ゲーテの歴史に対する関係は単純に規定し得ぬものを含んでゐる。或る者はこの問題に否定的に答へ、ゲーテは歴史的意識を有しなかつたと主張する。そして彼等はその証拠としてゲーテが歴史について折にふれて語つた言葉の中から種々のものを挙げることができる。この関係で知られてゐるのはルーデンとのゲーテの対話である。彼はこの若い歴史家に向ひ、歴史に対する彼の不信、軽蔑をすらも隠すところなく述べた。歴史的伝来物から我々が事物の真実の姿を受取り得るものと彼は信じない。かくの如き懐疑は
固より理由のないことではなからう。歴史は伝来物即ち史料といはれるものの上に立たねばならぬ。然るに
殆ど
凡ての史料は不純にされてゐる、それはつねに党派的で、つねに作為的で、つねに或は熱中により、或は盲目な憎みもしくは愛によつて、だから私欲によつて無意識的に
歪められてゐる。そればかりでなく、それは故意の虚言や良心なき欺瞞によつて、曲飾や中傷のために意識的に捏造されてゐる。よしんばさうでないにせよ、歴史家はつねにあまりに遅くやつて来る。彼等が始めるとき、判断は既に作られ、既に出来上つてをり、彼等は知らず識らずこの判断によつて先入見を抱かさせられ、それを反駁しようと試みる場合ですら、彼等はなほそれの束縛から離れ難い。また、ひとは我々に出来事の現実的な記録を供しないであらう。記録の多くは生々した記憶の既に消え失せた後に初めて作られたものである。しかもこれらの記録は、必ずしも、つねに主要事を伝へるものではないのである。歴史の基礎をなす史料が純粋でなく、完全でもないといふことは、このやうにして争ふことができぬ。然しながら近代の歴史学は、歴史的批評の方法を確立し発達させることによつて、史料の不純性と不完全性とに打勝たうと努力した。今日我々は歴史的批評の熱心な、忍耐的な、そして方法的な仕事の中から、如何に輝かしい成功がもたらされたかを知つてゐる。批評は云ふまでもなく批評として破壊の方面を含まざるを得ない。ところでゲーテはニーブール風の歴史的批評が破壊的であるといふ故をもつて、これを軽蔑した。もしも批評によつて偉大な伝説的な事実が否定されたならば、どうなるのであるか、と彼は尋ねる。「古人がかかるものを創作するに足るだけ偉大であつたとすれば、我々はそれを信ずべく十分に偉大であるべきであらう。」このやうに彼は歴史に対して、殊に批判的従つてまさに科学的であらうとする歴史学に対して、不信を表明したのである。「凡ての歴史は不確かで曖昧である。然し誰かがあなたに或ることが疑はしいと内々で知らせるなら、あなたはその人をすぐ
却けてよろしい。」と彼は他の場合に語つた。歴史はその拠つて立つ伝来物が不確かであると云つて、彼は歴史を信じない。そして歴史的批評が確かな事実を決定しようとすれば、批評は破壊的であると云つて、彼は歴史学をさげすむ。かやうにしてゲーテは歴史に対し全然離反的関係に立つてゐるかの如く見える。
然るに、いまもし他の方面から眺めるならば、問題は全く違つた姿をとつて現はれて来る。
嘗てランケは云つた、「ゲーテはまた大歴史家になることもできたであらう。けれどもシラーは歴史家たるの天分を有しなかつた。」と。偉大なる歴史家ランケのこの証言に対し、我々は信頼を寄せてはならないであらうか。寧ろ反対に、ランケの言葉は単なる仮定にとどまらなかつた。ゲーテは実際にいくつかの勝れた歴史的伝記的作物を残してゐる。『
ンケルマン』、そして何よりも『詩と真実』、これは第一級の伝記と見られ得る。「既にこの業績のためにゲーテはまた、よし彼にはもと歴史的感覚が欠けてゐたにせよ、ドイツの偉大なる歴史家のうちに数へらるべきであらう。」とグンドルフも云つてゐる。ゲーテはまた色彩論史を書いた。これは「真にその名に値する精神史の最上の模範」として評価される。色彩論のこの歴史的部分において彼は、後にディルタイが精神史の目標として意識し且つみづから歴史家として到達しようと企てたところのものを、断片的に、けれど原理的には既に完全に仕遂げたのである。もし彼の歴史的作物をかくの如く価値付けることが正しいならば、ゲーテの歴史に対する関係は積極的に打建てられなければならない。それは外面からでなく、内面から、彼の精神の本性と活動との特質からして理解されねばならぬ。理論でなく業績がゲーテにおいてこのことを要求する。そして単に彼の歴史的伝記的作物の内在的価値からばかりでなく、更に彼の与えた影響の方面からしても、我々はゲーテの歴史に対する関係のうちに或る内面的なもの、積極的なものが含まれてゐたことを十分に察知し得るであらう。ゲーテは彼の愛好者、研究家たちを教育し、彼等を立派な歴史家に仕上げるにあづかつて力があつた。
クトル・ヘーンの場合、ディルタイやグンドルフなどにおいて、さうであると云はれよう。或はまたシュペングラー、チザルツの如きもそれぞれ自己の歴史の方法のゲーテに対する関連を説いてゐる。かくてその業績及び影響の方面から見て、ゲーテの精神の本質と活動とのうちには歴史に対する或る親和的なもの、積極的なものが含まれてゐたと考へられる。
そこで問題を一層深め、ゲーテの歴史に対する関係を彼の全精神、全世界観の連関の中から示さうとするならば、今度は
却て反対にこの関係における離反がいよいよ本質的に、いよいよ内面的に現はれて来るかのやうである。ゲーテの世界観における根本概念はまさに自然であつて、歴史ではなかつたのでないか。グンドルフは彼をスピノザと共に、自然汎神論者と称し、ヘルダーが歴史汎神論者であつたのに対立せしめてゐる。ゲーテはシュトゥルム・ウント・ドゥラングの運動を経験した。個性的なものの強調はこの運動の重要な要素であつた。彼はヘルダーから影響を受けた。ヘルダーはその生成の大いなる観念によつてドイツにおいて歴史的意識を有した最初の人であつた。それにしてもゲーテにおける根本概念は、もつとどこまでも自然であつたのでなからうか。青年ゲーテは彼の『ゲッツ』を「戯曲化された歴史」と呼ぶ。然るにこれの背景をなしたのはルソオ的な自然の思想と見られ得、このものは新興市民階級の政治的意識と結び付いてゐたが、それが非歴史的な観念であつたことは云ふまでもない。ゲーテが古典的人間として成熟するに従ひ、歴史に対する疎隔は益々顕はになつたやうである。グンドルフによると、ゲーテのイタリア旅行は彼に二つの否定的な結果、即ち一方歴史に対する、他方政治に対する、決定的な離反をもたらした。これらのものの嫌悪は、ゲーテの本性のうちにもともと存してゐたのであるが、イタリア旅行によつて自覚されると共に基礎付けられるに至つた。この見方は
尤もあまりに一面的であると云はれよう。その第二部においてファウストはまさに社会的実践家として現はれており、またひとは『
ルヘルム・マイスター』の中から社会的政治的思想を読み取るに困難でない。然しながら、古典的は本来どこまでも歴史的と相背反するのではなからうか。その手法はグンドルフと甚だ相違するにせよ、シュトリヒも同じく古典的と歴史的との
乖離を説いてゐる。シュトリヒは歴史への相反する関係のうちに浪漫的と古典的とのひとつの明確な対立点を見出す。浪漫主義が歴史に対し親和的であつたに反し、古典主義は歴史に対して真に敵対的な態度をとつた、前者が特殊な時間の感情をもつて浸潤せられてゐたに反し、後者は無時間的な持続を、ゲーテは原型を、シラーは法則を求めた、と彼は論じてゐる。けれども古典的人間としても、ゲーテの精神とシラーのそれとの間には或る本質的な相違があつた筈である。誰よりもシラー自身がこれを意識し、かの一七九四年八月二十三日付のゲーテへ宛てた有名な書簡の中でこれについて見事に述べてゐる。そしてこの相違は丁度、ランケの云つた如く、歴史に対する二人の精神の相反する関係を基礎付けるのではなからうか。或はゲーテにおける古典主義は何等か浪漫主義を包括するに至らなかつたであらうか。一般にドイツの古典主義は古典主義としても浪漫的色彩を多分に含み、特にゲーテの『
