北から吹く風が冷たく湖上を亙つて来た。浜名湖の波は白く一様に頭を上げて海の方へ逆押しに押し寄せる。
四月の上旬で、空の雲はちぎれ/\に風に吹かれて四方の山へひらみ附いてゐる。明るい光が空を滑つて湖上に落ち、
「新居へ行く船はまだ出ないかね」と声を掛けると、
「さうさね、今そこへ行つたばかりだがね、二時間ばかりは待たぢやなるめえよ」
「困つたな、何とか他に工夫は無いもんかな」と立つてゐた二人は顔を見合せた。
「一体何処へ行くんだね」と、
「なあに、伊良湖の方へ行くんだがね、新居よりほかに行く途はないかね」
私は風に吹かれて思ふやうにならない地図を皺くちやにしながら、
「
「そりや好い。何処でも行けさへすりや結構だ、渡して呉れるか」
「ぢや、ちよつと待つて、おくんな」
船に残つてゐた一人の男が、船から出て橋を渡つて何処かへ見えなくなつた。
私は又地図を出して、行くさき/″\の様子を訊いた。船頭は太い指を地図の上に出して色々説明して呉れる。
「伊良湖十三里と云つてね、この先の浜伝ひに行きせえすりや、嫌でも行つちまうだ。さうさな、今夜赤羽根ぐれえまでは行けずかな」
「宿屋はあるかね」と、傍に立つてゐた、東京生れのS君が不安さうに口を入れた。
「宿屋つて、どうせ
「大丈夫だ、安心してゐたまへ。どんな処だつて好いぢやないか」
「さうもいかない」とS君はちらつと私の方を見て笑つて言つた。
間もなく一人の男が帰つて来た。私達はその舟へ乗せられた。
藻草と
島と湖水と、その背後に迫つてゐる木立の深い山々の上を遠く隔てゝ、一列の雪の峰が
「船頭さん、あの白い山は何て山だね」
「あれかね、何でも信州の山だが、名は知らねえね」
冷たい風はあの山の向ふから吹いて来るに違ひない。見やつたばかりでも皮膚に粟が出来る。私はまだ雪の消え尽くさない、高原地の黄に枯れた草原を思ひやらずには居られなかつた。花も咲かず、冷たい風がひとり、
船は横波を受けながら、一条の灰色した砂洲を左に見ながら遅く進んで行く。その一条の砂洲が長く延びて、海の波の打ち込んで来るのを防いでゐる。沖へ沖へと吹く風で、寄せ来る波も高くはない。その砂浜の上へ低くまろんで悲しい音を立てゝゐる。遠い沖の果てには薄白い雲の群が、もや/\湧き上つて、勢よく伸びるでもなく、消えるでもなく、地平線上にたゝなはつてゐる。
船底は折り/\砂地へすいついて動かない。船頭は力を入れて無理やり棹で出した。砂洲と砂洲との切れ目は水が浅く流れて、打ち込んで来る海の波と打当つて、その度毎に両岸の砂がかけ落ちる。二人は外套の襟を立てゝ船の中に身を円くしてゐたが、その砂浜の一端へ船が乗りかけて行くと、勢好く立ち上つて、砂地へ飛び下りた。
見渡すと眼前は一望の砂原だ。処々に小さな砂丘が出来て居て、その一つの蔭に十五六人の漁師等が網を引き合つて、
「ひどい砂だな、埋つて了ひさうだ」と、云ひながら一人の男は砂地から身を起して、一層近く砂山の下へ寄つて行つた。と、その時、ざあつと音がして、一群の砂が、勢好く砂丘の坂から崩れて来て、いま腰をおろした許りの男の上へ降り注いだ。
「やあ」と声を上げたが、見ると、その男は逃げ損ねて、腰から下と、右の半身とはその砂の下になつてしまつた。左手と頭とだけを動かして、抜け出ようとするが動けない。「出して呉れえ」と大声を挙げて呼んでゐる。
「見ろ、そんな処へ一人で行くせえだ、馬鹿」と、いひながら一人の男が立つて、その男の頸と左手へ手を掛けて、引き出した。右肩から下は一面の砂で、顔半分も砂がまみれ付いてゐる。「なんてざまだえ」と、皆笑つてゐる。その男は自分でも笑ひながら、右手の指でしきりに耳の砂を掘り出してゐた。
