悪魔の聖壇

平林初之輔




 法律の前には罪を犯さなくても、神の前に罪を犯さぬ者はありません。貴方あなたがこれまでに犯したいちばん重い罪を神様の前に懺悔ざんげしなさい。懺悔によりて罪は亡びるのです。貴方は救われるのです。
「牧師様、いちばん重い罪でなくてはいけないものでしょうか? 二番目に重い罪では?」
「いちばん重い罪でなくては神を偽ることになります。今日から新生涯にはいろうとなさる貴方が、新生涯にはいる第一歩に神を偽るなんて途方もないことです」
「神様はほんとうにどんな罪でも懺悔をすれば許して下さるでしょうか?」
「神を疑うことは、神をためすことになります。貴方は神を信じなくてはなりません。どんな罪でも、たとい人殺しの罪でも心から懺悔すれば神様はゆるして下さいます」
「それでは申し上げましょう」
 青年は十字をきって語りだした。
「私は一人の見知らぬ男からひどい侮辱を受けました。主イエスは人もし汝の右の頬を打たば左の頬も打たせよと仰言おっしゃったが、私はその男に対してちょうどその反対をしようと決心したのであります。眼には眼をもってむくい歯には歯をもってむくいようとしたのであります。いやそれ以上かもしれません。私はその頃まだ若かったから、その時に受けた心のいたでから回復する力をもっていましたが、相手はいま五十に近いのです。私の与えようとする打撃は、その男にとっては致命的なものであるに相違ないのです」
「三年前のことです。そのころ私は西国のある淋しい田舎町にすんでおりました。ある冬のこと、私はひどい流行感冒にかかって町の病院へはいっていました。私にはそのころ一人の恋人がありました。ごめん下さい、私は何しろまだ二十二だったものですから、その女は十七でした。二人は口に出してこそ言いませんでしたが、互いの眼と眼、心と心とで、かたく未来をちかっていたのでした。民子は――ごめん下さい、その女は民子といったのでした――毎日二度ずつかかさず病院へ見舞いに来てくれました。ある時は私の好きな水仙の鉢をもってきて私の枕元においてくれました。ある時は私のたのんだ小説を買ってきて、二時間も私によんできかしてくれました。医師は読書を禁じていましたが、私が無理にせがんだのです。彼女は声が室外に漏れないように気を配って、私の耳のすぐそばへ口をもってきて読んでくれました。私は彼女の呼気いき温味あたたかみを頬に感じました。彼女の鼓動を私の胸に感じました。叙述がクライマックスにはいると、私たちは頬がすれすれになるところまで顔を寄せて思わず手を握りあっていたのでした」
「だけど牧師様、世の中はままならぬものであります。私たちの、こうした美しい幸福な愛の世界も長くはつづきませんでした。ある日民子は悲しそうな様子をして私の病室へはいってきました。彼女は何か胸にたえられぬ心配がある様子で、何か言いたそうにしては口籠もっていましたが、とうとう、はずかしそうに懐から写真を一枚とりだして私の枕元におきながら、しばらく東京へ行くことになったから、とうぶん会えないが身体からだを丈夫にしてくれ、記念にこの写真を受け取ってくれということを言いきってしまうと、いきなり、袂を顔にあてて泣いてしまいました。私の眼にもいっぱい涙がたまりました。それっきり二人はわかれてしまったのです」
「それから先、明けては暮れてゆく病院の月日がどんなに私にさびしかったか、牧師様お察し下さい。ただ一枚の写真だけが私の生命のだったのです。私はそれを枕の下においてみたり、懐に抱きしめてみたり、まるで生きた恋人にするように接吻キッスしてみたりして、長い長い一日々々を送っていたのでした。でも、そんなに激しく心をつかっていても、妙なもので、私の病気は幸か不幸かなおりました」
「しかし病気はなおっても、恋人を失ったためにできた心の空虚うつろは決して満たされませんでした。彼女のいなくなった町は私には砂漠同然でした。私は退院してから一週間とたたぬうちに東京へ出てきました。そして、ただ彼女にあいたいという一心で、今日まで生きてきたのです」
「この三年の間に、私は絶望して死のうと思ったことが何度あったかもしれません。がその間の詳しいことは申し上げますまい。ただこの数ヶ月間、私は職を失って、物質的にもとりわけひどく困っていました。私の身のまわりには、金にかえることのできるものはすっかりなくなってしまいました。最後までとっておいた愛読書――それは彼女が病院で私に読んできかしてくれた思い出多い書物です――を売って八十銭の金を手にしたのが一昨日おとといのことで、今朝けさはその残金が十五銭だけ私の蟇口がまぐちの中に残っていたのでした」
