春夫偏見

直木三十五




◇少し何うも「文藝家の生活を論ず」は、得意のもので無さすぎる。餘り無さすぎて、私はそれを正すのに大して興味をもたないが、彼の名を信じて、このまゝこれを正義とする人があつたなら、その人は不幸であると思ふから、いかに支離滅裂であるかといふ事だけを手短かに書いてをく。それは救はれそうにもない春夫氏にでは無く――小部分でもあの論に賛成した人に對してゞある。
 ◇一は四五人の作家の稿料が高すぎるからもつと減じていゝ、といふのであるが、これに對しては、四五人を減じるよりも、それ以外の人をもつと高くしては何うかといふ論法と、一二種の雜誌の外、こんな稿料は支拂はないから全文こゝから出發しては論に成らないといふ事と、その高い稿料を支拂へる雜誌は支拂つていゝだけ儲けてゐるのだから、四五人の稿料を減じたとて、雜誌屋がその餘剩を四五人以外の人に施さない以上、むしろもつと高くとつて適當に散じた方がいゝで無いか、とでも云へば春夫の論は破れてゐる。「要求しさへすれば二十圓はくれる」といふ、狡るい雜誌屋を對手に、稿料を安くしたつて、誰の利益になるといふのか?
 ◇二の最初は論にならない。「社會全體に文藝の教養が行屆かないため今日文學面をしてをれる」といふのは、稿料を安くすれば文藝的教養が普及するといふ結論にならないから問題にしないでをく。次の「稿料が他の職業に對して高すぎる」といふのは何の職業に對してだか判らない、假に藝術家をとつてみると、俳優に較べて文學者が高いといふのか?一幅數萬金になる畫家に較べて一枚二十圓で高いのか。ぢつとしてをれば、だん/\日給が昇り、恩給がついたりする會社員、官吏に較べて、四五人の一流作家が五六年間二種の雜誌から月二十枚に對して二十圓づゝ取るのが不當だといふのか?親讓りの金で好みの家を建てゝゐる春夫など「他の職業」の事が判つてゐるのか何うか、無暗に「他の職業」に較べてゐるが、何を標準に收入の過不足を云ふのか見當がつかない。
 ◇次の文章の「月千圓の收入ならいゝだらう、それ以上は要るまい」に至つては、幾人の作家が毎月千圓づゝの收入があり、それが幾年つづくと考へてゐるのか?、總ての文學者は春夫の如く夫婦二人暮らしで三萬圓の家を建てるやうな財産は無いのだから、もう少し丁寧に親切に考へてやるがいゝ。誰が二十八から五十まで三人家族のまゝで月千圓づゝの收入を得た小説家が?一人でも有つたら云ふがいゝ。三五十萬の發行部數の雜誌から一人や二人の作家が一枚五十圓づゝ稿科を[#「稿科を」はママ]とつたつて、何が文藝家の恥辱になるのか?、この不思議な議論は、佐藤春夫だけが藝術家で、他の多くは「稿科の[#「稿科の」はママ]多い事より外に樂しみを知らない」といふ、久世山から牛込を見下ろしたやうな世の中の見方で、春夫の偏見と据傲で正氣の沙汰でないやうである。
 こゝから三に亘つて「他の職業に比し」をくど/\云つてゐるが、これは前に云つたので十分文句は無いだらう、そしてこの章の後半に至つては「世人或はこの例外を目標として云々」と云ふやうな――世人の誰が春夫の家を彼の親讓りの金だと知つてゐるか? 文學者が世の模範になるのなら、先づその家をこわすか、大きい旗を立てて「稿科で[#「稿科で」はママ]建てた家に非ず、親の財産による」と大書してをくがいい。「文藝家の一般化は化粧品の廣告によつて知られるのと同じで、眞の文運と無關係」と一方で云ふかと思ふと「作家は公人で、文壇だけのもので無く社會の公人だから、社會的謬見を正せ」と無理な注文で上げたり下げたりしてゐるし。