砂塵の雨はしつきりなしに上から横から降りかゝつて来る。私達は風に背を向けながら横に歩いて行つた。ちよつと立ち止まると、前後左右を飛ぶ流砂の響、ひゆつ、ひゆつと寂しい鋭い音を立てゝ飛んで行く。見る/\足の爪先きに砂が高くなり、足を上げると、足跡が直ぐ半ば消えて細長い形になる。風に向かつては殆んど眼口が開かない。
二人は小さな丘の蔭へ来て、頭だけ出てゐる
細かな目にもとまらないほどの無数の砂と砂とは、今空中に打ち合ひ擦れ合つて寂しい微妙な楽の音を立てゝゐる。何が寂しいといつて、この無数の流砂の立てる自然の楽の音ぐらゐ寂しい便りないものはなからう。ひゆつ、ひゆつと何ごとかを告げるやうに空中に鳴り渡る。夕闇の中に鳴く
私達はまた立ち上つて、黙つて歩き出した。小さな藪や草叢が砂に埋まつてゐる。見上げると砂丘の頂に黒い人影が見える。仰いで眼を見張ると、石地蔵が赤い前垂を掛けて立つてゐるのであつた。
落着いて海を眺める気にもなれなかつた。行く先きを見渡すと、遠く砂丘が連続してゐる。風を避け避けして砂丘の間を択んで小走りに走つてゐた。縦につゞく砂丘の間では砂の降るのも少く、草が高く伸びて、通つて来た後を振返つて見ると、二条の足跡が長くついてゐる。
小高い丘の上へ出て遠く見渡すと、白ぢやけた砂浜に、浪が一せいに打寄せて来て、白く砕けてゐる。岬の果ての方は薄曇りがして、はつきり見極められない。伊良湖の十三里、まだ私達の行く先は遠いといふやうな感じが胸に起つて来た。
単調な砂丘の間を歩いてゐる中に、頭も足も重くなつてしまつた。風は稍弱つて来たが、まだ吹き止みさうにも思はれない。少しの間海岸を離れて陸地続きに半島へはいつて行かうといふので、砂山を馳け上つて、右手の麦畑の間から浜名の村へ入つて行つた。
湖水はまだ遠く波を見せて、雪の峰は微に
白須賀の駅は北へ向つた坂路の上に立つてゐた。中仙道の駅々に見る荒廃の姿も見せず。軒並の商家は相当に
町の中程の宿屋へ入つて、少し時刻には早いけれど、昼飯を喰べて行く事にした。中庭に沢山の庭石を並べて、姥桜の花が散つた後に青く小さな実が見えてゐた。
「これから先きには、まあこんな宿は無いでせうよ」
S君はまたこんな事を言つた。
「いつそ此処で泊らうか」
「冗談ぢやない。さう今から予定を変へられて耐るもんぢやない」
「ぢや、赤羽根まで行つて、木賃宿へでも泊らうか」
「随分意地が悪いな」
「だつて仕方がないぢやないか」
二人は砂地の疲れを十分癒して、ゆつくり休んでからその家を出かけた。
東海道を伝つて、町の出端れから地図をたよりに右へ折れて、狭い小径を歩いて行つた。今日は小松原といふ村に競馬があつて、馬頭観世音の縁日があるといふので、この近在の村々の人は皆同じ道の上を賑やかに往き来してゐた。
路傍に伐り倒してあつた樫の木の木材の上へ腰をおろして休んでゐると、前を通る人が皆言葉をかけて、頭を下げて行つた。猟銃を肩にして獲物袋を
道とも思へない、草藪の間や砂山の赤禿た上をよぢ登つて、小松原村といふ村へ来た。一面の人だかりで、露店が農家の軒先きに幾つも開かれてゐた。砂ぼこりを浴びた女の姿や、裾をまつ白にした女たちが、うよ/\集つて何か喰べてゐた。競馬のある処は、固く柵を結つて、中央の小松の丘に審判所が出来てゐた。砂塵を巻き上げる風の中を、白や黒の馬が半ば狂したやうに飛び廻つてゐた。
半時間ばかりも見てゐるうちに、日が西に廻つて、冷たさがその光の中を
此方の方へも帰つて行く者が断え間なく続いてゐた。小松原からつゞいての村は高塚、その次ぎは
「赤沢には有つたけえど、もうこの先きには無えね。いつそ田原まで行つちやどうだね、俺等も田原の直ぐそばの
「田原まで何里ぐらゐあるの」
「まあ二里ぐれえなもんだ、なに雑作無えさ」
