一、小さな幸福
中学の課程すらも満足に
彼は、それだけの給料で、ささやかながらも、見かけだけは堅牢な家庭生活を築き上げていた。彼の郷里である山陰道の農村から、
多くの下級事務員の生活がそうであるように、今村の生活には、一年じゅう何の変化もなかった。毎日時間をきめて、自宅と会社との間を往復すべく運命づけられた機械のような生活であった。しかし、彼は、それを当然であると考えていた。これは、自分の生れない前からきめられていたことで今更らどうにもしようがないのみならず、変化などがあってはそれこそ却って大変だと考えていた。このまま、月給七十五円の事務員として一生涯をおわっても、そんなことは一向彼には苦にならなかった。むしろそれをのぞんでいる位だった。それで結構一人前の生活をしてゆくことができるという驚くべき自信を彼はもっていた。物価が騰貴すれば騰貴しただけ生活費を切り詰めればよい。現在六畳と二畳とで十五円の家賃は、六畳一
この小さな財産の上に、今村の一切の希望は築きあげられていた。郊外のどこかに、六畳一室に三畳くらいの小ざっぱりした家を建てよう、月に一度位は女房とやがてできるであろう子供とをつれて洋食の一皿も食べに出かけよう、年に一度くらいは芝居も見物したい――安月給取の頭の中を毎日のように往来するこうした小さな慾望が、今村には現実の慾望とはならずに、遠い未来の希望として、描かれたり消されたりしていたのである。ことに家を建てるという考えは、幾度び彼の頭の中で
二、吹雪の夜の大都会
夜の十時過ぎ。
けれども、その日は朝から雪で、午過ぎからは風が加わって吹き降りにかわっていた。九時頃には二寸も粉雪がつもって電車もとまってしまった。車道も歩道も街路樹も家々の屋根もただ見る一面の雪におおわれている。時々、自動車が、猪のように疾走して去る外には殆んど生物の住んでいることを暗示させるものは何もない。まるで、大自然の威力の前に、
この
人間は、寒さにいじけ、風に圧せられてよろけかかっているように見える。此の世に希望を失った人生の落伍者が、あてどのない八つあたりの不平と自己嫌悪とに気を腐らして、人生の行路さながらの吹雪道を無目的に歩いているように見える。
しかし、十時の夜勤をすまして
実際今村はお
わけても、今村のほしいままな空想をややもすれば独占しようとするのは、近い将来に彼等の家庭の一員に加えらるべき子供のことであった。彼はそれを男の児として考えて見る。丸々と肥った健康のシンボルのような嬰児はいつのまにか水兵服をつけた五つ六つの年頃にかわる。妻と二人で両方から手をひいて動物園へつれてゆく。何でもすきな
三、奇禍
読者諸君、私は、ここで、厳正な第三者として一言述べておきたいことがある。今村のような環境に生き、今村のような人生観をもっている人生の行路者は果して幸福であろうか? 私は即座に否と答えるに躊躇しないのである。何となれば、彼の頭の中にえがかれている人生と現実の人生との間にはあまりにも残酷な
閑話休題、今村が本郷の通りを真っ直ぐに、上富士前へ出て、横町を左に折れて木戸坂の方へさしかかった時は、もう時計は十一時を大分まわっていた。
あたりに立ち並んでいるしもた家には、軒灯のついているのは珍らしい位なので、道筋は概して薄暗かった。町はずれの夜中の十二時前、しかもひどい吹雪と来ては、よっぽど差し迫った用事のある人でなければ門外へ足を踏み出す気遣いはない。一つ場所に三十分もたっていても、恐らく一人の人間にも出遇うことはないであろう。
こういう寒い晩には、今村の細君は湯豆腐をこしらえておいてくれる習慣になっていた。今村は急に空腹を意識して、熱い湯豆腐を眼の前に想像しながら足をはやめた。その時、彼はだしぬけに、脳天のあたりにひどい衝撃を感じた。非常に堅い物体で力一ぱいかーんと喰らわされたような感じだった。くらくらと
それから何分間たったか、それとも何時間たったかわからない。彼が意識を恢復した時に
とは言え、まるで
彼は世界が急にまっ暗になり、今まで光り輝いていた自分の未来が見る見るその闇の中へ吸いこまれてゆくように思った。
四、拘引
