辞書の客観性

三木清




 私がヴォルテールの『哲学辞書』を買つたのは、たしか大黒屋といふ本屋であつたと思ふ。これは京都ホテルの前にあつた洋書屋で、ホテルに来る外人が主な客であつたらしいが、現在はなくなつてしまつたやうだ。京都で洋書を売つてゐたのは丸善とこことの二軒であつたので、私は学生時代に折々出掛けて行つたが、或る時この本を見出したのである。初めそれを手に取つたとき、ヴォルテールと哲学辞書とがうまく結び附かなかつた。ヴォルテールが辞書を編纂するやうな人と考へられなかつたし、その内容も一見普通の辞書のやうではなかつたので、当時フランスのものについて知識の極めて貧弱であつた私は、実は、半信半疑であつたのだが、ともかくフランマリオンの叢書であるから、信用して買つて帰つた。今思ひ出して恥しい次第である。
 その時分フランス語があまり読めなかつた私は、語学の勉強のつもりで、字引を頼りに永い間かかつてこの本を一通り読んでみた。それからである、辞書についての私の観念が変つたのは。それまで辞書といへば、言葉の意味が分らない時に引くもので、その記述は客観的で筆者の私見など加へらるべきものではないと考へてゐた。ヴォルテールの哲学辞書はこれとはまるで反対のものであつたのである。項目は彼の立場から極めて主観的に選択され、それについて自分の哲学的見解が甚だ自由に述べられてゐる。その後東京に住むやうになつてから、或る時、京都へ行つたついでに丸善へ寄つたら、この本の英訳書があつたのも、何か妙な縁であるやうに思はれた。
 辞書は引くもので、読むものではないといふのが通念であらう。だが私は今、この考へ方を改めて、辞書は読み物であり、しかも恐らく最上の読み物の一つであると思つてゐる。仕事に疲れた時、無聊に苦しむ時、辞書を読むのは、なかなか楽しいものである。小型のもの、大型のもの、その時々の心理的状況に応じて適当に取り出すことにする。語学の辞書なども面白い読み物であるといへる。
 高等学校時代には、私は畔柳郁太郎先生から英語を習つたが、先生は生徒に必ずウェブスターとかセンチュリーとかいつた大きな辞書で調べてくるやうに命ぜられた。それを一々引くのは面倒な仕事であつた。そのうへ私どもは誰もそのやうな高価な辞書を自分で持つてゐなかつたので、学校の図書館へ通はねばならなかつたのである。そんなわけで、小さな英語辞書、英和辞典でさへ間に合ふものを、わざわざウェブスターやセンチュリーを引かせることは、あまりにペダンチックではないか、などと云つて、私どもは内々不平であつた。しかし今にして思ふと、もしあの当時、辞書が読み物であるといふことが分つてゐたら、私どもはどんなに多くの利益を得てゐたことであらう。
 昨年の秋、私はピエール・ベールの『歴史・批評辞書』を手に入れることができた。これは三巻から成る第二版で、一七〇二年の発行である。別に『補遺』一巻(一七二二年)がある。前者はロッテルダムで、後者はジュネーヴで出版されてゐる。この辞書の第一版は一六九五―九七年に出てゐるが、ヴォルテールの哲学辞書は一七六四年の出版であるから、私の持つてゐる第二版にしても、それよりもかなり前のものである。ベールはフランス啓蒙時代の批評家・哲学者で、後にロッテルダム大学教授となり、デカルト学派に属するといはれる。私の手に入れたベールの辞書は何処をどうして渡つて来たのであらうか。或ひは長崎あたりへ来てゐた宣教師でも持つてゐたのではないかと想像される。ひまな時に読んでゐると、ベールの辞書もやはり面白い、筆者の思想的立場が出てゐるからである。
 読み物として面白いのは、云ふまでもなく、筆者の見解を自由に書いた主観的な辞書である。私は辞書の歴史について詳しいことは知らないが、現代の辞書は、客観性を目指して発展して来たやうである。これは辞書としては確かに進歩であるに相違ない。その記述の仕方も辞書的といつた一種の型が出来て、正確とか簡潔とかを目的としてゐる。だがその代りに最近の辞書は一般に乾燥無味になつた。これは便利であるにしても、深味はなく、個性にも乏しいのである。学問的に見ても、この頃の辞書は研究的であるよりも、学界の通念を要約して述べるといふことが主となつてゐるやうである。かやうな辞書が必要であることは云ふまでもなからう。