「赤羽根まで行けないかね」
「どうして、まだ五里もある」、と
「田原にや宿屋があるかね」
「あるとも、県道端の立派な町だ、何軒でもある」
そこで、田原まで歩くことにした。
同じ様な樫の樹の村、椿の村、麦畑の間と草原とを通つて行くと、後の方から、ほうい、ほういと掛声しながら馬を飛ばせて二三人づつ追ひ抜けて行つた。
樫や椿の常緑の森は到る処にこんもりと茂つてゐた。その間をつなぎ合せる枯草の野は風に吹きまくられて乾いた土と共に草の葉が飛ぶ。坂路を登つて丘の上に出ると、不意に眼の下へぱつと海が展開した。深碧の波は処々白く破れて、暮近き冷たさが広いその水の面にも漂つてゐた。空と水とを劃する力強く引いた一線、目醒むるやうな心持になつて、私達はその線上に眼を走らせた。今朝見た薄白い雲はもう消えてしまつて、水と接する空は、薄黄色に光つてゐた。柔かなその光は見てゐる者の心をも溶かしてしまふ。
連立つて来た若者の一群はもう先きへ行つてしまつた。私達もまた海と分れて森の中へはいつて行つた。道は西へ西へと向つて、小松の群立つてゐる赤土山へさしかゝつた。日の落ちかゝる遠い先きの方に、尾州の山が遙に見渡された。
ちらつ、ちらつと、金色をした水が、遠く行く手に当つて閃くのが見える、「あゝ知多湾だ」。私は思はず振返つてまた後の方を見た。遠州灘は遠く空の下に紺青の色をこして線を引いてゐる。私達はいま寂しい半島の奥へ奥へと歩いて行つてゐるのであつた。
もう日は沈んでしまつたが風は止まない。半島を吹き越えて海から海へと渡つて行く。磽角な赤土山はその風に吹かれて土煙が舞ひ起る。何処か谿の方で馬の
薄を刈り集めて塚にした蔭に、五六人の子供が、わい/\何か言つてゐた。「田原へは真直ぐに行けば好いか」と言葉をかけると、黙つて此方を見たきり何とも言はない、もう一度繰返して訊くと、その中の一人がこつくりをした。「何里ぐらゐある」といつたが、また黙つてゐる。「ええ、何里ぐらゐあるんだえ」と稍強くいふと、「知らねえ」と先の児が言つた。
風に背を向けてマツチを擦つて煙草に吸ひ付けた。
川土堤を一里も来たかと思ふと、向ふから荷を背負つた男が杖をつきながらやつて来た。路を訊くと、もう直ぐ先きが県道で、それから半里も行けば田原の町だと教えてくれた。
間も無く電線の走つてゐるのが目にはいつた。白い県道の上を月の光の下に、コト/\音をさせながら荷馬車が通つて行く。私達はほつと息をついた。県道の右手に当つて低いけれど山が見える。
田原の町には電燈が明るくついてゐて、賑かに人が往き来してゐた。草鞋をぬいで宿屋の二階で二人が向ひ合つた時は、生き
風と争つて一日の旅は頭を重くしてしまつた。うと/\眠つてゐると、夢の中で、流砂が降り、風が鳴つてゐた。暖かな半島の旅を予想して、外套だけは雨の用意に着て来たが、手袋も持たず、
赤羽根へ出て「裏浜」を廻り、伊良湖村まで行くには八九里あると宿の番頭が来て話した。「何なら赤羽根まで人力でお出でになつては如何です、此処から四里の間は車がきゝますから」と付け加へた。
人力車で赤羽根まで行くことにした。
昨日ほどではないが、風が冷たく吹いてゐる。昨夜は月の光でぼんやりと、海の向ふかと思はれてゐた[#「思はれてゐた」は底本では「思はれてるた」]山影が田原の町の背後を繞らしてくつきり見えてゐる。知多湾の水は、その山の麓を切れ込んで、町の端まで蘆が生えた浅瀬になつてはいつて来てゐる。
車は県道の上を一里ばかり南へ走つてから右へと折れ込んだ。背後から追掛けて来る風は、半島を吹き越えて海へ海へと落ち込んで行くのだ。道に沿うて新墾地の寂しさを見せてゐる板小舎や、掘返された草土や、まだ鎌のはいらない藪や、松の樹の切り倒されたのや、それ等が続いて居るばかり、雲雀一つ鳴いてゐない。処々に