 ◇四になると、これは又迂遠も甚しく、稿科の[#「稿科の」はママ]豫算がきまつてゐる中から一人で多くとると、他の人へ分けるのが少くなると「尋常二年生の算術だ、判りますか」と云つてゐるが、もし雜誌社で當然二〇〇を稿科に[#「稿科に」はママ]拂つていゝのに一〇〇しか拂つてゐず、豫算にちやんと一枚二十圓の計上をしてゐて、◇一の如く「要求しないと十五圓」と五圓減じて舌を出してゐたら、春夫よ、これは「尋常一年生の算術」ではないのか? こんな見方から「一人が多くとると九人は減じる」といふ結論は「一年生の落第坊主」よりも頭が惡すぎる。
 この滑稽算術から延長して「五流作家を救へ」といふが、何う救ふのか?四五人が二十圓を十五圓にしたら、五流作家が十圓づゝになるといふのか?稿料といふものは雜誌屋が拂ひ、編輯は商賣人がしてゐるといふ事を全く考へてゐないのだから亂暴すぎる。春夫が一枚一圓にしたから、中央公論へ第五流の人を載せてくれるとでも云ふのか?五流以下の貧乏が、一流作家の安賣りで救はれるなど手品以上で、この論が通用するなら、三菱が一年無配當でゐたら、東京中の貧民は無くなるだらう。親讓りの恒産をもつ尋常一年生の算術家よ。面を洗つて考へてみろである。
 こゝまでの論は現在論で五に入ると、忽ち理想論になつて「社會は不合理だからせめて文藝家だけでもその地位如何に拘らず受ける報酬を同じにしたら」と。編輯者が文藝家をイロハ順に毎月五人づゝイから始めてくれるとでもいふのか?こののん氣な空想家よ。原稿を天へ投げると、雜誌になつて本屋の店へは陳ばないのだからな。
◇六の雜誌の商品化は御説の通り、だからいくら文學者だけが正しくしやうとしても不可能だ、と普通の論法だと歸納できるのだが、春夫のは論を横へ外して「文學者が雜誌に編輯者と名をつけるなど」と、それでは「禿筆倶樂部」の「發行」などは何うなるのか?これがも一つ外れて、著作法改正は法律家に任せろと、默つてそんなのに任すつもりでゐると何時改正案を出してくれるか?改正した方がよくて誰も手を出さないなら文藝家が手を出して何故いけないのか?このヒステリー男の憐むべきひがみ根性よ。
◇七の文藝家協會攻撃はどうぞ御勝手になさいであるが、歐洲戰亂云々から、物價が下るのに稿料が上るのはいけないといふ幼稚な經濟論から◇八の「具體案」といふ「廣告料の何倍かを稿料にしろ」に至つては、春夫よ、それが實行されたら、一枚の稿料が百圓にもなる事を知らないか。そして廣告を小さくしたら賣れなくなるといふ事實を何う考へるのか?藝術の外に、己の好みの外に、何の尋常一年生の智識も、世の中の事に就て知つてゐない、小學校の正義派よ、あの十八頁に亘る慨世のお伽話は氣の毒乍ら、君がこういふ事に對しては全く何の價値も無いといふ事を證明したゞけであつて、獨り久世山の塔の中で憤慨してゐるのはいゝが、これを世にいふ時には己の偏見と、ひがみと、無智とを曝すだけのものである事を知り給へ。改めて君の作品を尊敬すると共に、それ以外の一切を輕蔑するといふ事を云つてをく。
 あの論を讀んだ人には、この簡單さで判るであらうし、讀まぬ人には、一々春夫氏の文を引いて説明する程の興味はない。





底本:「文藝春秋 第四年 第十號」文藝春秋社
   1926(大正15)年10月1日発行
初出:「文藝春秋 第四年 第十號」文藝春秋社
   1926(大正15)年10月1日発行
※「◇少し何うも」「◇六の雜誌の」「◇七の文藝家協會」の行頭に全角空白がないのは底本通りです。
入力:sogo
校正:友理
2021年4月27日作成
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