して、人の知らない
二葉亭の『浮雲』は、其頃、文壇的に評判があつたといふほどでもなかつたが、それが一種の深い印象を当時の文学書生の群に与へたといふことは争はれなかつた。『浮雲』――心理描写――ロシヤ文学、とてもあの細かい彫刻のやうな筆致は真似が出来ないと思はれてゐた。私は其頃であつたか、それともそれから一年ほど経つてからだか忘れたが、ロシア文学に就いていろ/\な知識を得たいと思つて、嵯峨の屋主人を神田のある下宿に訪ねて行つたことがあつた。主人は其時トルストイやガンチヤロフの話をいろ/\して聞かせた。
で、私は紹介も何も無しに、紅葉山人に宛てゝ手紙を書いた。
其返事はすぐ来た。『君たちのやうな熱心家の為めにこしらへた雑誌だから、それに入会したまへ』かう言つて、『
で、私は初めて紅葉山人を訪ねた。
それは二十四年の五月の二十五六日頃であつた。雨の晴れた、日影のをり/\射す、水蒸気の多い日だつた。紅葉山人は其頃新に細君を貰つて、北町から横寺町へと移転してゐた。新婚についての逸話は既に多く世の中に洩れて聞えてゐた。菊と紅葉の模様の揃ひの湯呑茶碗の話などは、貧しい一文学書生を
貧しい一文学書生――キヤラコの黒の紋附の羽織に小倉の袴を穿いて、髪を長くして中央から分けた一青年は、玄関の隣の八畳から、庭に面した長い縁側を通つて、そのまゝ広い二階へと案内された。縁側のところを通る時、若い細君の赤い
机の
『矢張、西洋の物は読むやうにしないと、駄目だね』
山人はかう言つて、『此間、アメリカに行つてる友達から、ゾラのものを送つて来たので、読んでゐるが、それは随分細かい。よくあゝ書けると思はれる位だ。坊さんが堕落するやうなところを書いたものだが、実によく書いてあるよ』傍に置いてあつた扇を取つて、それをひろげて、『丁度、この扇の襞のやうに、明るいところと、暗いところとが実に巧に書き分けてある……我々ももう少し何うかして、さういふところに出て行きたいと思ふが……中々難かしいね』
『これですか』
私はかう言つて、傍に転がつてあつた一冊の洋書を取つた。それには ABB Mouret's Transgression By Emile Zola としてあつた。
それから私は英吉利文学の話だの、詩の話だの、西鶴の話だのを持出した。
西鶴に就いてはかう言つた。
『西鶴はちよつと分らん。あれは檀林の俳諧から出来たものだから、檀林の俳句から入つて行かなけりや、よく解らんねえ』
八畳の壁には、巌谷一六
二階からの眺めは広々としてゐた。屋根の続いた上には、地平線が遠く晴れやかに望まれた。
『富士が見えますね』
『夕方などは好いよ』
『それは好いですな!』
私はワザ/\縁側のところに立つて行つて
私の家は其頃矢張牛込にあつた。
貧しい私の家は、其頃間数の多い家になど住むことは出来なかつた。私は三間しかない汚い家の中に居た。私は机を座敷の八畳の一隅に置いた。
机の前が硝子障子になつてゐるので、其処から猫の額のやうな小さい庭が常に見えた。
『録、お飯だよ』
紅葉山人を始めて訪問して帰つて来た時には、自分の
『勉強する外仕方がない』
かう思つて、私は下唇を噛んだ。
私はもう其頃、小説を二つ三つ書いて持つてゐた。それを二度目に行つた時、持つて行つて山人に見せた。山人は後で、二枚ほど直して批評をつけて送りかへして呉れた。
柳ちる千筋となでし黒髪も
かういふ句を二度目か三度目の時に山人は短冊に書いて呉れた。それから、私は江見水蔭の家をもたづねた。
硯友社――根岸派――早稲田派――民友社派――やゝ後れて千駄木派などといふ
作家は矢張硯友社に多かつた。出版書肆などの関係も硯友社が一番密接な関係を持つてゐたらしかつた。紅葉山人は『読売』ばかりではなく、春陽堂などといふ書肆にも大きな勢力を持つてゐた。
しかし全体の傾向から推して来ると、文壇の先頭に立つてゐるといふ方面ではなかつた。西洋の感化を受けた作家乃至作物は少なかつた。
硯友社同人の持つた一種通がつたイヤミと言つたやうなものに対しても反感を持つ人がかなり多かつた。
『文学者になる法』といふ皮肉なものを書いた不知庵(今の魯庵)や
民友社の人達は、政治と文学とを一致させたやうなテーストにその基礎を置いてゐた。ビーコンスフイルド卿の小説などを持出した人もあつたやうにすら私は記憶してゐる。そして、此派には基督教の影響が著しく及んでゐる。硯友社の人に言はせると、『あんなバタ臭いものは仕方がない』と言つた。実際さうであつた。そこからは、湖処子の『帰省』だの、蘆花の『夏の夜がたり』などが生れた。嵯峨の屋の自然を詠歎したやうな文章もその新聞に載せられた。
