街上には、動く影もなかった。アスファルトの路面をはげしく照りつけている陽脚に、かすかな埃りが舞いあがっているばかりで、地上はまるで汗腺の涸渇した土工の肌のように、暑熱の苦悶に喘いでいるのだ!
この太陽のじりじり焼きつける執念深さから、僅かな木影や土塀の陰を盗み出して、そこにもここにも裸形の
すると軈て、この熱射の街頭にぽつんと一つの影が現われた。その影は初めに、幅員の広い、ゆるやかな傾斜をもった大通りの果てに――恰度オレンジ色の宏壮な中国銀行の建物の下に、ぽつんと黒い一つの点になって出現したのであるが、その黒点が太陽の熱射の中を泳いで近づいて膨らみ切った時、それは日焼けのした、埃りまびれの若者が七月の太陽にゆだり切ってよろめいて来るのだった。噛み砕いた鉛筆の末端の様に、
若者はそこまでよろめいて行った時、ちょっと立ち停った。路を考えるようにも見えたし、また空いたベンチを捜し求めるようにも受取れた。だが、その何れでもなかった。彼の眼は、無料宿泊所の新らしい木札に、磯巾着のように吸いつけられたのだ! かすかではあるが、疲れ切った若者の顔には生色が動いた――その若者は木札の意味を読みとると、すぐに病院の柵に沿うて右側の路に折れて行った。
病院の柵が尽きると、埃の多い十字路になって、その向い側の一角はアカシヤの深い木立に蔽われて、支那風の土塀にかこまれた正念寺だった。正面に黒い門が開いていた。門柱の一方には『無料宿泊所』の看板があって『お宿のない人、職のない人は遠慮なくお越し下さい』と、親切な添え書きさえしてあった。
この寺院と
若者は注意深くロシヤ人の酒場を盗み見ながら、そのまま瞬間の思案もなく正念寺の黒門に吸われて行った。門のなかはアカシヤと楡の木立が自然のままに生い育って、その樹間はほの暗いほどの雑草に埋れていた。本堂に通じる路だけが、それでも白く掃き清められていた。
若者は二三歩よろめいて行ったが、ふと突然に立ち止った。ここにまで裸体の苦力が侵入して来て、木影の雑草のなかに、鯖みたいな物凄い人間の腹が無数に映ったからである。彼は感じ深い面持で、そのいぎたない風情を眺めた。そして無料宿泊所が、自分たち同国人にのみしか与えられない恩恵を、阿弥陀如来の広大無辺の教義に民族的な息窒りをすら感じながら、本堂脇の玄関に歩いて行った。
「ごめん下さい」と、彼は襖の端に投げ出された毛脛を眺めながら、二声ばかり呼んだ。すると泡喰いながら、毛脛がぴょこッと縮むと、白い腰巻一つの坊主が頭から這い出して来た。
「お世話になりたいと存じますが……」
無精髭の伸びた坊主が、迂散臭い眼付きで、若者の頭のさきから靴のさきまで眺め上げ、眺めおろした。
「何処から来た?」
坊主は木を折るように怒鳴った。
「は、奉天から」
「歩いてか?」
「え……」
「そこに帳面と硯があるので、原籍と姓名を書きとめておいて、向うの長屋で休むといい」
坊主は面倒臭く言葉半分に言い捨てて、とっとと奥へ戻ってしまった。
『お腹が減っているんですが、一口……』と思ったが、もう追いつかなかった。若者はぼんやり気の弛むのを感じた。
宿泊所と云っても、それは名ばかりのもので、貸家づくりの八畳一間きりの長屋だった。何んの目的のために、こんな貸家を宿泊所に潰したのであるか、その坊主の魂胆は言わずと知れている! 窓ガラスは破れ放題だし、畳はぼこぼこにほぐれていた。ペンキの剥げ落ちたドアに通じる路だけが、どうにか路らしく踏みにじられてある以外は、雑草が跳梁するままだった。恰もそれは雑草に埋れた
若者は
「ごめん下さい」
素裸の男が黙って顔をあげた。髭の濃い、だが穏かな面構の四十男で、ひどいトラホームを患っていると見えて、赤く爛れた脂っぽい眼付で、股の間に拡げた猿又の虱を潰していた。
「何処から来た。兄イ!」
その男は無表情な口のきき方をした。
「ええ、奉天から……」
「歩いてか?」
「ええ……」
男は再び無感動な動作で、虱を潰し始めた。が、ふと、「その兄イも一昨日大連から歩いて来たんだ」と、言って頤をしゃくって見せた。「二日三晩まるで
そう云ってまた、彼は無感動な顔付をした。その男の肱の向うに、その通りの青年が寝汗をかいて腹這ったままで眠むり落ちていた。黒々と日焼けのした顔は蒼白いむくれが来ていた。もういい加減に叩き起さなければ!