海へ、海へ、はやく寂しいこんな荒地を抜け出して、その浜辺へ立つて見たい。狂ひ寄せる岸辺の波と、深い静かな物思はせる海と、力強いあの空と水とを劃する一線に深く眺め入つて見たい――車の上で話も出来ないので、私はこんな事を思つて行つた。
二時間ばかりで赤羽根へ着いた。細い道の両側に二三軒づつある家が、大方戸を閉めて、人が居るとも解らない。何処かで火に当てゝ呉れる家はないかと思つて捜したが、何処にも見当らなかつた。重い足を引きずりながら先きへ先きへと歩いて行くと、一軒戸が開いて炉に火が燃えてゐた。二人は前後を考える暇もなく駈け込んで当てゝ貰つた。
「いつもこんなに寒いのかね」と訊くと、「いいえ、こんなことあ寒中でも御座んしねえ、珍らしいことだ」と云ひながら松の葉をどつさり炉へ投げ込んで呉れた。
「宿屋てのは、何処にあるんだね」
火に手を翳しながらS君が訊いた。
「宿屋つて別にねえだが、わしらの処でも頼まれりや御泊めするだあね」
茶を汲みながら[#「ながら」は底本では「ながな」]二十ばかりの男が言つた。二人は、顔を上げて家の中を見まはした。煤けた板戸の向ふでぶん/\絲を繰る手車の音が聞こえてゐた。炉の傍から二階へ登る
「海は」と私は考へを転ずるやうに問ひかけた。
「海かね、海はすぐこの下で御座んす、此前の森の下が浜になつてゐるだね」
「漁はあるかね」
「いゝえ、かう荒れちや、からきし駄目だね。――これから何方へ行きなさるんだね」
「伊良湖へ行くんだがね、何里ぐらゐあるんだらう」
「伊良湖かね、五里ぐれえあるかね」「道は迷ひさうな処は無いかね」「道かね、道や何に、この前を真直ぐに行つて、なんでも左へ左へと海を見て行きや大丈夫だね、何なら浜へおりて、なるつたけ水際々々と歩いて行きや楽に行けるだね」
「こんな方を通る者はあんまり無いだらうな」。S君は口を入れた。
「さうさね。たいてい県道を
二人はその家を出て
並木道を出抜けると、前は一面に開けて、空は明るい光に輝いてゐた。雲が白く靡いて陸地の果てを劃して居るやうに思はれる。ちよつと立ち止まつて耳を傾けると、ざぶん/\と波の寄せる音がする。
風は次第に吹き止んで、日は暖くぽか/\と照つて来る。池尻、若見、
和地の浜は危い岩が乱立してゐる。波が烈しく打当つて来る。その間をくゞつて
「毒ぢやないかえ、え、あたりやしないか」といふと、
「馬鹿言はつしやるな、あんべえ悪い時にや皆この牡蠣を食べるだ、それ、わんら食へ」
一人の小さな女の子に投げてやると、急いで拾つて、長く伸びた爪で肉を剥がしてつるりと口へ入れてしまつた。
こは/″\ながら一つ貰つて、口へ入れて噛んだ。甘辛い鮮かな味はするけれど、気味は悪い。やうやく呑み込んだ。
砂が深くて膝まで入りさうだ。きやつ、きやつと、何か大騒ぎをしながら波の中へはいつたり出たりしてゐる
眼前に展開せられてゐる遠州灘、雲の峰はまだ起らないが、燻し銀のやうな色をした雲が水の果てにまろび光つてゐる。力強く引いてはあるが、柔かみのある空際の一線、午に近い日の光と紺青の海とを劃して、思ふまゝに伸びやかに走つてゐる。広くはあれど、小さい無数の変化を見せる水の面は、複雑果しない楽の音を聞くやうに、いかにも豊かな温かい感じを与へる。深いこの碧の水に抱かれて、何処へなりとも身を運んで行つて貰ひたい。波と共に踊りまはり、遊び戯れて、飽くことなき自在な生活を送りたい。
私は、山頂を劃して来る、あのなだらかな、而も鋭く澄んだ一線に対するときは、身が引き締まり、乱れた心に統一を与へ、取り留めなき自分をはつきり引とゞめて、広い宇宙に自分の立つてゐる有り場を確かに見せて呉れて尊い悦ばしさを味ふ事が出来た。