妙な出来事のために不愉快な心を抱いて、今村が自宅の門口にさしかかって来たときである。不意に、まるで雪の中から湧いて出たように、三四人の黒い人影が、ばらばらと彼の面前に現われて、粗暴とも不礼ともいいようのないやりかたで、両方から彼の腕を
自信をもっていた人間が、一たん自信を裏切られると、それから先はひどく臆病になってしまって、何事にも自信がもてなくなる。一種の強迫観念にとらわれてしまって、することなすことが、
今村は、不意に闇の中からあらわれた暴漢の、無法極まる仕打ちに対して、抗議することも何も忘れてしまった。まるでそういう取り扱いを受けるのは当然のことで、自分はそれにさからう資格のない人間ででもあるような気がした。
「静かにしろ」と一人の
今村は、全身が
「家内はこのことを知っておるでしょうか?」
と彼はがたがた慄えながらきいた。
「だまってゆけ」
と一人の刑事が、無慈悲そのもののような調子で言った。今村の両手はいつのまにか
彼は命令された通り、だまってついてゆくよりほかはなかった。自分の意志を全く失ってしまって、他人の命令に絶対服従する気持には一種の快感が伴うものだ。今村が、恐れとか怒りとかいう感じをその時さらに感じなかったのは極めて自然であると私は思う。貪慾な所有者は家宝の花瓶に少しくらい
彼は、さも愉快そうにげらげらと笑い出すかも知れない。無限の両端は一致するという真理には例外はないのだ。
この刹那の今村の心理状態を学者が分析するなら、命よりも大切にしていた家宝の花瓶を、一思いに粉砕された刹那の所有者の心理状態との間に、少なからぬ共通点を見出したことであろう。
彼は、刑事がするがままに、外套と上着と
その途たんに、彼は一瞬間自意識にかえった。名状しがたい絶望感が、風のように彼の全身を通り過ぎた。彼の唇は彼の意志とは独立に
「もう駄目だ!」
卑怯な家畜のような声が思わず彼の歯間を
五、恐怖
四人の人間の塊りをのせた自動車は、石ころでも乗せたように無感覚な相貌をして、雪の中を疾走していった。一行が警視庁へ着いた時は、もう時計は二時をよほど廻っていた。
彼はもう一度厳重な身体検査を受け、外套と帽子と上衣とは参考品として没収され、一言も言わずに、まるでメリケン粉の袋か何かのように荒々しく留置所へ入れられた。
今村は何よりも空腹と寒さとを感じた。そして、こんな場合に、こんなところで空腹を感じる自分の動物的本能に嫌悪を感じた。しばらくすると係りの警官が毛布を二三枚もって来た。外には二名の警官が立ち番をしているらしかった。彼は本能的に毛布を足でもちあげ、歯でくわえて短衣の上にまきつけた。その毛布は、これまで幾度び、ありとあらゆる忌わしい犯人の身体にまきつき、その体臭と汗とに浸みこまれていることであろう。彼は何とも言いようのない屈辱を感じたが、それでも毛布をすてはしなかった。それどころか、その毛布が自分にふさわしい着物のようにさえ思われた。
彼にはどう考えても今夜の出来事は合点がゆかなかった。ことによると、あの最初の一撃を受けた瞬間に、頭の調子が狂ってしまって、今は夢を見ているのじゃなかろうか? それよりも、最初の打撃そのものが既に夢の中の出来事で、自分は現在、家で蒲団にくるまって、女房と枕を並べて安らかに眠っているのかも知れない。
廊下を往来する守衛の靴の音が、此の上なく非音楽的なリズムをつくって、乾燥した音波を鼓膜に送って来る。その音には、日本帝国官憲の威力がこもっているようで、鼓膜を打つたびにひやりとさせる。それを聞いていると、或いは自分が無意識の裡に何か悪いことをして、それを自分で気がつかずにいるのではあるまいかという考えが湧いて来る。そして、時とすると、それが動かしがたい、確定的な事実のように思われて来る。
彼は身体をはげしくゆすぶって、此の忌わしい考えを振り払おうとした。
今頃女房はどうしているだろう。自分がこんな不名誉なところに、こんな見苦しいざまをしていることを知ったらどうだろう。自分は何も悪いことをしたおぼえはないように思う。が女房はそれを信じてくれるだろうか。それとも彼女は、自分を悪人だと信じきって、愛想をつかして逃げ出していはしないだろうか? 自分が刑事につかまった時に顔を見せなかったのはどうもおかしい。あの時もう既に逃げたあとだったかも知れぬ。