若者はごろりと横になった。眼の
「飯は食ったか?」また男が問いかけた。
「いいえ、昨日から……」若者は情けない表情をした。
「そうか。そこの新聞紙をめくって見ろよ。胡瓜と黒パンがあらあな」
若者は咽喉から手が出るほど、飛びつきたかったが、もじもじせずにはいられなかった。――もっと適切に言うならば、この男の親切な言葉に対して、何かこう精一杯な、感謝の心持の溢れた言葉だけででも報いたかったからだ。
「遠慮するな。困った時はお互だよ!」
彼は相変らず無感動な表情で虱を殺しつづけた。
「有難うよ!」
若者は訳の判らない感動で、反って無技巧な言葉を単純な感激で押し出してしまった。新聞紙をめくって黒パンを手にした。香ばしい匂いがぷんと来る。――ざらついてはいるが、心持ねばついた福よかな、その感触は一体何日ぶりに経験する快よさであったろうか! 若者はともすると、瞼に溢れて来る涙を危ぶみながら黒パンの塊を二つに引き裂いて、ごくんと唾液を胸元深くのみこんだ。そして次の瞬間には、餓鬼のように貪りついていた。
若者が眼を醒したのは、翌日の夕方であった。一昼夜ぶっ通しに眠むり通して、まるで魂を置き忘れた人間のように、ふぬけた格好で起きあがった。何かの悲鳴を聞いたようにも、またそうでないようにも思われた。
ドアが忙しそうに開いたり、閉ったりした。まだ若者の知らなかった支那服の男、それに逞しい体格の黒眼鏡の男、虱をひねり潰していた昨日の男、それから大連から歩いて来たと云われる青年の四人が、それぞれ忙しく水を汲み込んだり、短刀を研いだり、子供を追い散らすために、怒鳴ったり喚めいたりしていた。
『何事だろうか』若者は不審に思った。
犬はまだ撲殺されたばかりらしく、鼻面に
「は、は、はッ。驚くな、御馳走するぜ!」
支那服は筋張った顔をてらてらさせて笑った。「若いの! よく寝ていたな。赤犬だ。頬べたが千切れるほど旨いぞ!」
「よう、出来た。誰れが
逞くましい体格の黒眼鏡が、濡板と、研ぎすました短刀をひっ提げて這入って来た。そして抛り出した濡板の上に、短刀を突っ立てた。
「馬鹿! 貴様だよ」支那服が罵り返えした。だが、親しい間柄だと見えて、
「怖気づいたか」
「馬鹿ぬかせ!」
と、二つ三つ言い争った揚句、支那服が濡板の上に犬をひきずり上げた。ふと、黒眼鏡が、若者に気づいて、
「よう、起きたな。何処から流れた」と、親しみ深い笑いを見せた。
「え、奉天から。どうかお願いいたします」彼は柔順に頭を下げた。
「ほ、腹が減ったろう。今に腹一杯喰わすぞ!」
「え、どうぞ」
「出来上がるまで、上って休んでいなよ」
もうこの時、鮮かな支那服の短刀で動脈を切り開かれた濡板の犬は、まるで洗濯物のように胴なかを揉みしぼられていた。
「どうだ。小気味よく流れ出すじゃねえか。
支那服が、うっとりした眼で、血のついた手を毛だらけにしながら、犬の胴を揉み抜いた。
「うむ。生血だぞ。その度胸で呑み干しちゃあ!」
血がすっかり絞り取られると、犬はぐったりと濡板の上に伸びて、毛並すらも青ばんでゆくように感ぜられた。白い眼をむいて、黒ずんだ昆布の
水で手と短刀を洗い清めると、垂れさがって来る袖をまくり上げて、支那服が短刀の鋭い刃さきをずぶりと犬の顎に差し込むと、その握った柄を力一杯に、しかも見事な手つきで尻のあたりまで切りさげておいて、その刃を逆に巧妙に使い分けて皮膚と肉のなかに差しいれて、見る見るうちに、一匹の野犬を血だらけの肉と皺くちゃな一枚の毛皮に引き剥がしてしまった。