 しかしこの種の客観的な辞書の必要は教科書の必要とほぼ同じである。自分が専門にやつてゐる学科については、辞書といふものは案外役に立たないのではないかと思ふ。他の方面については、辞書はなるほど有益ではあるが、それは自分がそれについて知らないからである。辞書に依つてものを知らうとしても、客観的な辞書といふものは、だいいち面白く読めない。即座の必要には間に合ふが、永く続けて読ませるものではない。客観的であらうとする辞書は何よりも先づ正確でなければならぬが、辞書の正確といふこともなかなか問題である。新聞の記事は、こと、自分に関する限り、たいていどこか間違つてゐるものであるが、それが他人のことになると、悉く正確であるかのやうな錯覚を起させる。辞書もまた同様の錯覚を起させ易い性質をもつてゐるのである。
 辞書の客観性といふことは一見簡単な事柄のやうで、実は複雑な問題である。語学や自然科学の辞書のやうな場合にはともかく客観性の基準が定められ得るにしても、社会科学、更に哲学になるとそれはなかなかむつかしいことだ。従つて勢ひ術語の単なる説明に終つたり、種々の学説をただ形式的に分類して示すに止まつたりすることになる。それが「辞書的客観性」といふものであるのかも知れないが、それが真の客観性であるかどうかは、認識論的にやかましくいへば、いろいろ問題があることであらう。殊に多数の執筆者に依頼して辞書を編纂するといふ場合、統一が失はれないやうにするためには、各執筆者は自分の見解は棄てて、字句の解釈、学説の分類の程度に止まらざるを得ず、従つて特性のないものになつてしまふのである。内容の統一の点からいへば、一人の人間で全部の項目を書くとか、或る一定の学派に属する者のみが執筆するとかといふことが必要である。その場合には「辞書的客観性」は失はれるであらうが、読んで却つて面白く、また却つて有益でもある辞書が作られるであらう。さういふ意味で、弁証法的唯物論を基礎として出来たソヴィエットの百科辞典の如き、興味深いものがある。多数の学者の執筆に成る辞書においては各項目毎に署名して責任を明かにすることが例になつてゐるやうだ。然るに現在日本の多くの辞書を見ると、署名しなければならぬほど自己独自の見解を記したものは稀で、その殆どすべてが辞書的客観性を目標として書かれてゐる。外国の辞書においては署名したものはそれが堂々たる一個の論文で、研究的価値を持つてゐるのが多い。辞書の原稿にせつかく署名する以上、辞書的客観性を超えてかくの如くありたいものだと思ふ。
 辞書的客観性を目標とした辞書のほかに、日本においても、もつと主観的な辞書が出来ても好からう。それは辞書を読み物として取扱ふ私などの特に望むところである。自己独自の立場に立つて、一人で辞書を書くといふやうなことが新たに試みられても面白からう。ヴォルテールの辞書もやはり辞書である。トマス・アクィナスの『スンマ・テオロギカ』も辞書と見ることができるし、ヘーゲルの『エンチクロペディー』も或る意味で辞書であるといはれないことはない。概論書や入門書の如きものは多く出てゐるが、かうした形でなくて、それを辞書の形で書くことを企てるのも面白からう。辞書のもつてゐる啓蒙的意義は大きい。フランスのアンシクロペディストのやうな著作家の団体が生まれてくることも意義がなくはなからうと思ふ。
 この頃折にふれてベールの辞書を開いてみてゐるので、それに関連して辞書についての感想をここに書き留めておく。





底本:「日本の名随筆 別巻74 辞書」作品社
   1997(平成9)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「三木清全集 第一七巻」岩波書店
   1968(昭和43)年2月
入力:小原遼
校正:小林繁雄
2008年1月19日作成
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