彼はまた恐ろしいものを振り払うように身体をゆすぶって妄想を追いやろうとしたが、数時間前に、幸福な考が泉のように湧いて出たように、今は、
それでも彼は誰をもうらまなかった。うらもうにもうらむ相手がなかったのである。警官は理由なしに臣民を拘引するわけはない。然らば如何なる理由で自分を拘引したのだろう。わからぬ。全くわからぬ。明かに無法だ。無茶だ。だが誰が一体自分に無法を加えているのだろう? 彼は、できるだけ冷静に自分の周囲を反省して見た。
妻は勿論論外だ。さりとて、護謨会社の一事務員である自分には、怪しむべき交友もない。社は忠実につとめている。社長は自分が忠実にはたらくことを知って並々ならぬ好意を示している。工場へは出入しないから、職工とは別に交渉はない。事務員はほかに四人いるが、みんな自分をすいている。小使は社中で自分に一番したしんでいるし、自分も彼には親切にしてやっている。給仕に至っては、自分は他の事務員のようにこきつかわないで、友達同然につきあっている。そのほかには、自分に交渉のある人間は世界中に両親のほかにはないといってもよい。こんな平和な、安穏な環境に生きている自分に、一体警察
全身はぞくぞく寒い。頭はうずく。縄が両腕に喰い入ってぴりぴり痛む。頭には旋風が吹いているようで何が何やらさっぱりわからぬ。彼は、この奇怪極まる立場にいることが次第に腹立たしくなって来た。一体彼等は自分をどうしようというのだろう。どうにでもしてくれ。一刻もはやくどうにか始末をつけて貰いたい。その代り、ここからはやく出して貰いたい。この光を奪われた底冷たい無気味な部屋にいることだけは一分間でも辛棒ができん。彼は死刑台へでもよいから、はやくこの部屋を出してつれていってほしいと思った。
六、板倉刑事課長の審問
約二十分経った。彼にはそれが数時間のように思われた。
家畜小屋の
「此処へ来い」
そのうちの一人が
三人の頑固な警官が、彼を、まるで危険な猛獣か何かのように、物々しく三方から護衛しながら、
今村は、日光をおそれる
室の中央には、数百年来そこにおいてあった彫刻か何かのような、その場にふさわしい恰好をして、
当番の警部は、つい今しがた、京橋の浅野護謨会社の事務所で、小使が頭部を打たれて惨殺されているのが社長に発見されたこと、ただちに管下に非常線を張ったこと、現場へはただちに判検事及び係りの警官や警察医が臨検に向う手筈になっていること、犯人は当夜夜勤をしていた今村という事務員に嫌疑がかかっていることなどを、かいつまんで話した。電話をきいているうちに、課長の顔には次第に職業的緊張があらわれ、「すぐ行きます」と打ってかわっておとなしい言葉で電話を切ったのであった。そして、彼は大急ぎで服を着かえて、自動車をとばしたのである。
「君が今村君かね?」
と課長は彼独得の、おとなしい、それでいて威厳のある
課長の戦術は、初心な今村に対しては殆んど催眠術のような効を奏した。第一印象に於て、彼はすっかり課長の柔和な人品に打たれたのである。何か自分に犯行があったら、すっかりこのお方に白状してしまいたいような気持ちになった。この人を喜ばすためになら何かちょっとした罪くらいなら犯してもよいと思った位であった。ところが、あいにく自分が青天白日の身で何も白状すべきことがないので、彼は、課長に対して申しわけのないような気の毒なような気がするのであった。そこで、せめて課長の訊問に対して、できるだけ丁寧に答えるのが、自分の義務でもあり、愉快な人道的な行為でもあると考えた。
「そうです」
と彼は心から恐縮しきって答えた。
「いずれ詳しいことは判事から審問がある筈だが、君は、何故拘引されたかわかっているだろうね?」
彼は忽ち返事に窮した。実際彼にはさっぱり拘引された理由がわからなかったのである。しかし「わかりません」と
「はっきりとはわかりませんが……」ともじもじしながら彼は答えた。