短刀が血糊をきって、再び閃めくと、腹部に一筋いれられた切目が、ぶくッと内側から押し破れて、一気に********************溢れるように犬の投げ出された四肢の間一杯に流れ出た。と、支那服の手が、その溢れ出た臓腑をかき分けて、胸骨の間に辷り込んで、二三度胸壁を指さきで抉ぐると、綺麗に二つの肺臓がはがれて、肝臓や胃袋などと一緒くたに濡板の上に掻き出された。そして大腸をたぐって、その最後の部分に刃がはいると、見事に肛門から切断されて、一抱えほどの臓腑が、ずるずると濡板を辷って、血を絞り捨てた同じ穴へ雑作もなく落こってしまった。その上に、支那服が砂を後足でかぶせてしまうと、もうすっかり食慾を唆る肉塊以外の何物でもなかった。
大腿部の関節に、短刀の刃が食い込んで、骨と刃物の音が軋むと、ぼろりと訳もなく肢が完全に離れた。ここまで一気に、見事な冴えを短刀の刃さきに見せて、料理つづけて来た支那服が、その肢を黒眼鏡に投げつけると、
「おい! 骨をはずせよ!」と、始めて怒鳴った。
「よし、手伝おう」こう叫ぶと黒眼鏡は、始めて支那服の使い動かす刃物から眼を反らした。そして『ふうーッ』と、感嘆の吐息をついた。虱をつぶした男と、大連から来た青年が、水を汲んだり、薪を拾い集めたりしていた。
またしても、近所中の子供が、木の枝によじ、窓にぶらさがって、あるいはドア一杯に押し寄せて、好奇心に燃える眼を瞠って、この野人達の獰猛な料理に片唾をのんでいた。
「うるさい!」
ふいと、出し抜けに支那服がこう叫ぶと、叩き切った犬の首を、子供の群に力一杯投げつけた。
「わあッ!」
子供たちは、一目散に逃げ散った。そして臆病そうに、この光景を遠巻きにした。
「犬殺し」
と、口々に罵りつづけていたが、やがてその怒罵が「お坊さんだ! お坊さんだ!」と、囁き声にかわると、安心しきって、またしても子供の群が、坊主と一緒にドアに溢れ込んだ。坊主が、そこに現れる前に、癇癪の方がさき走って来たような具合に、坊主はその無精たらしい面をドアに覗けないうちから、
「無茶だ。無茶だ。まるで畜生道だ!」と、喚めき込んで来た。
「出て行け! 出て行け! 出て行って貰おう。お前たちを一刻もここにおいておく訳には参らぬ」
お坊さんは劇しい逆上で、息切れがしてしょうがないように、眼と鼻と口で一緒くたに息を吸い込んだ。
「ふ、ふん……」
支那服がお坊さんの袖の下でくすりと笑った。
「まるで餓鬼畜生だ。飼犬を殺して、あろうことか、この尊い仏地を穢して煮て喰おうというのだ。浅間しい畜生道の仕業だ。お前等のような堕地獄の
黙って骨をはずしていた黒眼鏡が、
「喧ましいわ! 糞たれ坊主!」と、ふいに喚めき唸めいたかと思うと、握っていた骨を土間に叩きつけた。「糞、豚小屋みたいな空屋に俺たちを叩き込んで置いて、手前は寄附を
「よし。貴様、よく覚えていろ! このわしの手に仕末ができなければ、ちゃんと警官がある。きっと追払ってくれる。追い出さずに我慢がなるものか!」
「おお! やって見ろ! 野良犬の替わりに、こんどは手前の番だ! 濡板に這いつくばって後悔するな」
血だらけの短刀が、支那服の手からさっと閃めいて、壁の腰板をぐさっと突通した。坊主はぴょこっと頭をかがめたかと思うと、そのまま逃げ出してしまった。後も見ずに!