ルヘルム・マイスター』の如きは単に古典的でなく、十分に浪漫的ですらある。それだからと云つて、我々はゲーテの世界観における根本概念が嘗て自然から歴史へ移つたことがあると考へることを許されない。かの比類なきロマンのうちに好んで描かれたのは、ヘーンの語を借れば、何よりも「人間生活の自然形態」であつた。もし自然と歴史とが相対立する二つの根本概念であるならば、ゲーテにおける発展は、その自然概念そのものにおける発展であつて、自然概念から歴史概念への移動乃至転化ではなかつたのである。古典的といふこともそれ自身の意味における自然概念を基礎とするのであつて、このことはギリシア思想とキリスト教思想とを対照することによつて明瞭に理解されよう。然しながら、もしまたゲーテが汎神論者であつたとすれば、汎神論はまさに汎神論として、その基礎の上では自然と歴史とは鋭い対立をなし得ず、却て両者は連続的融合的に考へられるのほかないから、たとひ彼がいはゆる自然汎神論者であつたとしても、彼はなほ或る仕方で歴史に対するつながりを有することができたであらう。丁度、反対に歴史汎神論者といはれるヘルダーが、歴史において特に自然的要素を重要視し、現代の人文地理学の発達を促すこととなつたやうに、自然汎神論者といはれるゲーテが今日、自然科学に対してよりも却て歴史学に対して特殊な、顕著な影響を及ぼしつつあるといふことは、興味がなくはない。ゲーテにおける自然概念は、その青年時代のルソオ的な自然概念から、古典的な自然概念を経て、晩年における最も含蓄的な自然概念にまで発展した。とりわけ彼はその晩年深い情熱をもつて自然研究に従事した。そして歴史学が今日ゲーテに負ふ方法上の新しきものは、特に彼のこの時期の自然哲学的研究のうちに含まれてゐる。さうだとすれば、少くとも彼の晩年の自然概念には歴史と内面的に交渉する或るものがあつた筈である。我々はこのやうな自然概念の特殊性のうちにそれの歴史に対する特殊な関係を見なければならない。それによつて我々はゲーテが単なるスピノザ主義者にとどまらなかつたことを知り得るであらう。代表的な自然汎神論者たるスピノザは歴史に対して何等の関係をも含まないに反し、ゲーテには歴史への通路が開けてゐた。然しそれにも拘らずゲーテにおける根本概念が依然として自然であつて歴史でなかつたことを考へるならば、そこにはまた或る制限と限界とが存するのでなければならぬ。
かくてゲーテは歴史に対し一面親和的に他面敵対的に、両重の関係に立つてゐたといふことが推察されよう。既にゲーテと歴史の問題は、単純にゲーテにおける歴史の問題であり得ず、却てゲーテにおける「自然と歴史」の問題でなければならない。そして我々の研究はおよそ次のやうな意味を有するであらう。一、我々はそれによつて現実的な歴史的意識が相矛盾する二つの契機を含む弁証法的構造のものであることを示すことができる。その一つの意味ではゲーテは十分豊かに歴史的意識を
具へてゐた。然しそれだけ、他の意味では彼は非歴史的であつた。一つの意味における歴史性を彼において明かにすることは他の意味における彼の非歴史性を明かにすることとなり、他の意味における彼の非歴史性を明かにすることは一つの意味における歴史性を彼において明かにすることになる。ゲーテと歴史の問題についての議論はこれまで、歴史的意識の本質が明確に把握され、規定されてゐないために、虚空に彷徨してゐる場合が少くなかつた。二、自然と歴史とは
固より相対立する概念でありながら、しかも現実的な歴史の概念は、その弁証法的要素として、単に外面的にのみでなくまた内面的に、或る特殊な自然の概念を含まなければならない。かくの如き歴史における内面的に自然的なものが何であるかは、ゲーテについて明瞭に示され得るであらう。然し第三に、我々の研究は、ゲーテに親和的に感じ、その伝統を継がうとする現代の歴史学の或る傾向に対する批判の意味を含むであらう。ゲーテは自然概念をもつて歴史を考へる最も模範的な且つ最も豊富な場合を現はしてゐる。然しながら、彼の明示もしくは明示したものが歴史学にとつて如何に魅惑的であるにしても、それはなほ自然を基礎とし、従つて歴史と自然とが相対立するものである限り、固有なる歴史概念ではあり得ない。或は逆に現代の歴史学の或る傾向における根本概念をゲーテにおいて根源的に解明し、それがもと自然を基礎とするものであることを示すことによつて、我々はそれを批判し得るであらう。
ゲーテは直観の人、眼の人間であつた。明瞭な、形態ある、限定された、体現的な直観が彼にとつては実在性の尺度である。ただ直観的なもののみが実在的である。歴史に対する彼の不信も、歴史が伝来物によらねばならぬ限り、彼の眼に向つて語らず、彼の
思惟に訴へねばならぬためであつた。伝来物は出来事に
ついてのものであり、そしてしばしば出来事についてですらなく、寧ろ伝来されたものについてのものであり、これを基礎とする限り歴史は、自然及び芸術の諸形態の如く、直接的な体現的な直観を供しない。直観の欠如といふことがゲーテの歴史に対する関係の
乖離であつた。それだから反対に、間接的な、そして多くは疑はしい、従つて歴史的批評への迂回を経ねばならぬやうな史料の上に立つことを要せず、体験と直観とから造形し得るやうな領域、即ち自己自身の生涯については、彼は第一流の歴史家であることができた。『わが生涯から、詩と真実』がこれを証してゐる。
然しまたゲーテが直観の人間であつたことは
却て、彼を歴史と親和的ならしめるのではなからうか。「私の全歴史研究は、私の風景スケッチ及び私の美術研究と同じく、直観に対する甚大な渇望から生れた。」と歴史家ブルックハルトが書いたことがある。如何に多くの、断片的な、無味乾燥な史料の中を潜らなければならないにせよ、歴史家の求めるものは結局、歴史的事象そのものの直観ではないであらうか。歴史と自然科学との相違は、一方が特殊から普遍的な法則の設定へ進むに反し、他方は経験に与へられた特殊の傍にとどまる点にあると云はれ、そして歴史を一種の芸術と見る理論家もある。シラーは上に記した有名な書簡の中で、ゲーテの精神を思弁的精神に対する直観的精神として規定し、思弁的精神が統一から出発するに反して、直観的精神は多様から出立すると述べてゐる。歴史的なものは固より単なる特殊でなく、普遍によつて貫かれたものでなければならぬであらう。さうすればゲーテの精神はいよいよ歴史と内面的に結び付き得た筈である。「個々のものの上に光を得るために、あなたは全自然を総観される、自然のもろもろの現象の仕方の全体のうちに、あなたは個体に対する説明根拠を探り出される。」「直観的精神が天才的であり、そしてそれが経験的なもののうちに必然性の性格を探り出す場合、それはもとよりつねに個体を、しかし類の性格と共に作り出すであらう。」とシラーは述べてゐる。かやうな天才はゲーテにおいて、ランケの云つた如く、大歴史家となり得る素質を形作つてゐたであらう。それは少くとも彼を、ヘーゲルを思弁的として排斥したランケ、或は歴史を一種の芸術と
見做したブルックハルト流の歴史家となすことができたであらう。ゲーテが自然における個々のものの丹念な観察からその中に横たはる普遍的なものの直観を得たやうに、ランケは歴史における個々のもの、個々の過程に関する史料の申立ての正確な訊問から普遍的なものの直観にまで自己を高めた。「対象を観察するにあたつてはつねに、ひとつの現象がそのもとに現はれるあらゆる条件を精細に調べ、現象をできるだけ完全に捉へることを志すといふのが、この上ない義務である。なぜなら現象は結局互に連繋を有し、或は寧ろ互に錯綜し合ふやうに余儀なくされるのであるから。そして研究者の直観にも一種の組織を作り、その内部的な総生命を顕示するのでなくてはならない。」これは、ゲーテの物理的研究に際し彼に迫つて来た確信であつた。然るにこれはまた、ランケの世界史的構想の標語ともなることができたであらう。
ゲーテの直観は個々のものを個々のものとして捉へるのでなく、特殊のうちに同時に普遍的なものを見た。色彩論への序文の中で彼は書いてゐる。「物を単に一瞥することは我々に役立ち得ない。あらゆる瞥見は観察へ、あらゆる観察は熟思へ、あらゆる熟思は結合へ移り行き、かくて、我々は世界のうちへ注意深く眺め入る
凡ての場合において既に理論してゐるのである、と云はれ得る。」また彼は他のときに云つた、「あらゆる事実的なものが既に理論であるのを理解することは最高のことであらう。空の青色は我々に色彩学の根本法則を啓示する。ひとは現象の背後に何物をも決して求めてはならぬ、現象自身が理説である。」普遍は特殊のうちにすでに現はれてゐる。ひとはそれを、現象を超えて、現象の背後に、現象から離れて、求めることを要しない。自然が「精神に啓示しないものを、汝は
槓杆や
捩子をもつてむりやりに取つて来ることはできぬ。」単なる計量によつては生命ある普遍は捉へられない。真の普遍は特殊のうちに含まれ、特殊において直観される。今日、歴史学において重要な意味を有する Typus といふ概念はもと、かくの如き普遍を指すであらう。歴史を Typologie と見る見方はゲーテにおいて教師を見出さねばならぬ。或は寧ろ、ゲーテ的な直観、体験及び世界観の基礎の上に初めてテュポロギーは、その固有なる意味において成立することができる。テュプスはゲーテの形態 Gestalt もしくは原現象 Urph
nomen の意味のものでなければならぬ。かかる原現象とは何を