鴎外漁史は二十四年の中頃あたりから段々文壇に其姿を現はして来た。漁史がドイツから齎し来つた知識と学問とは、幼稚な当時の文壇を驚かせた。
二十四年の『国民之友』の夏期附録に載せられたSSS同人の詩の翻訳、それから続いて『しがらみ草紙』の発刊、『舞姫』の発表――一時は文壇の評論界を席巻した概があつた。
『舞姫』と紅葉の『
紅葉の作に、『
気に入らない妻が夫に情を尽すといふやうなもので、素人うけはしなかつたが、よく書いてある作であつた。
『舞姫』は硯友社風の作品に対して、別に一旗幟を立てたものであつた。浅墓な
鴎外漁史の根岸派に近寄らなかつたのは面白い現象だ。露伴や思軒は硯友社の同人よりも無論鴎外漁史に近かつたが、しかも鴎外は根岸派に身を投じて、当時の大勢力である硯友社に当るやうなことはしなかつた。
で、一方には『浮雲』のやうな心理描写があり、一方には硯友社のやうな雅俗折衷があり、思軒の翻訳文があり、鴎外の新しい試作があり、蘇峰三
紅葉山人の許には、其後も時々訪問した。
その時分は鏡花、風葉などが段々その玄関に居るやうになつてゐた。紅葉山人は新聞を書きはじめると、いつも留守をつかつた。私などもよくつかはれた一人だつた。
紅葉山人が初めての子を亡くした時の句に、
乳捨てに出れば朧の月夜かな
饅頭の数ほどもなき命かな
と言ふのがあつた。あの綺麗な細君からあの可愛い子が出来た。それさへ既に私のセンチメンタルな心を動かしたのに、それが一年も経たずに死んだ……私は紅葉山人があの門の処で、その子供を抱いてゐたことを思ひ出して、一種の悲哀に撲たれずには居られなかつた。饅頭の数ほどもなき命かな
花々しい生活――さういふことが、山人を訪問する度に、いつも私の胸に上つた。実際、其頃紅葉山人位人に羨まれる生活をしてゐる文学者はなかつたのである。友人も多かつたし、其周囲に集つて来る人も多かつたし、それに第一に収入が多かつた。いかな時でも来客の居ない時は滅多にないといふやうな生活であつた……。正月など年始に行くと、鏡花や風葉が袴をはいて、玄関のところにゐたりなどした。
いかにも江戸子らしい気分の人で、議論もかなり好きであつた。常識を重んじて、そこから自分の実践する道徳を引出して来るといふやうなところがあつた。それに感情的でもあつた。
私は江見水蔭の
それはある夜であつた。私が水蔭の家に行つてゐると、紅葉山人が裏からこつそり黙つて入つて来た。
『もう帰つて来たのかえ?』
主人がかう言ふと、
『えらい眼に逢つたよ』
かう言つて、山人は旅で、
何でもそれは小田原の
水蔭と二人で、いかにも親しい友達であるかのやうに――他で聞いては、鳥渡わからぬやうな符徴の入つた流暢な話し振、それが何んなに私の耳に羨しく響いたか知れなかつた。
北町の大きな樫の樹の下から、だら/\と坂を下りて、
私のやうな文学書生の議論に、それでもよく調子を合せて呉れたと今でも思ふ。『――そんなことを言ふなら、小説を書かん方が好い。小説は人が見るもんだからね、自分一人で蔵つて置くもんぢやないからね』かうしたことを山人はよく言つた。
山人は退屈すると、銭湯に出かけて行つたり、
などと誘つた。
大弓は獅子寺の中にあつた。今、
何でも、結婚した当座の話だと思ふ。細君が大きな丸髷姿か何かで神楽坂の通りを遣つて来ると、其処でふと山人に邂逅した。処が、山人が、『お買物ですか――』と笑つて声をかけたので、細君はきまりがわるいこと一通でなく、顔を真赤にしてよけて通つたといふ話はかなり名高い話で、その時分の文学書生は誰でも知つてゐた。そして誰も皆その花やかな生活を羨んだ。
神楽坂の
その賑やかな坂の上から、中町へ出る路と、北町へ出る路と、それから紅葉山人の住んでゐる横寺町へ曲る路と、この三つが今でも私にはなつかしい思ひ出となつてゐる。
北町の通では、その大きな樫の樹、それの西風に鳴る潮のやうな響、それから綺麗な娘の居た二階家の欄干、愛日学校の小さい生徒の群、それを通り越すと、通りが細く汚くなつて、何の興味をも惹かなくなつて了ふ。中町の通では刈込んだ綺麗な垣、槇や檜の多い
横寺町の通は、山手で名高い旨いどぶろくを売る居酒屋、墓地を隔てゝ紅葉山人の二階の窓……
明治二十三四年頃から卅四五年まで、私はこの通りを何んなに歩いたか知れなかつた。恋にあくがれたり、名誉にあくがれたり、富貴にあくがれたりして、時には失望の心を遣るに場所がない為めに、わざ/\其処に出て来たりした。私の家は牛込の山手の奥にあつた。裏に沢山実の生る栗の木があつた。
紅葉山人を思出さうとすると、牛込の山手の空気と気分とが、先づ私の心を襲つて来る。賑やかな神楽坂の通の奥に住んで居た文壇の大家といふ風に、何うしても私には思ひ出されて来る。