「はっきりわからなくともおぼえはあるんだね、よしよし」と課長は独り合点して大きくうなずいた。
「君は昨夜、浅野護謨会社の小使を殺したろう?」
獲物に向って発射した
ところが、彼の期待とは打ってかわった妙な反応があらわれた。今村はぽかんとして、無感動な調子で「何ですか?」と訊きかえした。実際よくききとれなかった様子である。課長は、化学反応の実験がうまくゆかなかった時の理科の教師のように小首をかしげた。しかし彼はすぐに気をとりなおした。
「浅野護謨会社の小使を殺したのは君だろうというのだ」
課長は、相手を容易ならぬ強敵と見てとって、できるだけ冷静に言った。いくら隠しだてしたって、こちらでは何もかもわかっているということを犯人に強く印象させる必要のある時に彼が用いる態度である。
今村は、はじめて、自分が容易ならぬ嫌疑を受けているらしいことを自覚して、
七、証拠
「昨夜君は何時に社を出た?」
「かっきり十時に出ました」
「それから真直に家へ帰ったか?」
「はあ真直に帰りました」
「そうか、君は算術は出来るね? 社を出たのがかっきり十時、それで君が家の門口まで帰ったのは今朝の一時二十分過ぎだ。君は帰り途に三時間と二十分費やしているわけだよ。その頃は電車はとまっていたそうだが、京橋から君の家までは、いくら足のおそい人でも、徒歩で二時間あれば沢山だ。ことに昨夜のような雪の晩には、誰でもそうのろのろ歩いているものはない。若し君が真直に家に帰ったのなら、十時に社を出たというのは偽りだろう」
今村は帰途で奇禍にあったことを余っ程話そうかと思った。けれども、それは何も証拠のないことである。却って不自然なつくり話だと思われる恐れがある。彼は返事に窮してまただまった。課長はそれを決定的な有罪の証明であると判断して、別段返事の督促もしないで次の訊問に移った。
「この手袋は君のだろう?」
彼はデスクの上にのせてある一つの
「そうです」
と先刻から不思議そうにそれを見ていた今村は承認した。
「この手袋の片一方はどうしたかおぼえているか?」
「途中で落したと見えてありませんでした」
「どこで落したかおぼえがあるか?」
「ありません」
「君は小使を撲殺した時に、不注意にも現場に落してきたのだ。被害者のそばに落ちていたということだぞ。臨検の警官からの電話で、君の手袋の片一方が発見されたことが明瞭になっているのだ」
今村は、頭から尻へ、串でつきとおされたような気がした。彼を犯人だと信じきった課長は、勝ち誇った勝軍の将が、敵の降将に降伏条件を指定する時のような、確信に満ちた態度で言った。
「どうじゃ、おぼえがないとは言えないだろう?」
「おぼえはありません」
と今村は
「おぼえがありません」というような答えは真犯人の常套語であるということを、従来の経験にてらして知りぬいている課長は、今村の返事などは歯牙にもかけずに訊問をすすめた。
「おぼえのない人間が、どうしてつかまった時に『家内はこのことを知っておりますか』なんて云う必要があるのか? 自動車に乗せられるときは『もう駄目だ』なんて独り言をいう必要があるのか? いずれ重大な事件だから、すぐに係りの検事から審問がある筈だが、なまじっか
課長は肥った身体を満足そうにゆすぶりながら、言いたいだけのことを言ってしまうと、先刻から不動の姿勢をとっていた護衛の警官にあごの先で合図した。
今村は、咽喉に栓が詰って、一言もものがいえなかった。しょんぼりとして、警官にひきたてられてゆく彼の姿を見ると誰の眼にも、すっかり恐れ入ってひきさがってゆく罪人とかわりはなかった。
実際今村自身にさえ、自分が罪人であるとしか思われなかったのである。絶体絶命の不可抗力に、「お前が犯人だ」と暗示され、その暗示は、人間わざではどうすることもできないような気がした。ニューヨークの摩天楼のてっぺんから、真逆様に墜落するときに感ずるでもあろうような、何とも施しようのない、ただ落ちるがままにまかせておくよりほかに仕方のないような宿命を感じた。
昨夜のことがきれぎれに彼の頭をかすめて通りすぎる。細君の顔と刑事課長の顔とが消えたり浮んだりする。その度びに彼は脳髄の中へ氷の棒をつきとおされるような思いがした。