謂ふのであるか。「我々が経験のうちに認めるものは多くの場合いくらか注意すれば一般的な経験的命題のもとに持ち来たされ得るやうな事例のみである。この経験的一般命題は更に科学的命題のもとに従属させられ、それは一層高いものを予想する。そしてその場合、現象してゐるものの若干の欠くべからざる条件がより詳しく我々に知られるやうになる。かくて凡てが漸次に高次の規則や法則に従属させられて行くのであるが、それらの規則や法則は言葉や仮説を通じて悟性に開示されるのでなく、いはば現象を通じて直観に現示されるのである。我々はそれらを原現象と名付ける。」即ち原現象とは或る普遍的なものである。然しそれは抽象的、悟性的なものでなく、この意味で法則といふよりもイデーもしくはエイドス(形態)であり、しかもこの場合イデーは経験から離れたものでなく、経験に即して直観され得るものである。それはイデー的なものとしてゲーテにおいて安全性または合目的性の感情と結び付いてゐた。「人間が到達し得る最高のものは驚異であり、そして彼を原現象が驚異せしめるとき、彼は満足すべきである。より高きものをそれは彼に与へ得ず、またより先きなるものを彼はそれの背後に求むべきでない。ここに限界がある。」もしテュプスがかやうな原現象の意味のものであるならば、それが単なる型或は類型を意味し得ないことは明かである。テュプスは寧ろ生ける普遍として形成法則 Bildungsgesetz と解せらるべきであらう。我々はこの概念がゲーテ的な原現象の意味を失つて、抽象的形式的な型もしくは類型の意味のものとなるとき、それが歴史にとつて外的なものとなり、従つて何等生産的でないものとなつてゐるのをしばしば見ないであらうか。今日人々はテュプスの概念をかかる堕落から救ひ、歴史の内面的形式として開示しようと努めてゐる。形態の概念も、例へばフリーデマンの『プラトン、彼の形態』(一九一四年)、或はシュペングラーの『西洋の没落』(第一巻「形態と現実」一九一八年)などにおいて歴史の領域へ導き入れられた。
然るに我々はかくの如き直観がまたまさにゲーテを歴史から離反せしめたといふことに注意しなければならない。特殊と多様とのうちに見られる普遍的なものはゲーテにとつて必然的なもの、従つて繰返すものを意味した。かかるものは自然のうちには見出され得るとしても、歴史は自由なもの、
肆意的なるもの、一回的なるもの、奇異なるもの、絶えず新しきものを現はしはしないか。浪漫主義者はそのためにこそ歴史によつて誘惑される。「詩人は偶然を熱愛する。」とノ
ーリスは云つた。ゲーテは反対に必然性が欠けている故をもつて歴史から眼を背ける。歴史は彼にとつて「
誤謬と強力との混淆物」と見えた。彼の直観は歴史的なものにおいて自己に好ましく、ふさはしき対象を見出し得ない。このものは既にあまりに多くの素材、あまりに少い形式を含んでゐる。歴史は、それが普遍的なもの、常住なものを現はしてゐる限りにおいてのみ、彼の興味を惹くことができた。或る時彼はエッケルマンに向つて語つた。「イギリスの歴史は詩的描写にとつてすばらしいものである、なぜならそれは或る立派なもの、健全なもの、それだから繰返されるところの普遍的なものであるから。フランスの歴史はこれに反して詩に適しない、なぜならそれは再びやつて来ないひとつの生の時期を現はすから。」かくの如く歴史のうちに恒常なもの、繰返すものを求める心も、固より或る種の歴史家にとつては縁のないものではなからう。上に云つた如く歴史において直観の渇望を充たさうとしたブルックハルトは書いてゐる。「歴史哲学者たちは過去のものを我々発展したものに対する対立及び前階として観察する、――我々は繰返すもの、恒常なもの、テュプス的なものを、我々のうちにおいて共鳴するもの、理解し得べきものとして観察する。」然しながら、恒常なもの、繰返されるものは、本来歴史的でなく、寧ろ自然的なものでないか。まことにゲーテの世界観の根柢をなしたのは自然の概念であり、自然の生産物として歴史的なものもゲーテを関心せしめたのである。歴史的人間的なものは、彼がそれを自然的なものとして表象し得た限り、彼の興味を惹いた。従つて我々がゲーテにおけるテュポロギーについて語るならば、それは特殊の意味を含まなければならない。ひとはそのことを、例へば、ゲーテの『
ルヘルム・マイスター』とヘーゲルの『精神の現象学』とを比較することによつて理解し得るであらう。もしも前者を伝記と見るならば、後者もひとつの伝記、ほかならぬ世界精神の伝記である。ヘーゲルの現象学も一の最高の意味におけるテュポロギーであつた。そこに叙述されたのは意識の諸形態 Gestalten des Bewusstseins 即ち意識の発展における種々なるテュプス的な段階であつた。そしてそれらはヘーゲルにおいては意識の歴史形態であり、その材料も多くは思想の歴史から取つて来られている。然るにゲーテが好んで描いたのは「人間生活の自然形態」、「我々の種族の常住な自然形態」である。ヘーンの美しい言葉を借れば、「これらの形態は単純で直接的であり、快活であると共に真面目で、喜劇的でも悲劇的でもない、それは最も遠い古代と最も近い現代とを結合し、実にそれは高等な動物世界と人間世界とに共通である。凡ての特殊なものは、かやうにそしてこの基礎の上で観察されて、容易にそして抑止なしに普遍的なものへ解消する、それはこのものによつて絶えず繰返して引戻される。風習や社交的秩序の諸要求は単に自然的な生活の諸過程として現はれる、それの支配は判定されるのでない、それは感ぜられない、それは凡てのものを、さうあるほかなく、それに反抗することは無意味であるやうに、いとも静かに包むのである。」かくの如き態度がノ
ーリスをして『
ルヘルム・マイスター』に不満を抱かせた。そこには奇蹟的なものがない、それは散文であり、「市民的家庭的物語」に過ぎない、と彼は考へた。ゲーテの心は歴史の領域においても人間的本性における普遍的なもの、恒常なもの、自然的なものに向つたが故に、いはゆる歴史的或は政治的事件に対して多くの興味を感じなかつた。それらのもののうちには或る無理なもの、
香具師的なものが含まれてをり、「誤謬と強力との混淆物」と彼には思はれた。「私は世界史のことを意に介するほど年寄つてゐない、それはおよそ最も不合理なものである。此の人または彼の人が死し、此の民族または彼の民族が滅ぶかは、私にとつてはどうでもよいことだ。それを意に介するとすれば、私は馬鹿であらう。」と老年のゲーテはフォン・ミューラーに語つてゐる。彼の捉へたのは時間存在としての人間であるよりも空間存在としての人間であつた。ゲーテに比してはヘーゲルも時間の哲学者であつたと見られやう。「彼の直観及び方法そのものの形式は単に排他的な時間であつて、同時にまた寛容的な空間でない。彼の体系は従属及び継起を知るのみであつて、並列及び共在の何物も知らない。」とフォイエルバッハはヘーゲルの思想を、シェリングの同一哲学と対照して評した。この意味ではゲーテはヘーゲルよりもシェリングに一層近く立つてゐた。然るに空間と時間とは自然と歴史とを区別する最も根本的な表徴である。そこで我々はゲーテについて時間の問題を考察してみよう。
人口に
膾炙する『自然』についての小論の中で、ゲーテは云ふ、「過去も未来も自然は知らない。現在はそれの永遠である。」このやうにゲーテにとつて時間は現在であり、現在はまた永遠を意味する。彼は直観の人間としてただ現在を見、そして現在のみが彼には時間の果てしなき経過のうちにおいて本来実在的であつたのである。それ故に彼は時間の停止することなき「流れ」に対して現実的な感情を有しない。時間の流れから直接に生れ、我々が追憶と呼ぶところの感情をゲーテは
却けた。彼は
嘗てミューラーに次のやうに話した、「私はあなたの意味での追憶を何等認めない。我々の出会ふ或る偉大なもの、美しきもの、重要なものは、外部からして初めて再び追憶され、いはば狩り取られねばならないのではない。それは寧ろいはば最初からして我々の内部に織り合はされ、これと一つになり、かくて永久に形成しつつ我々のうちにおいて存続し
且つ創造しなければならない。」また彼は他の人に、「ただ永遠なもののみが我々にとつてあらゆる瞬間において現在的であり、かくて我々は過去の時間について悩まない。」と書いてゐる。彼には過去も苦痛とはならず、未来も不安の種とはならぬ。或は彼は、彼自身の云つた如く、事物の永続的な諸関係を取扱ふことによつて自己のうちに永遠を作り出さうとしたのである。然しそのことがどうであれ、永遠は無時間的もしくは超時間的であらう。そして歴史的なものはその本性上時間的であるとすれば、ゲーテにはもと歴史的意識が存しなかつたやうに考へられる。
この点において浪漫主義は著しい対照をなしてゐる。それはその特殊な時間の感情のためにとりわけ歴史的であつたものの如くである。そしてアダム・ミューラーを始め、近代の歴史学が浪漫主義の中から乃至はその影響のもとに発達したといふことは周知の事実に属する。「時間に対する感覚、歴史に対する才能」は幸ひである、とノ