けれど、海へ向へば、平かな豊かなるこの海に向へば懐しさが湧いて、躍る胸を押へることが出来ない。固くいぢけて乾からびたやうな形骸の生活、それを脱して飽まで伸びやかな流れ溢れる生活を与へられる。孤疑し逡巡し、骸骨のやうな顔をして互に睨み合つて居るやうな自分の生活から、せめて少しの間でも脱れ出る事が出来る。疑へばこそ人も怪しい影に見える。影と影とが互に歯をむき出合つて、掴みかゝらんばかりに苦しい日頃の生活は、いまこの大きな流動して止まない海の面に対して立つ時に忘られてしまふ。崩れ流るゝ波の一つに我が影を刻んで遠くへ流してやりたい。その波の自在な響を胸にとゞめて、常住の響としたい。からみつき、纒ひつく土着の生活があさましい。流れてやまぬ、海の自在さが求めたい。
流木の上に腰を下して私は黙つて海に見入つてゐた。S君も側に並んで腰を下してゐたが、同じく黙つて一語も発しない。
私達のゐる背後は、一帯に砂の丘をなして、その蔭には樟や竹や樫の一列の森が自らの防潮の林をなしてゐる。その丘の間から牛を連れた男が出て来て、浜辺に牛を放して、自分だけは砂の上へ身を横にしてゐる。牛は波打際をのそのそ歩いてゐるが、波がざぶんと打寄せると、不意に飛び出して、陸地の方へ馳ける、がまた寄つて来て波を浴びてゐる。
日出の岬の海中には巨きな岩が三つばかり波を浴びて立つてゐた。その岩の傍を、掛け声をしながら十五六人の船頭が漁船を漕いで行つた。岬の絶端を向ふ側へ磯伝ひに廻れるかと子供等に聞くと、「どうだか」と言つたきり取り合はない。仕方がないので、深い砂の中をその絶端の下まで辿つて行つた。
岬の鼻は幾十丈もある巨きな岩が、蛙の
引返して岬の頂へ登る径を求めると、砂の崩れ落ちるうねうねした小径が目にはいつた。その径の端にうす紫の
小径を伝つて岬の頂へ出ると、ぱつとした明るい円やかな天地が目にはいつて来た。地平線は、丁度私達のゐるあたりを中心として描き出した孤線の一端のやうに、周囲を見渡して尽く海だ。只眼前の海上に、山かと思はれる大きな島が浮んでゐる。人家の白い壁が、日に輝いて見える。神島だ。私はこの島から
広い波の面は
二人は
その砂浜を隔てゝ向ふには、短い灌木や、熊笹に覆はれた伊良湖の岬が見えてゐる。
私達はその砂山の横手を砂と共にすべつて水打際まで落ちて来た。浜辺は二つの岬の麓を繋ぎ合はせて、正面は神島と対してゐる。
人一人ゐない此絶端の砂浜を辿つて私達は伊良湖岬の鼻へさしかゝつた。この岬の端が海に沿つて廻つて行けるかどうかと危ふく思つて、岩鼻の上に暫く
「大丈夫だよ君、行けそうだ」。「さうでせうか」
二人は思ひ切つて、此処まで来た次手に伊良湖の絶端を極めようとて歩みだした。最初の内は岩と岩との間を求めて、波の退く暇を待つて、先の足跡をもとめて歩いて行つた。日が次第に西に傾いて、眼前と伊勢湾の水が現はれて来るにつれて、晩潮は急な勢を以て攻め寄せて来た。
巌を飛び越え、砂地を踏んで一二町来たと思ふと、もうそれから先きは草鞋の足跡も犬の足跡も見えなくなつた。はつと思つて振返ると、S君は少し遅れて岩角の蔭に退く波を待つてゐるのか、姿が見えない。
一飛びとんで岩の間に挿まつてゐる流木の上へ跳ると、また崖下の石の上に足跡が二つ三つ残つてゐる。が、それから先は、波が青く淵をなして湛へてゐる。見上げると、崩れかかつた崖の肌が傷ましく出て、ほろ/\と小石が落ちて来る。途方に暮れて立つてゐると、S君が漸く流木の端へ両手をかけて
「先きへ行けませうか」と、不安気に訊く。
「さあ、といつて、もう後方へも引返されさうもないね。夕潮が寄せて来たんだ」
「困つたな」
「いつその事、崖へ上らうか」、「さうですね」