それから間もなく臨検の一行が帰り、証人として浅野社長も召喚されて、予審廷が開かれたことは言うまでもないが、その内容は今のと大同小異だからここで発表する必要はなかろう。ただ翌日の新聞の夕刊(朝刊の記事には間にあわなかったので)には「浅野護謨会社小使惨殺さる」という記事の
八、むしろ永久に未決監に
今村は今も未決監にいる。彼が無罪であることは、彼からきれぎれに聞いた話を綜合して、今読者に語っている、彼の係りの弁護士なる私はかたく信じている。けれども彼が法律上無罪になるかという問題になると、私には必らずしもそれは保証できない。弁護士として甚だ不謹慎な放言をするようであるが、実際自分は自分の弁論の効果に余り自信がもてないのである。第一彼は、あの晩に家へ帰る途中で、奇禍にあったことを一度も裁判官に言っておらぬし今になってそんなことを言い出せば、却って疑を深くするような立場にある。然るに、犯行は十一時頃と鑑定されているからこれを言わなければどうしても現場不在証明が立たぬ。第二に彼は、その時に受けた頭部の打撲傷を判事に発見されたときに、それになるべく自然らしい説明を与えようとして、途中で転んで頭を打ったと申し立てている。ところが、これは極めて不自然な説明となっている。何故かなら、あの打撲傷はかっきり脳天に受けているのであるから、真逆様に転んだのでなければ、あんなところに傷のできる気遣いはない。然るに歩いている人間が真逆様に転ぶことはあり得ない。第三に、事務所に彼が忘れて来た手袋がちょうど被害者のそばに落ちていたということは、あまりにもフェータルな暗合である。勿論手袋だけなら単なる一つの薄弱な情況証拠としかならぬが、他の証拠と重なり合って来ると、これは、容易ならぬ、殆んど決定的な価値を帯びてくるのである。その他にも彼は予審廷に於て、いろいろへまなことを申したてている。そして、一旦口外したことは嘘であろうが何であろうが、彼は断じて取り消そうとしない。前言を翻すのは男子の恥辱だと心得ている。男子の一言金鉄の如しというヒロイズムだけを彼は頑固に信じている。そんなわけで、彼の答弁は却って矛盾だらけになっているのである。これを要するに、彼はあまりに善良過ぎるために罪を背負って、その重荷を放すことができないという結論になって来る。
それというのも我が国の、いやひとり我が国のみならず、全世界の裁判制度なるものが、形式万能主義で、今村のような世にも珍らしい被告の心理に彩られた複雑な事件をさばくようにはできていないからである。
最後に此の事件には他に一人も嫌疑者がない。犯罪があって犯人がないというようなことは警察として忍びがたいところだ。それに世間が、新聞が承知しない。そこで、警察は犯人がなければ犯人を製造してもかまわぬ位の意気込みで仕事にあたっている。それも事情やむを得ないのであろう。
然らば万一、被告が法律上無罪になったとしたら彼は救われるかというと、一たんかくも無惨に破壊された人間の生活というものは容易に繕われるものではない。被告はこれまで、呪いとか、憎みとか、不平とかいうものを知らなんだ。そのためにこそ彼は七十五円の月収で未来の幸福を空想し、この空想が現在の生活を幸福にしていたのである。ところが、今度の事件によって、彼の頭には、不正に対する呪いと憎悪とが深刻にきざまれたに相違ない。それに、浅野合資会社は、この事件のあったすぐあとで破産している。仮に彼が釈放されても生活の本拠が既になくなっているのだ。人間が多過ぎて困る不景気な今の世の中に、殺人犯の嫌疑を受けた人間を雇い入れるような好奇心をもっている資本家は一人だってありはしない。世間の人の眼には、いくら無罪にきまっても、一たん収監された人間には、どうしても黒い影がつきまとって見えるものだ。アナトール・フランスのかいたクランクビュという青物屋と同じ待遇を彼等は世間から受けなければならんのだ。最後に、本人はまだ知らずにいるが、細君はあの事件に証人としてよばれるやら何やらで胆をつぶして月足らずで流産し、彼の空想の楽しい
九、補遺――真犯人は誰か?