ーリスが云つたとき、彼は浪漫主義の基調を言ひ表はしたのである。最大の幸福において浪漫主義者たちは時間の限りなき「流れ」を体験した。彼等は無時間的に持続する現在といふものを知らず、
却て時間の無限に生成する旋律を感じた。あらゆる遠きもの、過去及び未来の遠きものが彼等を誘惑する。言ひ換へれば、浪漫主義とつねに結びついてゐたのは、時間についての
就中二つの感情であつた。――
過去のうちへ忍び入る追憶、それの魅惑的な月光に、ひとは心を傾け尽した。
未来のうちへ尋ね入る
憧憬、ひとは青い花を求めて限りなくさまよひ、そして決して目的に達することがない。
然るにかかる浪漫的な時間の感情は、他の方面から考へるとき、それ自身また非歴史的であつたであらう。それは何よりも過去の追憶と未来の憧憬との感情であつて、そこには現在の堅固な把握が欠けてゐる。しかも現在といふ時間契機こそ現実的な歴史的意識の最も重要な要素であるべきである。まさに今日我々は歴史のかくの如き現在性の方面を力説すべき場合である。この点からすれば、ゲーテは浪漫主義者たちよりも却て歴史的であつたと云はれ得る。浪漫主義は遙かなるもの、
朧ろなるもの、
仄かなるものに心をひかれる。従つてそこに見られるのは主観的傾向であつて、ここに先づ既に、客観的であることを本質とする歴史的意識と浪漫主義との
乖離がある。ゲーテは同時代のかやうな浪漫的傾向から離れて立つてゐた。彼は自己の時代を回顧しつつ、「私の全時代は私からかけ離れてゐた、なぜならそれは全然主観的な方向のうちにあつたし、然るに私は私の客観的な努力において孤立してゐた。」と述べてゐる。それのみでなく彼は、主観的であるか客観的であるかといふことにおいて、時代が後退的であるかそれとも前進的であるか、といふことの表徴を見出し得ると信じた。「後退と解体とのうちにある
凡ての時代は主観的である、これに反し凡ての前進的な時代は客観的な方向をもつてゐる。我々の今の全時代は後退的である、なぜならそれは主観的であるから。」我々はここに彼の歴史哲学の最も重要な思想のひとつを読み取らなければならない。彼の内的発展が進むに従つて、ゲーテの見方はいよいよ深く客観的となつて行つた。彼の感情は、彼自身が彼の対象的
思惟もしくは彼の思惟の対象性と呼んだものによつて補はれ、統一された。「自己を対象と最も親密に同一となし、それによつて本来の理論となるやさしい経験 zarte Empirie がある。精神的能力のこのやうな高昇は然るに教養の高い時代に属する。」ところでかかる「やさしい経験」こそ歴史家にとつて最も必要なものである。この点からしても、浪漫的詩人でなく、寧ろゲーテが歴史家の精神に通ずるものを
具へてゐたと云はるべきであらう。
ゲーテは現在を重要視することによつて更に深い意味で歴史と交渉する。それによつて彼は歴史を理解する立場でなく、却て歴史そのものを作る立場に立つたのである。歴史の問題に関する考察は従来主として理解の立場からのみなされて来たが、それを行為の立場からなすことが特に大切である。ファウストは先づ享楽の人間として現在が彼にとつて凡てであつた。「私はただ世の中を駆け抜けた。」瞬間から瞬間へ、未来に悩むことなく、過去に煩はされることなく、ただ現在の享楽を知つてゐる。次にファウストは行為の人間として現はれる。「彼はしつかりと立ち、そして此処で見廻す。彼には永遠のうちへさまよふ何の必要があらう。」行為の人間は現在に生き、現在は彼にとつて永遠といふよりも寧ろ勝れて瞬間の意味を有する。現在に活動する者は未来について配慮することを要しない。ひとはゲーテが不死の観念を活動の観念によつて基礎付けようとしたのを知つてゐる。彼の精神は現在の活動に集中される。ノ
ーリスは、「凡てのものは遠く離れることによつて詩となる。遠い山、遠い人間、遠い出来事。凡てのものは浪漫的となる。」と云ふ。然るにゲーテにとつては「瞬間が永遠である。」遠さの魔力のもとに立つことは生ける生命を失ふことである。彼が浪漫的を病的なものと考へたのは当然である。歴史が単に過去のもの、滅びて行つたものを意味する限り、それは彼にとつて何のかかはりももたぬ。事物の消滅性、その意味での歴史性について仰々しく語る人々のために彼は悲しみ、「我々は実に消滅的なものを不滅的ならしめるために生れてゐるのでないか。」と云ふ。力説されるのは飽くまで現在の行為である。歴史への関心が過去への単なる憧憬である限り彼はそれを却ける。「ひとが振り返つて憧れねばならぬやうな如何なる過去のものも存しない。ただ過去の拡大された諸要素から形作られる永遠に新しきものが存するのみである。そして真正の憧憬はつねに生産的であり、新たなるより善きものを作り出さねばならぬ。」ここに生産的憧憬といふ語をもつて表現された如く、ゲーテにとつて歴史への通路はただ生の見地からのみ開けてゐる。歴史的なものは、それが現在の生へのはたらきかけ、これを生産的ならしめる限り、彼に対して意味を有することができる。それ故にランケの「私は唯それが如何に本来在つたかを示さうと欲する」といふ言葉が歴史的意識の本質を現はす限り、――それはたしかにそのやうな本質的な一面を現はす――ゲーテには歴史的意識が欠けてゐたと云つてよい。なぜなら本来
在つたものの認識は、それが一般に現在の生に対し促進的生産的な関係を有しない限り、それ自体としては彼にはどうでもよいことであつたから。然しながら他方、歴史の生命性の意識が現実的な歴史的意識の重要な要素であるべきである限り、ゲーテこそ十分に歴史的意識を有したと云はねばならぬであらう。歴史と生との関係を強調して、彼は、「我々が歴史についてもつ最も善きものは、それが
喚び起す感激である。」と記した。
尤も、我々はゲーテが徹頭徹尾芸術家、殊に詩人であつたことを忘れてはならない。従つて彼にとつて行為はもと社会的歴史的な実践といふよりも却て芸術家的な直観=造形=生産――かかる芸術的活動も
固より広い意味においては行為に相違ない――を意味したのみでなく、本来の実践も主としてかくの如き形式のもとに捉へられた。我々はゲーテを、しばしば見られるやうに、あまりにフィヒテ的に解釈することを慎しむべきであらう。行為も彼にあつては直観と離れず、それ故に未来によつて特殊にアクセント付けられた実践でなく、寧ろ体現的な現在的なものであつた。そして直観は彼においてつねに造形的、生産的性質のものであつた。然しながら、固有なる歴史的意識を与へるものは根本において観想でなく実践であるとすれば、ゲーテには歴史的意識が欠けてゐたと云はれるのはまた当然であらう。歴史的意志はまさに一回的なものを意欲する。それによつて歴史的意志は消滅的なものを意欲するのでなく、却て永遠なるものを意欲するのである。かくの如く矛盾せる歴史的意志は、瞬間に集中されることによつて自己を徹底する。瞬間は現在であるが、永遠の現在ではない。寧ろ瞬間は未来によつてアクセント付けられた現在である。実践を根柢とする歴史的意識にとつて現在は瞬間であるに反し、観想の立場を離れないゲーテにとつては現在は永遠であつた。歴史への通路は彼にはただ生の側からしてのみ開けてゐたが、生とはこの場合直観的なもの、現在的なもの、生産的なものを意味する。かかるものがまた彼にとつて真理と実在とを意味した。伝来物は直観を与へず、単に過去のものであつて、生産的でない故に、彼はそれに実在性と真理性とを認めることに躊躇する。然るに偉大な伝説は直観に訴へ、現在の生にはたらきかけ、生産的ならしめるために、彼はそれを歴史的批評の破壊的暴露に委ねることを好まない。このやうな態度は科学にとつては云ふまでもなく、実践の立場にとつても不十分であり、ただ芸術的直観及び生産の立場において徹底され得るであらう。このやうな態度からして、歴史はゲーテにとつて過去の出来事の叙述 Geschichte でもなく、過去の説話 Sage でもなく、却て最も特有な意味における Mythos となる。我々はさきに歴史はゲーテにとつてテュポロギーであると述べたが、今やそれは Mythologie を意味する。歴史は彼において、彼がその自伝を名付けたやうに「詩と真実」である。ベルトラムがその『ニイチェ』(一九二二年)の書を「ひとつのミュトロギーの試み」と称した如く、ミュトロギーはたしかに歴史に対するひとつの関係の仕方を現はしてゐる。ミュトロギーとは何を意味するであらうか。ミュトロギーの哲学を展開したシェリングによれば、「真のミュトロギーはもろもろのイデーの一の Symbolik である。」シュムボルとは何を