坊主は、その後再び無精髭を覗けなかった。
大連から歩いて来たという男は、ロシヤ人をさえ見れば、女の臀に見惚れるように、その憂鬱な瞳に、憬がれの閃めきをちらつかせた。
彼は大連から飲まず喰わずに歩きとばして来て、その惨憺たる苦労にも懲りずに、まだこれから、地図だけで見ても、牛の
また彼はどこかで、いつ習い覚えて来たのか知らないが、『ボルシェビキイ』だの『カリーニン』だの『ブハリン』だの、または『イリッチ・レエニン』だの、それから『ハラショ』に『スパシーバ』ぐらいの露西亜語を、支那語と一緒くたに使いまくって、得体の知れない気焔を、誰れかれの差別なく、強慾な主人をでも、生れ落ちた時から馬小舎の悪臭から抜け切ったことのないような馭者、また何処でどう一日一日を喰って行くのか、まるで見当のつかないような素足の露西亜人をよく掴まえては吹っかけて、『ボルシェビキーは
露西亜人たちは、その野放図もない胴体で、ちょっとばかり力を入れれば、押し潰れそうな手製の貧弱なテーブルを股の中に抱き込んで、しかも雀の涙ほどのウォツカの
『大連』は全く
若者はこの『大連』がそういう途徹もない量見と、気狂い染みた情熱をもっていようとは夢にも知らなかった。
第一大連は、若者が豚小舎みたいな宿泊所に辿りついた時に、虱を潰していた男が、痴呆症みたいに二日三晩も寝通したと言ったし、その上支那服が野犬を
其彼に、こんな気狂じみた情熱があろうとは! 若者は夢にも知らなかったのだ。
黒眼鏡が酔いつぶれる時に、きまってあげる『オダ』に依れば、彼はどうにもしようのないやくざ者で、人の女房と姦通して、おまけに亭主の頭の鉢を金テコで打破って、無期徒刑を喰ったのだが、御大典のおかげで、二度と出られる筈のなかったこの社会に舞い戻って来たという札つきの『金スジ』だった。それにまだ懲りずに、彼奴はそのやくざを自慢の種にして、この人生を金テコでぶちのめすような滅茶な調子で、押しまくって生きようとするのだ!
その日は暑かった。太陽がカッと照らしつけている表へ、女の毛を投げ出せば『じじッ』と燃え上ってしまいはしないかと思われるほどだった。
若者は何処をほうついても仕事がなかった。それで彼は飢え死する覚悟を決めたような悲痛さで、癇癪腹をかかえて宿泊所に舞い戻ってはね転がった。すると、時計の直しが見つからないで剛腹をかかえ込んだ、
そうだ。若者が流れ込んだ時に、この虱を潰していた男は時計屋だった。
この男は時計の修繕を拾いながら、それで世界を流して歩こうと云う、また滅相もない野望をもっているのだ。この時計屋の話によれば、可愛いい女房が、のびたうどんみたいになって、あの世へくたばった日から、店を畳んでしまって、その途徹もない野心を、学生鞄のなかにネジ廻しや、人形の靴みたいな金鎚と一緒くたに納い込んで、もう五年この方流浪しているのだと云う――。この男のその気持はまるで解らない。支那服は雑作もなく(なあに、女房の死霊に、魂をあの世へかッさらわれたのさ。それでフヌけた訳さ)と、簡単に片付けたが、或いはそうかも知れない。
若者が荷厄介な古行李同然の調子で、自分の体をやけ糞に投げ出すと、びょこッと時計屋が折れ釘のように、起きあがって手を伸ばした。
「若いの! 三銭ばかりないか。腹が減ってしようがないんだ」抜毛のように頼りない声を出した。
「三銭どころか。この通りさ」若者は両手をはたいて見せた。
「そうか」
折れ釘はまたそのまま倒れた。
そしてそれっきりで二人がうとうととしかかった時、絞め損った鶏を飛ばしたような
すると、どうだ!