二人は暫く躊躇してゐたが、思ひ切つて私が先きに立つて、岩角を登り初めた。崩れ落ちた砂を踏み固めて足段をつくりながら、両手を岩角にかけて身を運んで行く。
意地悪さうに崖下の波は、刻一刻に高く打当つて来る。白い歯をむき出して、落ちたらば
「まるつきり探検者だね、一足滑らしたらもう最後だ」
「困つたな、山を越すことは出来ないでせうか」
「どうして君、まあ来て見たまへ」
私は岩角から藪の中へ身を入れた。見かけだけは、岩にひらみついてゐる、
岬の沖をギク/\艪の音がして白帆が一艘、湾内から志摩の国の方をさして出て行く、船中の者はおそらく二人を見付けて笑つてゞもゐるだらうと情なくなつた。行く先の方は、幾重も入江が折れ重なつてゐて、容易に果てさうもない。
思ひ切つてまた、砂の崩れる岩角を横に伝つて
向ふの方に砂浜が見える。この先きの方にあたつて海上に山影が浮び出た。曲折した山の懐を一足ごとに注意を払つて、私達が砂浜に降りたのは夫れから一時間程も後であつた。
ほつと息をついて振返つて見ると、波は狂はしき姿をして一層鋭く崖下に打寄せてゐる。
砂浜の遠い先きの方に、漁師の小舎が幾つも見えて、煙が上つてゐる。頭はぼんやりして、足が一層痛くなる。二人はもう語る元気もなく、深い砂の中を辿つて行つた。
砂地が尽きると笹藪が茂つてゐた。その下に道らしい跡がついてゐる。カサツ、カサツと物音がしてゐるので立ち留まつて聞いてゐると、中から熊笹の伐つたのを手に持つて老爺が一人出て来た。
「伊良湖の村へは此道を行けば好いかね」
「あつそれで好いだ」
「泊るやうな家はあるかね」
「さうさなあ、宿屋もあるだが、お前様たちならなんずら、藤原様へ頼んだら泊めてくれずい」
「そりやどういふ家だね」
「もとの村長様の家で、なんでも息子さんが東京へとか行つてゐるだ」
「泊めて呉れるかな」「頼んで
老爺は伐つた竹を束にして背負つた。私は立つて周囲を見廻してゐたが、不図気がつく足許に赤紫の五弁の花が咲いてゐる。
「
「そりや大根の花だ」。「播いたのかね」。「いんね独りで生えたゞ」。
野生の大根の花は其処此処にしほらしく咲いてゐた。老爺さんは竹の束をカサコソいはせながら先きに立つて行つた。二人は後から色々な事を尋ねながらついて行つた。伊良湖の村は、以前は此近辺にあつたのだが、今は半里ばかり先きへ引移つてゐた。住家の跡に井戸だけが残つて石の蓋をしてあるのが幾つか目にはいつた。大きな松の樹の下に碑が立つてゐた。芭蕉の記念碑で、「鷹一つ見付けてうれし伊良湖崎」と
夕日がもう薄れて、波のモオンする響きがうら悲しく磯辺から響いて来る、植ゑ附けたばかりの樟の木山の下を通つて、松林の中で老爺に分れて伊良湖の村の中程へ出た頃は、夕方の冷たさが肌を襲つて来た。
藤原村長の家を、大きな松の樹を目当てに見付けてはいつて行つた。幾度び声を掛けても返事がない。そのうちに主婦らしい五十恰好の人が裏口からはいつて来た。丁寧に来意を告げて泊めて呉れるやうに依頼した。
冷たい水で足を洗つて、大きな欅の角火鉢の据ゑてある前へ膝をおろした。主婦は大きな餅を沢山出して来て火鉢で焼いて喰べろといひながら炭をついだ。
「息子は農科大学へ行つてゐたが一昨年卒業して、直ぐ一年志願兵で入営して、今年帰つて来たが、四五日前
暗くなつてから用事で出掛けてゐた主人が自転車で汗をかきながら帰つて来た。話し好きな、人の好ささうな人であつた。風呂が出来たといふので入れて貰つた。
奥まつた室で、私達二人は寝ながら今日の冒険の話などしてゐると、勝手の方には風呂を貰ひに来た人達が何か高声で連りに話してゐた。
遠波の響きが寂しく聞こえて来る。疲れ過ぎた為めか眠れない。悲しい波の音はドオウ、ドオウと家を包んで鳴つてゐた。