謂ふであらうか。シュムボルは「形象の如くまことに具体的で、唯自己自身と等しく、しかも概念の如く一般的で、意味に充ちてゐる。」シュムボルといふ語は文字通りに意味形象 Sinnbild を現はす。シュムボルはそれだからミュトロギーにおいて確固たる位置を占める。なぜなら「特殊的なものにおける、普遍的なものと特殊的なものとの絶対的な無差別をもつての、絶対的なものの叙述は唯シュムボル的にのみ可能である。」とシェリングは云ふ。ところでゲーテは「凡てはかなきものは唯たとへのみ。」と書いてゐる。時間に属するものの一切は、永遠に現在的なものの反映に過ぎない。ゲーテは歴史のうちにおいても、自然の凡ての生産物のうちにおいてのやうに、原型的なもの、テュプス的なものを求めた。原現象とはかかるものにほかならぬ。『ファウスト』第二部における有名な「母たち」M
tter の観念はこのやうな原現象の無時間的な国の象徴的表現と見られてよいであらう。まことに母たちといふ語はゲーテの根本思想を表はすに最もふさはしい。母たちは永遠に現在的なもろもろのイデーである。イデーは母たちとして、概念的なものとしてでなく、直観的なものとして表はされる。それはロゴスでなく、ミュトスである。イデーは彼にとつて抽象的形式的なものではない。「イデーの如く、豊富で生産的」、とゲーテは云ふ。母たちは
孕むもの、産むもの、生産的なものの象徴である。然しまた母たちは特に人間生活の自然形態を表はし、その歴史形態を表はすものではない、女性は男性に比してより自然的なものとも考へられるであらう。云ふまでもなくプラトン的な二元論はゲーテのものでない。原現象はいはば飛躍なしに自然的に時間のうちへ発展して行く。イデーは経験の背後にでなく、却て経験そのもののうちに与へられてゐるのである。「色どられたる影像において我々は生命をもつ。」イデーは内的なもの、純粋に精神的なものとして、歴史的に触れられ、見られ得るものにおいて初めて具象化に達するといふのでなく、寧ろもともと或る自然的なもの、感性的なものを含み、従つてそれだけ直観的であり、そのもの自身において具象化されてゐる。かくの如く具象化されたイデー、イデーの自然形態とも云ふべきものがミュトスにほかならない。我々はミュトスの概念が既にプラトンの哲学において如何に重要な位置を占めてゐたかを知つてゐる。しかもミュトスの概念がこのやうに重要な意味を有したのは、思想史上
殆ど凡ての場合、一般に生成、従つてまた歴史の問題に関してであつたといふことは興味深きことであらう。かくてゲーテにおけるミュトロギーとしての歴史の概念の特殊性を理解するために、彼における生成乃至発展の概念が究明されねばならぬ。
生成と運動の思想は
夙にゲーテに含まれてゐた。「自然のうちにあるのは永久の生命、生成と運動である。自然は永久に転化し、そのうちには如何なる瞬間にも静止がない。」と既に二十二歳のゲーテは書いてゐる。この思想は『植物の変態』、その他の彼の晩年の自然研究において完成されるに至つた。然るにこのときその基礎には、つねに形態或はテュプス、或は原現象の観念が存してゐた。植物の場合ではそれはかの「原植物」である。発展の思想はこのやうに形態の思想またはテュポロギーと結び付くことによつて Morphologie の思想となる。モルフォロギーの思想とテュポロギーの思想とはもともと離るべからざるものである。原現象とは、それにおいて生成のイデーが純粋に眼前に横たはるところのものである、とシュペングラーは説明してゐる。現代の歴史家たちがゲーテから
汲み取らうとするのは、特にこのモルフォロギー的思想である。シュペングラーはその書物を「世界史のモルフォロギー」と名付ける。ゲーテにおける変態の思想は特殊なるテュポロギーを基礎とするのであるから、それはダーウヰン流の進化論との関係において見らるべきであるよりも、寧ろライプニツの Monadologie の思想に近く立つてゐたと云はれよう。モルフォロギーは彼にあつてモナドロギー的である。これらの点で我々は、ゲーテにおける有名なスピノザ主義なるものに少くとも重大な制限を加へなければならぬ。ゲーテ自身モナスもしくはモナドという語を使つてゐる。それは彼がアリストテレスに従つて好んで用ゐたるところのエンテレヒーにまで発展するものであり、個体または人格の本質を表はすためのものであつた。「我々が神即ち自然から受けた最高のものは、生命、換言すれば、休息も静止も知らぬモナスの自己自身の周りを廻転する運動である。生命を養ひ育てる衝動は各々のものに
毀ち難く生具してゐる、しかもそれの特有性は我々及び他のものにとつてどこまでも秘密である。」――「動物の本能に関する問題は唯モナド及びエンテレヒーの概念によつてのみ解決される。各々のモナスは或る一定の条件のもとにおいて現象に現はれる一のエンテレヒーである。」このやうにしてゲーテにとつてもモナドは破壊され得ぬ個体的統一を意味し、この統一は活動的発展的統一であつた。然しまたかやうな個体は彼にとつてつねにテュプス的意味のものであつた。「特殊は種々なる条件のもとに現はれてゐる普遍である。」個体の発展といふのはそれがテュプス的となることにほかならない。
かくてゲーテの自然は、先づ一の発展史を含むことによつてスピノザの自然から区別される。ゲーテをスピノザと共に自然汎神論者と呼ぶにしても、ゲーテの汎神論はディルタイの語を借用すれば発展史的汎神論であつた。次にゲーテは全自然の生成のうちにいはば個体化の衝動がはたらいてゐるのを見た。すでに動物と植物との相違は、前者においてはより完全な仕方でその動的中心をなす有機的形成力が個体化の方向に向つて活動するところにある、と彼は考へた。個体的統一たるモナドの発展は最大の完成に達することが可能であり、各々のモナドの間にはそのエンテレヒーの量に従つて無限の程度の差異がある。人間は最高度のモナドを現はし、人格は「地の子等の最高の幸福」である。「何物も在るのでなく、何物も成つたのでなく、
凡てはつねに成りつつある、変化の永久の流れのうちには何等の静止もない。人間は各々の瞬間と共に他のものであり、しかも変化の中において不思議に自己自身と同一であり、不変である。これはより高き存在の長所である。」不断に活動し、変化し、しかもそのうちにあつて自己をつねに維持し、持続せしめ得る程度に応じて存在はより完全である。人間は自然の個体化の最高の場合である。然し
固より人間と他の自然の存在との間の差異は程度上のことであり、そこにはどこまでも連続性が存する。人間は自然の最高点を現はすにせよ、なおひとつの自然である。シラーは右に引用した書簡の中でゲーテに云つた、「あなたは単純な組織から一歩一歩より多く複雑な組織へ昇られる、かくて最後に凡てのうち最も複雑な組織即ち人間に至り、これを発生的に全体の自然の建築物の諸材料から築き上げられる。」ゲーテは人間と自然との間に内面的なアナロジーを見、それに従つて歴史と社会の構造をも考へたのである。「同一の法則は一切の他の生けるものに適用され得るであらう。」とゲーテはナポリから、自己の発見に就いて伝へるに際し、ヘルダーへ宛てて書いてゐる。
然しゲーテのモナドには窓がないのでなく、その窓は広く世界に向つて開いてゐる。彼は事物の本質が何であるかはその全体のはたらきにおいてのみ認識されると考へた。「我々が一の事物の本質を言い表はそうと企てても無駄である、我々の目にとまるのは、はたらきであつて、これらのはたらきの完全な歴史がとにかくかの事物の本質を包括するのである。我々が一人の人間の性格を描かうと努力しても無駄である。反対に彼のもろもろの行動、彼のもろもろの行為を総括するがよい、さうすればその性格の形象は我々に対して現はれて来るであらう。」と色彩論への序文の中に書かれてゐる。人間が何であるかは、彼の全歴史を通じて顕はになる。人間は彼の環境、世間、過去及び現代の歴史と交渉することによつて初めて自己の本質を形成し、発展せしめ得る。「我々が我々の欲する
何処に身をおくにせよ、我々は凡て根本において集団的存在である。我々の有し、我々の在るところのものにして最も純粋な意味で我々の財産と呼ばれるものは如何に少いか。我々は凡て我々の前にあつた人々から
並に我々と共にある人々から受け且つ学ばねばならぬ。最大の天才ですらも、もしも彼が凡てを彼の内部に負はうと欲したならば、それほどにならなかつたであらう。」生とは自己の周囲との関係を育てる能力である。ゲーテは彼自身についても、彼の作品が多くの人々から栄養をとつたこと、他の人々が種子を
蒔いておいた処で彼が収穫したこと、を述べた。彼も、彼の語を用ゐれば、「収穫の天才」であつた。「性格はただ世界の流れのうちにおいてのみ形成される。」「孤立してゐては、人間は決して目的に達することがない。」なぜなら「人間が何を捉え、何を作すにせよ、個人は自分だけでは十分でない、社会はつねに立派な人の最大の必要である。凡ての有能な人間は相互の関係に立つべきである。」人間は歴史と社会の中において自己を形成し、発展せしめねばならぬといふのが彼の思想であつた。
Mein Erbteil wie herrlich, weit und breit !