私はこの物語を以上で終るつもりでいた。ところが今村の公判もまぢかに迫った最近ちょっとした事件が起ったので、それを補遺として書き添えておくのを適当だと思った。何故かなら、たとえ正確にはわからなかったにしても、此の事件の真犯人について私が何の意見ものべなかったのは一部の読者を失望させただろうからである。
数日前、私は少し調べ物をする必要があったので、訪客を避けて、沼津の千本浜の一旅宿へひっこんでいた。三日の間、私は新聞も読まずに此の事件とは関係のない或る重大な事件の調査に没頭していた。
四日目の朝であった。昨日まで吹きすさんでいた西風がけろりと
私は、
その時に宿の女中が一枚の名刺をもって来た。「
「浅野という男が死んだね」
瀬川は一わたり
「はあ……」
とわかったような、わからぬような生返事をしていた。瀬川は衣嚢から一枚の東京新聞をとりだして、「静岡版」のところをひろげて一つの記事を指し示した。「浅野社長自殺す」というみだしで、浅野護謨会社社長が、ひきつづく事業の失敗のために会社を解散し、その後修善寺の新井旅館に隠棲していたが、昨夜、家人の寝しずまってから猫いらず自殺をとげたこと、原因は、物質的打撃のために精神に異状を来たしたものらしく、遺書の如きものは見当らぬというようなことが書いてあった。
「これは君が弁論を引き受けている小使殺しのあった会社の社長じゃないか?」
瀬川は私が記事を読み
私の記憶は、新聞を見た刹那からすでに
「わかった!」
と私は読み了ると同時に叫んだ。
「こいつが犯人だ!」
「浅野がかい?」瀬川は別段驚きもしないでききかえした。「どうしてだい?」
私は、咄嗟のうちに頭の中に描かれたプロットを追いながら、話し出した。もっとも、いよいよ話し出して見ると、すっかりわかったように思われたのが、所々曖昧な部分がのこっていることに気がついたが。
「君は、あの晩今村が帰り途で何者かに後ろから殴りつけられたことを僕が話したのをおぼえているだろう。あれは、今村の帰宅の時間をおくらせるために浅野が暴漢を雇って殴らせたのだよ。そうしとけば今村のアリバイがたたぬからね。それに証拠は何ものこらない。頭の傷のことを言い出せば、却って小使と格闘した時に受けたのだろうと逆に攻めつけられて藪蛇になるからね。うまくたくんだものだ。こうしておいて浅野はその間に自分で小使を殴り殺して兇器をかくしてしまい、今村が事務所におき忘れていた手袋を屍体のそばにのこしておいて、ちょうどその晩今村が夜勤の番にあたっていたのを幸い、彼に嫌疑を向けようとして、何くわぬ顔で警視庁へ電話をかけたのだ。殺害の原因はしらべて見ねばわからぬが、多分、何か浅野が不正なことをしていたのを小使が知っていたために、生かしておいては危険だとでも思ったのだろう。まあそんなところに相違ない。こういうぼろ会社の社長は不正なことをせぬ方が却って不思議な位だからね。こん度の自殺は、良心の
私は吾ながら、自分の推理が比較的整っていたので得意を満面に浮べて相手を見た。すると、今まで神秘的な眼つきをして空間の一点を見つめていた瀬川は、おもむろに口を開いて語り出した。
「矢っ張り君もそう思ったかね。僕も新聞を見たときには君と同じように考えても見たが、どうもそれはこじつけだよ。君のような法律家には、人間界に起る凡ての現象が法律の範疇の中で動いているように見えるかも知れない。凡ての出来事が関聯し、関聯した出来事はすべて人間の意志に操られて計画的に進行しているように見えるかも知れない。けれども、僕に言わせると、あの事件は、何もかもが無関係で偶然だよ。それを勝手に人間が結びつけて、犯人のないところに犯人を製造しているのだ。君たちは、人間が少しかわった死にかたをすれば、必らず殺した人間がなければならぬと考える。死人のそばにあるものは、紙屑一つでも、その犯罪に関係のある証拠品のように考える。犯罪と同時刻に起った出来事は、何でも、その犯罪と因果関係をもっているように思い込む。仮りにいたずら者があって、屍体のそばに百人ばかりの名刺と十種ばかりの兇器とをばらまいておいたら、君たちは一たいどれを『有力な証拠品』と見なすつもりだい。君は今になって今村が帰途で受けた傷を何か人間の行為ときまっているような
× × ×
正直に白状するが、私には今だにこの事件の真相はわからない。私の解釈にも多少理由があるように思う。瀬川の解釈にも動かし難い真理があるように思う。しかし、私の解釈の証拠は浅野が死んだ以上
こんなことを考えて来ると私は弁護士という職業を廃業するより外に道がないような気もする。しかし、どんな職業だって同じだという気もする。それで、私は、相変らず、こののぞみのない弁論をして見る気でいるのだ。今村をたすけるためではなくただ自分の職業として。
私が瀬川と二人で、人間の過誤の犠牲となった今村のことなどは忘れて、よい気持になってその晩酒をのんで別れた。瀬川もそんなことは少しも気にしていないような様子で陽気に唄をうたったりした。海は、何事にも無関心で、千古のままの波を岸に寄せているらしかった。
(一九二六年五月)