一夜のうれい

田山花袋




 夜ははや十時を過ぎたり。されどうき立たざる心には、臥床ふしどを伸べんことさえ、いとものうし。まして我はねてだに、うれしき夢見るべき目あてもあらぬはかなき身なれば、むしろ眠らずして、このまま一夜を闇黒のうちに過すべきか、むしろこの一夜の永久なる闇黒界にならんことを、慈悲ある神に祈るべきか。かく悲しく思いつづけつつ、われはなお茫然としておりたれど、一点の光だにわれをなぐさむるものもあらぬに、詮方せんかたなくてやがていねたり。
 枕に着くれば、如何なる熱情も静まるものとかねて聞きしが、われのはそれと反対にて、空想は枝に枝を生じ、またその上に枝を生じて、果てしなく狂いいだししこそ墓なけれ。何故に、われはかく迄この世の中おもしろからぬか。何故に、かく迄このわが身の楽しからぬか。死、死という事などは、わが身に取りては、何のわけもなきことなり。
 つらつら観ずれば、人の命なるもの、たつと[#ルビの「たつと」はママ]しと思えば、尊ときに相違なけれど、とうとからずと見る時は、何のまた些少いささかの尊さのあるべき。かつそれ、稀には百歳の寿を保つものありといえども、生れて直ちに死する人もあり、あるいは長生するやもはかられざれども、また今直ちに何事か起り来るありて、にわかに死するやも料られざるにはあらずや。否、それのみにはあらじ、地震起り海嘯つなみきたるときは、賢愚貴賤何の用捨もなく、何の差別もなく、一度に生命いのちを取らるることもあるにあらずや。
 しかるを、わが身のみ、如何でかこれに異ることのあるべき。たとえ今日は自殺せざるとも、明日如何なる災ありて、死することなしとも限らず、これを思えば、今直ちに死するとも、また少しの遺憾もなしかつまた自から殺すは、卑怯なりという人もあれど、死せんと欲する心の出でて、これを断行し得たる以上は、たとえ自から刀を手にしたりとも、これ果して我の業か、天為なるか知るべからず。さば道理の上に於ては、今直ちに自殺するとも、まことに何の遺憾もなきが如し。されどもし仮に匕首ひしゅを喉に擬するとするに、何故か知らねど、少しく躊躇して、断行することあたわざる一点の理由の存するが如きを覚ゆ。
 あわれこは何故か、われは自からもさとること能わざれども、こはいまだ確かにその程までの極点に達せざるが故なるべし。否、或はわが身の勇気に乏しきが故にはあらざるか。われとて強いて死を願うにはあらざれども、この面白からぬ世にありながら、我はこれを断行する能わざるを思えば、われながらあまりに意気地なきことなり。
 ああまたしても心に浮び出ずるか、かのなつかしき梅子の君よ、君とだに伴いてあらんには、世は楽しくかつうれしきものなるを、入谷の里に朝顔を見に行きたる朝、如何にうれしく楽しかりしか。両国の川開きに打ち連れ立ちて行きにし夕、如何に楽しくなつかしく思いたりしか。月夜に琴を弾くことを、この上なく好むという君の言葉を聴きし時のこと、わが遠き旅路にいで立つことを悲しみてくれたる時のこと、思い出ずれば、嬉しとも嬉しく、楽しとも楽しきものを、如何なればわれはかく悲しきことをのみ思い出でて、自から死なんとまで思えるか。梅子の君よ、御身は何故にかくまで思えるわれを捨てて、またわがかたわらへはきたらんとはせざる。ああかの無邪気なる昔、かの楽しかりし昔をたどりて見れば、わが身は今も御身の傍にあるが如くに覚ゆるものを。わが膝に泣き伏す御身のせなを撫でいる如く覚ゆるものを。
 かくおもい来りて、われは遂に堪えず、われは死することを好まず、死することを好まずと、いきまきて心の中に叫びたり。叫ぶやがて、涙は雨の如くあふれ出でぬ。あわれこのあふれ出ずる涙を思うままに溢出さしめ、思うままに声を挙げて泣き叫ばしめたらんには、幾何いくばくかわがこの悲しみを洗い去ることを得しなるべけれど、人に聞かるるの恐れあれば、われは声を忍びて、かたく顔をきんに押し当てて欷歔すすりあげしに、熱涙綿わたに透りて、さながら湯をば覆えしたるごとく、汗は流れて、熱をやみたる人のごとく、いとあつし。
 ここに至りて、われは甚だしくつかれ、あたかも小児こどもが慈母に抱かれて泣き止みたるが如く、またやさしき保姆うばのかなしき守歌もりうたをきかせられたるが如く、いつか熟眠の境に入りぬ。
 かくてこの長き冬の夜に、寒けき月があるいは綿の如き雲の中をくぐり、或は墨のごとき黒雲に蔽われ、或は晴れ、或はくもりて、独り静かに大空をわたり行くをも知らず、時々月明げつめいに驚きて騒ぎわたれる烏の、ねつかぬ乳呑児ちのみごおどすたよりとなるをも知らず、今こそはおのれの天地なれといい顔に、犬の高き遠吠とおぼえを火の見やぐらに響かすとも知らず、すさまじき風の吹き来りて、ねやの雨戸をがたがたとうごかすとも知らず、時々ひびく遠寺の鐘が、たえず無常を告ぐるとも知らず、東の窓の明くなりたるに驚きて、眼さむれば、あたかも小児が朝おき出でて、だ母の乳房にありつかぬ中の如く、泣き出したきまでに、いとかなし。むしろよべ泣きて寝入りしままに、蘇えらでもよかりしものと。





底本:「天変動く 大震災と作家たち」インパクト出版会
   2011(平成23)年9月11日第1刷発行
底本の親本:「文藝倶樂部 第二巻第九編臨時増刊 海嘯義捐小説」博文館
   1896(明治29)年7月25日
初出:「文藝倶樂部 第二巻第九編臨時増刊 海嘯義捐小説」博文館
   1896(明治29)年7月25日
入力:持田和踏
校正:noriko saito
2023年3月28日作成
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