Die Zeit ist mein Besitz, mein Acker ist die Zeit.
かやうな思想を彼は
就中『
ルヘイルム・マイスター』において具象化した。その遍歴時代の中には「時間は神と自然の最高の賜物である。」と云はれる。これら凡ての思想が最も健全な歴史の見方である限り、ゲーテに歴史的意志が欠けてゐたとは単純に考へられない筈である。彼は歴史を単に歴史として尊重することを知らない。彼は「生産的なものを歴史的なものと結合」せんとするのである。我々は過去に寄食すべきでない。過去は現在によつて生かされ、現在の立場から新たに獲得されねばならぬ。「汝が汝の祖先から相続してもつものを、それを所有せんが為に、自分の力で獲得せよ。」固より人間は歴史と社会に交渉することによつて自己の本質と孤立性とを失つてはならぬ。「生あるものはもろもろの外的影響の最も多様なる条件に自己を適応させ、しかも或る一定の獲得された決定的な独立性を失はないといふ天賦を有する。」このやうにしてかの Bildung の思想がゲーテの世界観の中心に立つてゐる。それは一切のものと接触し交渉することによつて自己を教養し豊富になし、その際自己は拡散し解消されることなく、
却て自己の本質を発展させ発揮するといふ過程である。それによつて人間はテュプス的な人間、いはゆる全人となり得る。このやうなビルドゥングの過程は単に人間の教養に限られず、寧ろゲーテはそれを全自然における根本過程と見做した。
発展はゲーテによれば分極性 Polarit
t の関係において行はれる。「自然の忠実な観察者は、他の点で如何に異る考へ方をしようとも、次の点では互に一致するであらう。即ち現象する一切、我々に現象として出会ふ一切のものが、或は根源的に二分してゐてそれが合体し得る場合か、或は根源的に統一してゐてそれが二分し得る場合か、のいづれかなることを暗示し、かかる仕方で自己を顕示してゐる。一にされたものを二分し、二分されたものを一にすること、それが自然の生命である。それは我々が棲息する世界の永久の心臓収縮と伸張、永久の集成と分解、呼気と吸気である。」同じやうにゲーテは人間的自然のうちに分極性、諸衝動の間における反対を見、――特に『ファウスト』における「二つの魂」の思想は有名である――それからして彼は人間的発展の諸段階、社会の諸形態を展開した。相反する極に分化したものはおのづから第三のものに近づく傾向を
具へてゐる。これを彼は高昇 Steigerung と呼ぶ。発展とは分極化を通じての高昇を意味する。高昇は凡ての存在の根本的衝動である。
Wohin? Ach, wohin?
Hinauf! Hinauf strebt's
Aufw
rts!
ゲーテはガニメードの伝説のうちに人間の上へ上へと向はうとする衝動を見た。然るにこの衝動は既に自然のうちに「純なる太陽に向ふ」、「色どられたる地上に向ふ」衝動として含まれる。分極性と高昇とは自然の二つの大きな旋条である。「前者は物質を物質的に考へた場合それに属し、後者はそれを精神的に考へる限りそれに属する。前者は不断の牽引と反発であり、後者はつねに努力する登攀である。」自然の蔵する絶えず高昇してやむことなき衝動はゲーテには精神性への限りなき衝動を意味した。
発展は内なるものの漸次的な展開である。それは革命的でなく進化的である。「自然は飛躍をなさぬ。」といふのが彼のモットーであつた。固よりゲーテを単なる保守主義者と見做すことは当らないであらう。ひとが彼を「現存物の味方」と呼んだとき、彼は抗議して云つた。「然しそれは私を不愉快にする
甚だ曖昧な名称だ。現存するすべてのものがすばらしく善く且つ正しいならば、私はそれに対して何等反対せぬであらう。然しながら多くの善きものと並んで同時に多くの悪しきもの、正しからぬもの、不完全なものが現存するのだから、現存物の味方といふことは、
旧びたもの、悪しきものの味方にほかならぬことがしばしばである。然るに時代は永久の進展のうちにある。そして人間的事物は五十年毎に姿を変ずる。かくて一八〇〇年には完全であつた制度は、既に一八五〇年には恐らく不具物であるだらう。」彼は社会を発展において眺める。けれども彼はそこに漸次的な、連続的な、自然的な発展を見るのであつて、革命は暴力的なもの、破壊的なもの、不自然なものを含むとしてそれを
却け、また彼はかやうな飛躍的な発展が可能であるとは信じない。或る時彼は語つた、「
輿論においてひとが誤解され易いのには実に驚く。私は
嘗て民衆に対してどのやうな罪を犯したおぼえもない。然るに今ではすつかり民衆の味方でないと云はれてゐる。むろん私は掠奪や殺人や放火を企てそして公共の安寧のいつはれる楯にかくれて最も卑しい利己的な目的をねらつてゐる革命の輩の味方ではない。私はそのやうな人々の味方でもなければ、ルドウィヒ十五世の味方でもない。私は一切の暴力的革命を嫌ふ、といふのはそれによつて多くの善事が獲得されると同様にまた破壊もされるからだ。私は革命を実行する人も、革命に動機を与へる人も共に嫌ひだ。然しそれだからとて私は民衆の味方でないのであらうか。正しい感情をもつた人は誰でもこれとは違つた考へ方をするであらうか。」「我々に未来を期待させるやうな改良はどんなものでも私が非常に喜ぶといふことをあなたは知つてゐられる。然し既に云つたやうに、一切の暴力的なこと、飛躍的なことは私の性質に合はない、それは不自然だからである。」彼は却て「自己自身のうちに救済手段を一緒に含んでもつてゐる自然的な発展行程」に信頼し、そしてそれがまた社会生活の上にも適用されることを希望した。そこでゲーテは全く原理的に、各々の国民はただ自己の自然に従つて、自己の自然的に制約された諸要求に従つてのみ生きることができ、生きるべきであり、また生きるのほかないことを力説したのである。「一の国民にとつて、他の国民の真似をすることなしに、自己自身の中心及び自己自身の要求から出たもののみが、善いものである。なぜなら或る一定の年齢にある一の民族にとつて有益な栄養であり得るものも、恐らく他の民族にとつては毒となるであらう。それだから何等かの外国の改革を移植しようとする
凡ての企ては、それに対する要求が自己自身の国民のより深い中心のうちに根差してゐない場合、馬鹿なことである。」更にゲーテは、国民的生活は本来自然的な発展を遂げるものであり、これに対して不自然なこと、暴力的なことを為し、もしくは為す動機を与へるのは政治家であり、政府であると考へた。要するに、ゲーテは革命主義者でなく改良主義者であり、急進主義者でなくて漸進主義者であつた。社会と歴史に関しても、「それは自然的でない」といふことが彼にとつて一切の批判と評価との根本的な基準であつた。凡ての種類の飛躍は彼には自然的ならぬものと見えた。彼はあらゆる場合において、何等かの事物または過程が示すやうに感ぜられる
間隙もしくは飛躍を充たし、それを結び付ける移り行きを探し出さうと努力することを特に喜んだ。
右の如き思想の根柢をなしてゐるのは明かに Organologie の思想である。我々はゲーテにおいて有機的発展の思想の模範的な場合に出会ふ。歴史及び社会は一の有機的自然と見られた。彼の社会哲学の最後の言葉は凡ての人間が有機的に仕事と活動とによつて結合するといふことであつた。社会と自然とは連続的に捉へられ、社会は一の高次の有機体と考へられる。次の言葉はこのことを甚だ明瞭に言ひ表はしてゐるであらう。「植物は節から節へと生長し、最後に花を開き実を結ぶ。動物界でも変りはない。幼虫、条虫と節から節へと進化し、最後に一つの頭が出来る。高等な動物及び人間においては