「いやあッ!」と、魂をさらわれて、豆腐粕みたいにフヌケ切った時計屋でさえも、脂だらけの、はっきり見分けのつきそうもない眼玉を、南瓜頭と一緒くたに、樫の木みたいにごつごつした股倉につッ込んでしまった位だ。
若者はただ、火花のようにカッとした。それでそのまま、焼火箸に尻餅をついたような撥ね上がりかたで、闘犬みたいな唸り声をたてて黒眼鏡に夢中で飛びかかった。それまではよかったが「うぬ!」と、相手が短かく喚めいたと同時に、彼はドアの外へ右から左にそのまま吹ッ飛んで、雑草のなかに********ぶざまな格好で丸まってしまった。そして気がついた時、若者は焼火箸を尻の下に敷いた時よりも、もっと素迅い動作と、地球の外へ吹ッ飛ぶような覚悟で遁げ出した。一体どうしたというのだ!
正念寺の門前には、露西亜の酒場があることに変りはない。
だが、今日という今日こそ『大連』は、カルバスの元も子もすっかり綺麗薩張りと、ウォツカの酔いとひっかえてぐでんぐでんに酔払っていた。
「タワリシチ!」こう怒鳴ると、脂っぽい針松の木椅子を蹴とばして、彼は鉄砲玉のように吹っ飛んで行く若者を、かっきりと釘抜きみたいに抱き留めてしまった。
「飲め! タワリシチ! 飲め!」
彼は漬菜のように度肝を抜かれた若者を、わ、は、はッ、わ、は、はッ! と牛の舌みたいな口唇を開いて笑い崩れている豚の尻みたいに薄汚いロシヤ人の群のなかに突き飛ばした。
「
「ボルシェビイキ、ハラショウ!」
その薄汚いロシヤ人が、一斉に手を求めた。若者はこの毛だらけの、馬の
大連はもう仕末におえない程酔払っていた。
「飲め。畜生! 飲め。俺は自由を愛するんだ。俺は自由の国ソビエット・ロシヤを誰よりも愛するんだ。糞! いいか。よく聞け、俺は。俺はだ。家風呂敷みたいなロシヤで、自由に背伸びをして生きたいんだ。いいか。さあ、若いの飲むんだ!」
若者はすっかり煙に巻かれてしまった。が、また彼奴は彼奴で、性根の据らない小盗人みたいに、たったいまはじける程に蹴とばされた睾丸のことも、鉄砲玉のように遁げ出したことも、すっかりけろりと忘れてしまって、酔払った大連が差し出すウォツカを呷り始めたのだ。
そして直ぐに、大連の酔いに追い着いた。
「そうだとも!」若者は出し抜けに叫び出した。何がなんだか判らない癖に、彼はよろめく脚を、そこいら中の露西亜人の長靴や、破れズボンにぶちつけながら、
「そうだとも! 兄弟。ふん、浮草みたいに何処をうろつこうともだ。いいか! 根なし草じゃあるまいし、ちゃんと住み心地のよさそうな土地に根をおろそうてな心構は、ちゃんと、なあ兄弟、しっかり握っていようじゃねえか。馬鹿にすんねえ! 間抜け奴。一体どこの国の土地がよ、この俺の口を食いつないでくれたんだ。へん。立ン坊じゃあるまいし、ちゃんと腕があるんだ。俺の腕を知らねえか。左官の藤吉を知らねえのか。この間抜け露助奴!」
彼は酔った。怒鳴る本人すら訳の解らない啖呵を吐き出しながら、顔中を赤貝みたいにむき出して、笑い崩れるロシヤ人のテーブルを泳ぎ廻った。
『若いの』は左官だったのだ。彼がステッキに結びつけていた風呂敷は、コテとコテ板の商売道具だったんだ。その左官が黒のよごれた詰襟の洋服と、破れ靴で流れ歩いているんだが、それは全く二目と見られた
植民地の風習というものは何故に、こうもいなせな職人の風俗を、
だからこそ、支那人に内地人の労働力が、邪魔っけな
怒鳴るだけ怒鳴ると、左官も大連も、ゆで上げられた伊勢海老のように、曲がるだけ頭を股倉に曲げ込んで、ぬるぬると吐き出された肉片や、皿からこぼれ落ちたスープに辷べる土間に坐り込んでしまった。
この死屍みたいに酔つぶれた酔どれを眺めると、赧ら顔の酒場の亭主が因業な本性を出して、不気嫌な声で怒鳴り出したものだ。まるで病み呆けた野良犬を追いまくるような汚ならしさで、支那語と露西亜語で喚めき立てた。商売気を離れると、こうも因業な表情になるものか、全く不思議な位だ。
「
牛のように喚めき立てた。古綿をかぶったような髪の毛の小娘が、少しでも手をゆるめると尻の穴でも嘗めかねないほど、嫌に曲がりたがる酔どれの首筋から両手一杯に、二人の洋服の襟を引きちぎる程引きずり出していた。
「お帰りなさいな」
小娘はそう云っているに違いなかった。娘という者は、強悪な親爺みたいに、獣のように悪態を吐く筈がない。
娘が少しでも、油断すると酔どれは自分の尻を嘗めようとした。もう何んとしても、彼奴等には、海泥のように性根がないのだ。
ウォツカの雫で濡れ放題のカウンターを、その
「
と、たんまり儲けたことは忘れて、支那語で酔どれをケン飛ばしかねない権幕で喚めいた。
大連は彼の愛するロシヤ人から、こんな待遇で酬いられたことを知ったら最後、シャベルでロシヤの国土を地球の外へはね出しかねない調子で地団駄踏んで口惜しがるに違いない。
(彼奴は、白のスパイに違いないのだ!)
