一
「天真正伝神道流」の流祖、
飯篠長威斎家直が当時東国第一の兵法者とされているのに対して、富田
勢源が西に対立して
双び称されて居たものである。中条流より出た父九郎右衛門の跡を継ぎ名を五郎左衛門、入道してのちに勢源、自ら富田流の一派を
樹てて無双の名人とされて居た。越前の国宇阪の荘、一乗浄教村の住人である。
飯篠家直の門下からは、
弘流の井鳥為信、
一羽流の諸岡一羽、本心刀流の
妻方謙寿斎、神道一心流の
櫛淵宣根、有馬流の有馬頼信、新陰流の上泉伊勢守の如き剣豪が出て居るし、富田流から一放流の富田一放、長谷川流の長谷川宗喜、無海流の無一坊海園、鐘捲流の鐘捲自斎などの俊才が出たが中でも鐘捲自斎が
傑れていたらしく、門人に伊藤一刀斎景久が出て徳川中世の武道を
風靡した一刀流の源を造っている。この間にあって佐々木小次郎も富田門に学んで、自ら師より許されて岩流の一派を開いたその俊才の一人であったが、「岩流」を開く事を許されたのが十六歳というからその天才的な練達、武蔵に討たれなかったら鐘捲自斎以上であったにちがいない。
勢源という人は小太刀の名人であった。眼を病んで入道になってからいよいよ小太刀を研究して好んで一尺三寸の得物を使った。永禄三年五月、美濃の国の国主、斎藤
義竜の乞によって飯篠門下の梅津某を一撃の下に倒した時などは、
薪の一尺二三寸のものに手許へ革をまいただけの得物であった。佐々木小次郎は同国越前の産、幼少の頃から勢源に就いて学んだが、好んで大太刀を使ったと伝えられて居る。
十五六の頃、小次郎が三尺の木剣、ほぼ勢源の
対手をするに足る位に使えるようになった。勢源が強いと云った所で、小次郎がやや相対しうる位に使えると云った所で、どの位の程度か判らないが、外の者と比較するには梅津某でも取ってくるといい。この人は飯篠家直の歿後、同門中に有って手に立つ者が無く相弟子の多くがその門下の礼をとったと云うのだから相当に上手であつたとは窺える訳である。美濃の国にも手の立つものがない。義竜それを無念として、折よく遊歴して来ていた勢源に三度礼を厚くして立合ってもらったのである。この二人の勝負はてんで問題にならなかった。小次郎と武蔵の立合なんかより遥かに余裕あって勢源は勝った。従って十五六にして「
粗々技能有」と伝えられている位、師に対抗出来た小次郎は立派な達人であったらしい。武蔵が「天晴れな若者」と惜しんだのも
尤もである。
後に五郎左衛門勢源の跡を継いだその弟富田治部右衛門を美事に打込むと共に、勢源は「岩流」を樹つる事を許した。「岩流」又は「巌流」とかく。信頼すべき書「二天記」によると「その法最も奇なり」と有るから、独創の攻防法を編出していたものと見える。一流を樹てると共に彼は諸国巡歴の旅に上った。当時、足利義輝の師範役塚原
卜伝は引退して非ず、京師には吉岡
憲法の子、又三郎が随一の者とされていた。
豊前の国小倉へ来るとともに、太守細川三斎
忠興が彼を抱えて師範役とした、留まること半歳、早くも中国、九州に名を響かせて鬼と呼ばれた。
二
宮本武蔵は主家
新免氏に従って、関ヶ原の
戦に参加した。新免氏は浮田の家臣であるから石田方である。浮田家の滅亡と共に新免氏は筑前の黒田家に従う事となったので西へ下る、その旅の中に武蔵は従っていたのである。
武蔵の父は十手の名人で無二斎と称し、主人、新免氏の姓を名乗る事を許されて、新免無二斎とも称していたが、この人夫妻の墓は