脊椎骨が次第に結合して行つて、最後に頭が出来、そこに力が集中する。団体の場合に起ることも総じて個体の場合と変りがない。互に結び付く個体の系列なる蜂は、総体として、また最終をなす或るものを作り出す、即ち女王蜂は全体の頭と見らるべきものである。どうしてかうなるかは不思議で、明言することが困難だ。然し私はそれについて私の思想をもつてゐると云つてもよい。このやうに民族は、半神の如く先頭に立つて守護と安寧となるやうな民族の英雄を作り出す。かくてフランスの詩的能力はヴォルテールに集中した。一民族のこのやうな頭はそれが活動してゐる世代にあつては偉大である。後々まで持続するものも多いが、大部分は他の頭と取り換へられ、次の時代からは忘れられる。」ゲーテの社会観が族長的社会主義ともいふべきものであつたことも、このやうな考へ方と符合するであらう。然るにこのやうな考へ方は一の Analogistik と見らるべく、そしてこのものは一般に有機体説の特徴のひとつをなしてゐる。或は寧ろ、アナロギスティクは有機体説の基礎の上において初めてその十分な意味と内面性とを有すると考へられるべきであらう。ところでゲーテにおいては、人間及び社会が自然と見られたやうに、自然もまた或る人間的なもの、文化的なもの、精神的なものと見られた。かの『自然の体系』に見られるが如きフランス唯物論の自然観に対してゲーテは
夙に強い反発を感じた。自然は機械的なものでなく、生ける生命である。自然的形成過程も一種の人文的形成過程、即ち教育乃至教養と見られた。人間的自然の研究が彼においてつねにいはば教育学的観点によつて方向付けられてゐたのは当然である。然しまた人間の教養の過程も一の自然的形成過程として、従つて根本的にはかの分極性と高昇との関係において捉へられた。否、一般的に云つて、ビルドゥングといふ思想は、有機体説的世界観の基礎を
俟つて初めて、その固有な且つ十分な意味において成立するものである。「ひとが周囲の対象を認めるや否や、彼はそれを自己自身に関係させて見るのである。そしてそれは当然だ。」とゲーテは云ひ、「自然の核心は人の心の中にあるのではないか。」とも、「感情は一切である。」とも彼は書いた。彼の直観、芸術家的制作的な想像力のうちに自然と人文とは統一され、連続的として現はれる。けれども我々は彼を単なる主観主義者と
見做してはならない。ゲーテ自身が自然であり、自然そのものの如く活動した。彼は芸術をも自然のやうに観察した。彼は自然によつて自己の眼を養ひ、それをもつて一切を見ようとした。「私が自然科学の研究をしなかつたら、私はありのままの人間に通じなかつたであらう。」と彼は云つた。「自然は全然
洒落を解しない、それはつねに真実で、つねに真面目で、つねに厳格である。」従つて自然は我々の物の見方にとつての試金石でなければならぬ。けれどもそれだからと云つて、ゲーテは単なる客観主義者であつたのでもない。寧ろ彼が嘗てヘーゲルに就いて語つたといふ次の言葉が、彼自身の立場を甚だ適切に言ひ表はしてゐる。「客観と主観とが相触れるところに生命がある。ヘーゲルが彼の同一哲学をもつて客観と主観との間の中間に身をおきそしてこの位置を動かぬならば、我々は彼を称讃しようと思ふ。」ひとはこのやうな立場を中間の立場 mittlerer Standpunkt とも呼んでゐる。ゲーテにとつて中間の立場は彼の直観の立場において可能にされ、保証されてゐた。一七九八年六月三十日付のシラーへの書簡の中で、ゲーテは、上から下へ降る自然哲学と、下から上へ昇る自然研究家とについて述べ、そして「私は少くともその中間に立つ直観のうちにおいてのみ私の安心を見出す。」と書いてゐる。彼は自然哲学者及び自然研究家に対して自己を自然観照者として性格付けた。
かかる意味での自然観照者としてのゲーテの眼に映じた自然は、有機的発展をなすものであつて、弁証法的なものでなかつた。弁証法は彼には寧ろ思弁的なもの、また詭弁的なものと感ぜられたであらう。エッケルマンの録するところによれば、ヘーゲルがゲーテに向つて、「弁証法は根本において整理され方法的に訓練された矛盾の精神にほかならず、この精神はいづれの人間にも内在してをり、その能力は真偽の区別にあたり偉大さを現はすものである。」と云つたとき、ゲーテは、「さういふ精神的技倆と才幹とがしばしば
濫用され、偽を真とし、真を偽とするために用ゐられねばよいが。」と疑ひ、――そしてヘーゲルが、「さういふこともあるが、それはただ精神的に病的な人々がやるだけだ。」と答へたとき、ゲーテはなほ次のやうに語つてゐる。「私は自然を研究したため、さういふ病気が起らなくて幸福だ。といふのは、自然の研究では無限に且つ永久に真なるものを取扱ひ、このものはその対象の観察及び取扱にあたり全く純粋に且つ正直にやらない人を無能力者として排斥する。そして私は多くの弁証法的病人は自然の研究において有効な治療を見出し得るであらうと信じてゐる。」ゲーテの有機的世界観にとつてはどこまでも自然がその地盤であつた。これに反し弁証家ヘーゲルにとつては歴史がそのエレメントであつたのである。弁証法の欠くべからざる要素をなす飛躍乃至非連続の思想の如きは、ゲーテには堪へ難きものであつたに相違ない。彼はヘーゲルの哲学を有機体説的に解釈し得た限り――それは実際このやうに解釈され得る方面を多分に含んでゐる――それを尊重した。
かくして我々はゲーテにおける歴史の概念を探り、それを Typologie, Morphologie, Monadologie, Organologie, Mythologie 等の概念によつて性格付けて来た。これらの概念は彼において相互に繋り合ひ、貫き合つてゐる。それらの地盤をなすものはまさに自然であり、それらはまた人間の観想的態度と内面的に結び付いてゐた。かかる自然概念の哲学的特質は、私の歴史哲学の中で明かにしておいたやうに、それにおいては「存在」と「事実」とが単に内在的連続的に見られて、同時にまた超越的非連続的に捉へられないといふことである。換言すれば、そこでは存在と事実との関係が弁証法的に把握されてゐない。歴史的意識が彼に存した限り一面的であつたのもこのためである。
却てゲーテの自然はこの場合スピノザ的自然と落ち合ふであらう。自然は「自己自身を享受せんがために、自己を分化展開した。」神の無限なる本質はただ生成の不断の流れにおいてのみ自己自身を享受し、自然はそれにおいて我々がかかる展開を我々人間の認識にとつて達せられ得る文字において、即ちシェムボル的に、読み取ることのできる開かれた書物である。「そしてあらゆる
犇めき、あらゆる闘ひは主なる神における永遠の安らひである。」
尤も我々の信ずるところによれば、現実的な歴史の概念は或る自然の要素を欠くことができない。しかもそれは単に外的な自然といふ意味においてのみではないのである。現実的な歴史は、我々の用語に従へば、自然の「存在」と交渉するばかりでなく、「事実」としての自然的なものを含んでゐる。我々はこのやうな「事実」としての自然的なものを一般に運命の概念をもつて言ひ表はした。そこで問題は、かかる意味における自然的なもの、運命的なものの概念がゲーテのうちに見出され得ないかどうかといふことである。我々はこの問題に肯定的に答へて、かの das D
monische の概念が
恰もかかるものに相応することを示さうと思ふ。デモーニッシュなものとは一般的に云つて歴史における自然的なものを意味した。ゲーテがこの概念について述べたのは、彼の自然哲学上の諸著作においてではなく、却てつねに歴史に関係してであつた。この語は所々に現はれてゐるが、特に詳細に説明されてゐるのはゲーテの自伝なる『詩と真実』の中においてである。
『詩と真実』の第二十章に記すところによれば、デモーニッシュなものはただ矛盾においてのみ運動し、顕現され、従つて何等の概念、如何なる言葉のもとにも捉へられ得ぬものである。曰く、「それは神的でなかつた、なぜならそれは非理性的に見えたから。それは人間的でなかつた。なぜならそれは悟性をもたなかつたから。それは悪魔的でなかつた、なぜならそれは慈悲的であつたから。それは天使の如きものでなかつた、なぜならそれは往々他の不幸を愉快がるのが見えたから。それは偶然に似てゐた、なぜならそれは何等の帰結も示さなかつたから。それは摂理に似通つてゐた。なぜならそれは連関を示唆したから。我々を制限すると見えた
凡てのものもそれにとつては貫き通し得るものであつた。それは我々の存在の必然的な諸要素を
気儘に処理するやうに見えた。それは時間を収縮し、時間を延長した。ただ不可能なもののうちにあつてのみそれは得意であり、可能なものを軽蔑して