二人の酔どれが、眼を醒ました時には、酔払わない前と同じように、真昼間だった。太陽が焼けていた。風がちっともなかった。ただちょっと頭がふらついた。――この辺から少し昨日と変っている。汗ばんだ肌が、砂利でこすったように痛かった。咽喉が乾いた。
何んだか少し世界の角度が狂ったような訝かしさを、二人は
周囲の記憶が、少しもなかった。――無理もない。彼等は宿泊所の畳の上で目醒めたのだ!
彼等はすっかり時の経過と、生命の流れの一部分を忘却していたのだ。彼等の二人は、握手をかわした馭者や、乞食みたいなロシヤ人によって、タワリシチの礼をつくすために、この宿泊所へ運び込まれたことを少しも知らなかったのだ。若しも大連が、そのような親切な介抱を、彼の愛するロシヤ人によって受けた事実を知ったならば、彼は骸骨になってでも東支鉄道の線路を伝いつづけて、彼の愛するロシヤに突走る覚悟を決めたであろう。
左官は一度目を覚ましたが、また寝こんでしまった。はっきりほんとに眼を覚ましたのは夕方であった。
大連がいなかった。だが、そんなことは少しも不思議ではない。腹が減って仕方がなくなると、誰にしたって夜鷹のように餌を拾いに出掛けなければならない。だが――一つ驚いたことに、大連のかわりに、黒眼鏡がすぐ傍で、
左官は頬ペタから、骨が抜け出るほど青くなって、そのまま縮んでしまった。
「おい! 若いの。眼が醒めたか?……ところでお前は馬鹿だな。何んで昨日は俺にむかって来たのだ」
そら! 左官はまるで針鼠のように震えあがってしまった。黒眼鏡は唾の足りない口から、パン屑をぼろぼろこぼしながら、ゆっくり責め抜こうとするのかも知れない。
「時計屋はな。お前。魂のかわりに、こんどは骨ぐるみさらって行かれそうな声をたてて***********おとなしく待ってらあ、手前にも*********有りつかすんだったのに! 馬鹿だなあ」
左官は驚いた。こんな筈である道理がない! 彼はそろそろ首を伸ばした。
黒眼鏡は何んとも思ってはいないのだ。かえって彼のあの気狂い染みた突嗟の気持を、まるで憫笑しているのだ。でも、左官はさように遺恨も含まずに、憫笑する黒眼鏡の気持がまるで判らないと考えた。
「ほら、喰え!」
どたりと引き裂いた黒パンの塊を、彼の頭を
「この男はまるで、俺たちを歯牙にかけていないのだ。まるで太平洋のような度胸だな」
単純で感じ易い左官は、涙にあふれるような感動を我慢して、黒パンの塊に手を伸ばした。
「どう考えても、黒眼鏡の気持は判らない」
左官は自分の
尊敬の念が、
支那服は野良犬の塩焼きと、一升ほどの
「支那服と黒眼鏡は、一体どうして食っているんだろう?」
彼は不思議に考えた。だが、二人の存在は左官の貧弱な想像力では、壁坪を測り出すようには、雑作なく想像することはできなかった。そんなことを考えているところへ、当の支那服がのっそり帰って来た。油だらけの新聞紙をほごすと、焼きたてのロースビーフが、碁盤のように転がり出た。素晴らしい匂いが鼻から尻の穴へ抜け出るようだった。
「よう! 素敵じゃあねえか」
この二人はいつでも肌身はなさず短刀を身につけていると見えて、黒眼鏡は食いかけの黒パンの破片を抛り捨てると、早速に支那服と向い合って短刀の刃でロースビーフの角を切り落して、頬ばり始めた。口中を油だらけにして、旨そうに眼玉を白黒させた。