美作の国
英田郡字宮本と云う所に有る。そして此処に武蔵の屋敷跡も、新免氏の居城の跡もある。系図によると
素は平田氏とも平尾氏とも云って居たが、この宮本村へ移ってから宮本氏を称したとするのが本当で、此処で武蔵は生れたのである。
尤も武蔵の祖先に播州の旧家赤松氏の支族があるから、播州に縁の無い事もないし、宮本と云う所が、播作の国境に近いから間違いが起ったかと思えるし、父の代の前半までに播州におったとしたら、馴染の薄い美作より播州の方が口に出よいかも知れぬし、系図を尊ぶ時代故、武蔵も、
「播州赤松の後」
位の事は云っていたかも知れない。しかし屋敷跡もあり、父母の墓もあるし、旧主の城跡もあるとすれば、播州の人と云う、正確な証拠の出ぬ以上、美作の人とすべきである。
慶長十七年四月、小倉へ来た武蔵は、細川家の重臣、長岡佐渡ノ主
興長を訪うた。興長は父無二斎の門弟である。そして、
「佐々木小次郎と一手合せたいから、上へ願ってくれないか」
と申入れた。細川三斎は
頗る武芸を好んだ人であった。岩流を独創した小次郎と二天一流を発明した武蔵とは、武道に
携る者として知らない者の無い名である。興長の話を聞いてすぐ許した。そして、
「日は四月十三日、辰の上刻(午前八時)、場所は船島に於いて」
と云う事になった。船島は下の関と小倉から一里の海上にある小倉領の小島である。船島とも向島とも云うが今「岩流島」と呼ばれている。「二天記」によると、
「扨テ前日、府中ニ触レアッテ此度双方勝負ノ贔屓ヲ禁止セリ。興長主武蔵ニ謂テ曰ク、明朝辰ノ上刻向島ニ於テ、岩流小次郎ト仕合致スベキ由ヲ諭ス。小次郎ハ忠興公(三斎)ノ船ニテ差越サルベシ。武蔵ハ興長ノ船ニテ可被渡也。
武蔵、喜色面ニ顕シ、願望達セシコトヲ謝ス」
とある。ところがその前夜の事、武蔵は出たまま行方が判らなくなってしまった。
噂というやつはこういう時に得たり賢しと立つ。
「岩流の腕に恐れて逃げたのだろう」
「まさか許されまいと思っていたのが許されたから
怖気づいたのだろう。岩流に立合を申込んだと云って自分に箔をつけるつもりの目算が外れたからよ」
というような種類のものであろう。それだけに細川家中の人々は小次郎に贔屓している訳である。そして佐々木小次郎の腕前を信じているし、信じさせるだけの達者であったのである。長岡佐渡はこの噂を聞いて、武蔵を疑った。もしかしたら、と云う懸念もない事は無いからである。然し、そういう噂を立てる連中よりは、武蔵をよく知っている。第一に小次郎を恐れて逃げるなら別に今には限らないし、試合を避けるなら口実として病気、主命といくらでもある。多分下の関へ行ってそこから向島へ渡るつもりだろうと考えたが、とにかく
在所を探してと二三の家来を出して、下の関の宿屋を求めさせた。すると果して船問屋小林太郎左衛門の
家に居た。主命を告げると武蔵一書をかいて家臣の者に渡す。文に曰く、
明朝仕合ノ儀ニ付キ私、其許様御舟ニテ向島ニ可被遣之由被仰聞、重畳御心遣ノ段忝奉存候、然共今回小次郎ト私トハ敵対ノ者ニテ御座候、然ルニ小次郎ハ忠興様御船ニテ被遣私ハ其許様御船ニテ被遣ト御座候処、御主人ヘ被対如何ト奉存候、此儀私ニハ御構不被成候テ可然奉存候、此段御直ニ可申上ト存候ウトモ御承引ナサルマジク候ニ付、態ト不申候テ爰元ヘ参居シ、御船ノ儀ハ幾重ニモ御断申候、明朝ハ爰元船ニテ向島ヘ渡候事、少シモ支無御座候、能時分参可申候間、左様ニ可被思召候已上
宮本武蔵