斥けるやうに見えた。」かかるデモーニッシュなものは「主として人間と最も不思議な関係をもち、そして道徳的世界秩序と相対立せぬまでも、それと相交叉する力を形作つてをり、かくて一を経とし、他を緯と見做すこともできやう。」即ちゲーテによれば、デモーニッシュなものはイデー的なものではなく、寧ろ自然的なものであり、偶然的なものでありながらなほ且つ必然的なものである。また彼はそれを或る全体的なものと考へ、建築の効果の説明に際して、「全体の効果はつねに我々がそれに服するデモーニッシュなものである。」とも云つてゐる。更に彼はデモーニッシュなものはあらゆるライデンシャフトに伴ふのがつねであると述べた。それはもちろん或る否定的なものの意味を離れないけれども、決して単に破壊的に否定的なのでなく、却て「全く積極的な活動力のうちに現はれる」ものである。従つてメフィストフェレスはデモーニッシュではない。ところでこれらの規定はそれをもつて我々が本来の運命的なものを最もよく規定し得るものではなからうか。ゲーテによれば、デモーニッシュなものは先づ個人に結び付いて現はれる。然し凡ての個性的なもの、特性的なものがデモーニッシュなのではなく、寧ろそれは歴史的に重要なものにおいて出会はれるのがつねである。それは「好んで重要な個人に、殊に彼等が高い地位を有する場合、結び付く。」「人間がより高く立つてをればをるほど、それだけ益々多く彼はデモンの影響のもとに立つてゐる。」ゲーテは個々の人間について、例へばフリードリヒ大王、ペテロ大帝、ナポレオン、カール・アウグスト、バイロン、ミラボオなどをデモーニッシュと呼んだ。デモーニッシュなものはこのやうに特にいはゆる世界史的個人において顕現する。然しそれは単に個々の人間においてのみでなく、出来事においても経験される。ゲーテは彼とシラーとの際会をかかるものと考へた。「かやうにして私のシラーとの知り合ひには全く或るデモーニッシュなものが支配してゐた。我々はもつと早くも、もつと
晩くも際会することができた。然るにそれが丁度、私がイタリア旅行を終へそしてシラーが哲学的思弁に倦き始めた時代であつたといふことは、重要なことであり、二人にとつて最も大きな効果のあることであつた。」そればかりでなく、デモーニッシュなものは更に社会的なものとしても経験されるのである。即ちゲーテはかの自由戦争について、「一般的な窮迫と一般的な侮辱の感情とが或るデモーニッシュなものとして国民を捉へた。」と云つてゐる。我々のいふ「事実」としての自然的なものは単に個人的なものでなく、また社会的なものである。そして我々はそれが個人的としては「ライデンシャフト」に、社会的としては「パトス」に伴ふといふ風に区別することもできやう。
このやうにしてデモーニッシュなものは特に歴史と関係をもつてゐる。それは自然的なものであると云つても、それなくしては歴史の概念も現実的に構成され得ないやうな歴史における自然的なもの、即ち運命的なものを意味した。またそれは自然的なものであると云つても、外的世界に属せずして、却て内的自然として捉へられた。外的世界も我々にとつて或る意味では運命的なものであり、ゲーテもそのやうに考へた。然しそれはダイモーンと云はれずして、彼によつてテュケーと呼ばれた。このものは本来的な運命ではなく、寧ろ非本来的な運命であり、本来的な運命はデモーニッシュなものである。デモーニッシュなものも或る意味では偶然的なものであるけれども、然しそれはテュケー即ち外的な偶然でない。外的世界は
固より我々にとつて単なる偶然ではなく、却て必然的なもの、強制的なものを含んでゐる。かくの如き外的な必然もしくは強制をゲーテはアナンケーといふ語をもつて現はした。デモーニッシュなものも或る意味では必然的なものであるけれども、それはアナンケー即ち外的必然ではない。アナンケーも固より運命のひとつの形態であるが、然しそれは非本来的な運命の形態であつて、本来的な運命即ちデモーニッシュなものの形態ではないのである。
かくて我々はデモーニッシュなものの概念を現実的な歴史の概念の欠くべからざる要素として獲得し得るとしても、それはまさにかかるものとして上に述べたが如きゲーテの根本思想とは明かに一致し得ないものを含むであらう。従つてそれはゲーテにとつて当然哲学的に深められ、彼の根本思想と調和され、統一さるべきものでなければならなかつた。そして我々は彼の詩
”Urworte――Orphish“
をもつてかやうな統一を最もよく表現せるものとして理解することができやう。ゲーテはもと
ンケルマンの美的観念を通じてギリシア的古代についての明朗な形象を形作つてゐた、この形象の本質的な要素は、オリュムピアの輝ける神々の世界の「高貴な単純さと静かな偉大さ」であつた。然るに一八一七年十月九日付で彼はクネーベルへ宛て、彼がヘルマン、クロイツァ、ゼガ、ヴェルカー等の神話学者により「オルフィク的闇」の中にまで陥つたといふことを書いてゐる。これらの神話学者の仕事はその発展においてシェリングの『サモトラケーの神々』についての論文から、バコーフェンの『古代世界の女性支配』、ローデの『プシュヘー』そしてニイチェの『悲劇の誕生』にまでつらなるものである。云ふまでもなく、「かの憂鬱な秘密」をそのままにしておくことはゲーテの本性にふさはしからぬことであつた。彼は「漠然とした古代を再び精粋化し」、「死んだ文句を自分自身の経験の生命性から再び生新ならしめた」のである。ところでオルフィク的根源語としてゲーテの挙げたのはδα※
[#鋭アクセント付きι、U+1F77、77-8]μων,τ※
[#鋭アクセント付きυ、U+1F7B、77-8]χη,※
[#無気記号と鋭アクセント付きε、U+1F14、77-8]ρω
,※
[#無気記号付きα、U+1F00、77-8]ν
γκη,※
[#無気記号付きε、U+1F10、77-8]λπ※
[#鋭アクセント付きι、U+1F77、77-8]といふ五つの言葉であつた。この場合テュケー及びアナンケーが運命的なものと見られたところのいはゆる「世界」、前者が偶然と見られる限りのそれを、後者が必然と見られる限りのそれを意味したことは、我々のさきに述べた通りである。然るにここに第一の根源語として掲げられたデモンの見方は、かのデモーニッシュなものの概念と直ちに同じでなく、却て前者において後者はゲーテの根本的立場から深められて解釈されてゐる。デモンは固よりここでも運命、しかも内的な、本来的な運命の意味に理解されてゐる。然しそれは同時にエンテレヒー的モナドの意味と直接に結び付けられる。「デモンはこの場合必然的に誕生に際して直接的に言ひ表はされた、個人の限定された個性、特性的なものを意味し、それによつて個人は、なほ甚だ大なる類似性にも拘らず、いづれの他の個人からも区別される。」とゲーテは説明した。それは「内からして」限りなく発展するものであり、しかもそれは「厳密な限定」である。
Und keine Zeit und keine Macht zerst
ckelt,
Gepr
gte Form, die lebeld sich entwickelt.
といふ甚だしばしば引用される有名な句は、実に、このやうなデモンの解釈として、このデモンのスュタンツェの中に立つてゐるのである。それはエンテレヒー的モナドの内面的発展の内面的必然性を意味する。デモンはこのときもはやかのデモーニッシュなものの担つてゐた或る偶然性の性格を何等含まない。偶然的なものの意味をもつのはデモンではなく、寧ろ内的なデモンに対立する外的世界である。「この世界の組織は必然と偶然とから成つてゐる。」そこにはテュケーとアナンケーとがある。然るにかかる外的世界乃至外的運命と内的世界乃至内的運命との対立はゲーテにとつて弁証法的矛盾を意味するのではない。却て両者の関係を支配するのは第三の根源語、エロス(愛)であつた。然しながら道は困難である。世界の運命が偶然である限り愛の力は自由であらう。それが必然として自己の力を現はすとき、愛もまた必然に縛られねばならない。このとき愛もまた一の運命である。かくの如き全運命から解放されるためにエロスにはエルピス(希望)が結び付かねばならない。希望によつて存在は完成に到達し得る、とゲーテは考へた。
Eng ist das Leben fuhrwahr,
aber die Hoffnung ist weit.
(『ゲーテ研究』岩波書店 昭和七年)