「黒パンに、生胡瓜か。見っともない真似はよせよ! まさかにどぶ鼠じゃあんめえし……」
支那服が、皮肉に黒眼鏡を笑殺した。
「糞! 抜かすな」
黒眼鏡はそんな皮肉に応酬するよりも、咽喉一杯に、雑巾のように押し込んだビーフに
ふと、支那服が左官を見つけて、思い出したように言った。
「おい! 手前は昨日、ほら門前のロシヤ人の酒場で酔いつぶれたろう。大連はお前、たった今、領事警察に引っこ抜かれたぞ! ここらの『白』は皆んなスパイだ。滅多なことは
だが、左官は皆目、その支那服の言った意味が解らなかった。
「ほう。社会主義者だったのか。彼奴が」
黒眼鏡が興味深く訊き返えした。
「社会主義者だって、何れ大したもんじゃああんめえよ!」
支那服も黒眼鏡も、それっきりその話をやめてしまった。そして喰うだけ喰うと、二人は連れだって、暮れかかった街に出て行った。
「まるでこっちとらとは、泥亀とすっぽんほどの違いだ。豪気なもんだ」
左官は、暗くなった部屋のなかで、ビーフの食い残しをつまみあげながら呟いた。
彼等と擦れ違いに、時計屋が
「骨ぐるみかッさらって行かれそうに、********!」
左官は黒眼鏡の言葉を思い出して、こみあげてくる笑いを殺すことが出来なかった。
二人は彼等の喰い残しのロースビーフに噛りついたのが、御馳走の最後だった。
それっきり支那服も、黒眼鏡も帰って来なかった。無論のこと大連も、それっきりだった。――
時計屋と左官の上には、がらりと生活が向きをかえた。二人の上には再び、あのにぎやかな生活が帰らないのだ。零落と流浪の絶望が眼に見えない手を拡げ始めた。
左官には、大連の情熱に満ちた夢がなかった。
時計屋には支那服の、あの度胸がなかった。
坊主が怖気づいていた、黒眼鏡と支那服がいなくなったので、乾干になりかかった時計屋と左官を取っ掴まえて、日毎に怒鳴り込んで来た。
「出て失せろ!
坊主はまるで青鬼のように、半分死にかかった人間の前でたけり立った。
「人間は死んだら最後、お寺に来るより外に仕様があるか。ちょっと一足さきに来ただけじあないか!」
時計屋が最後の声をふり絞って、怒鳴り返えした。
坊主はそのまま身震いすると、
突然に、殺人事件が惹き起された。
この街一流の日本人商館が、二人組の強盗に襲われたのだ。被害者は薬種商だった。手広く密輸入をやっているという評判が、この街の公然の噂だった。
強盗に反抗した亭主は、短刀の一撃で胸を抉ぐられて、金庫にしがみついたまま即死した。***店員たちが縛りあげられた、その眼の前で
店員や女房の証言で、その犯人は日本人であることに間違いはなかった。犯人は踪跡をくらまして、まだ逮捕されなかった。
乾干になって、もうここ一二日の生命が危いくらい弱り抜いていた左官に時計屋は、寝たきりなので、その事件を知る筈がなかった。
領事警察の刑事隊が、変装して用心深く小半日も張り込んだ結果、とっつかまえた代物は、自分で自分の身体さえ支え切れないほど弱りこんだ、この二人だった! この左官に時計屋が、強盗殺人強姦の犯人であるとは――何んと立派な手柄であることか!
坊主は黒い門柱から、無料宿泊所の看板をひっぺがした。そしてまるで土方のように、それを踏み破った。
こんな慈善ぶった看板で金を強請ろうとかかったことが、そもそもの誤りなのだ。
お天んとうさまに唾を吐いて見ろ! そっくりそのまま手前の坊主面に戻って来るんだ。
――一九二七・九・三――