「人間というものはどんなことがあっても餓死するものではない。窮すれば何とか道がつくものだということを兼ねがね私はきいておりました。けれども、今度という今度は、私には何ともあてがつきませんでした。金を借りようにも、身を寄せようにも、私にはそんなことを言い出すことのできる知人は一人もありませんでした。職業紹介所へは、今朝で四十六日通いつづけましたが、いつもいつもきわどいところで話がだめになってしまうのです。私はもうつくづく悲観してしまいました。自分の能力を疑いはじめてきました。世間の人は、みな例外なく、どんな人でも食ってだけはいるのに、私だけは明日あすから[#「明日あすから」は底本では「昨日あすから」]食うことすらできないのだと思うと、私はもうこの世の中に生活してゆく資格のない人間であるかのように考えられてくるのです。何か私には、私だけ気のつかない非常な欠陥があって、それは他人ひとには一目でわかるので、そのために私はどこへいっても職にありつくことができないのだろうとすら私は考えました」
「とうとう恋しい民子にもあわずに、生存の戦いに敗れて自滅してゆくのだと思うともう世の中が急に真っ暗になったような気がするのです。私は今日の午過ぎ紹介所からの帰りにポケットの中で、二枚の白銅をにぎりしめながらあてもなく町を歩いていました。どこだったかよくおぼえてはいませんが、何でも忙しそうに人の往来ゆききするかなり賑やかな通りでした。ふと見ると前に射的場があります。私はぼんやりその前にたって見ていました。敷島しきしまやバットやキャラメルなどの箱が積み重ねてあって、それをコルクの弾丸たまで打ち落としているのです。私ははらの中で考えました。いま手許にある十五銭はこれから一度牛めし屋の暖簾のれんをくぐればなくなってしまうのだ。ところで牛めし一杯食ったところが、数時間空腹を先へのばすだけに過ぎない。一かばちかあれを一つやってみよう。敷島を二つ落とせば三十六銭になるから、十五銭の料金を払っても結局二十一銭の儲けになるわけだ。と、こう私は考えたのです」
「私はづかづかっと中へはいりました。店のお内儀かみさんが、コルクの弾丸を五つ入れた盆を私の前に出してくれました。私は空気銃は得意でしたから、それにはじゅうぶん自信[#「自信」は底本では「自身」]をもっていたのです。やがて銃をとりあげて、弾丸をこめ、ねらいを定めて一発打ちました。弾丸はどこへれたのか敷島の箱はびくともしません。二発目も同じでした。三発、四発も同じでした。私はもうがっかりして、自信も何もなくなって五発目はねらいもろくにつけずにうちました。ところがどうでしょう。台の上に積んであった敷島の箱が物の見事にくずれて、そのうちの二つがばらばらと両側へ落ちたのです」
「私は弾丸の替わりを請求しました。お内儀さんはまた五発入りの盆を私の前においてくれました。また私は上の二つを落としてしまいました。三度目はただの一発で成功しました。お内儀さんは敷島の箱を六つ私の前に置いて『すみませんがこれでお帰り下さい』と言うのです。私を地回りとにらんで逃げたのでしょう。私はその敷島を現金にかえてもらいました。三回分の料金が四十五銭、それを敷島六個の代金一円八銭から差し引いて六十三銭の金を受け取ると私は夢中で射的場を飛びだしました」
「私の精神状態はこれだけのことでがらりと一変しました。何だかひどい金持ちになったような、宇宙間のものが何もかも自分の意志のとおりになるような気がするのです。どこをどう歩いたものかおぼえませんが、いつのまにか私は四谷見付のところへ来ておりました。冷たい空っ風が吹いて、外套も着ていない私には寒さがしみじみと身にしみました。ふと橋の袂を見ると、親子らしい二人の女乞食が、地べたにつくばって、あわれっぽい声を出して通行人に施しを乞うているのです。私ははっと胸が迫りました。うれしいような、悲しいような、半ば夢中の精神状態で、私はづかづかと二人の乞食のそばへ走りよって、射的場で貰ってきた金を残らず、この親子づれの乞食にくれてやりました。別にこの二人に同情してどうのというのじゃありません。全く無意識に、ほとんど本能的にそうしたのでした。私は何となく嬉しくてたまらないような気持ちになってきました。これから先どうしようなんてことは微塵みじんも考えてませんでした。何だか浮き浮きするような気持ちにさえなっていたように思います」
「この突然の有頂天の瞬間に、有り得べからざる事件が起こってきたのでした。彼女に私はあったのです。が、牧師様、彼女は、私より百倍も不幸でした。三年前に平和な町から、私の病床から、あの可憐な少女を奪い去った男は、世にも憎むべき破廉恥漢だったのでした。色魔だったのでした。牧師様、私は彼女から涙ながらの物語をきくと即座にその男に対する復讐をちかったのであります。けれどもこの復讐と同時に私たちは新生涯にはいりたいと思うのであります。今お宅の前まで不幸な彼女は一しょに私についてきているのです。牧師様、どうぞ、あのかわいそうな女に一目あってやって下さい。そして神のめぐみをさずけてやって下さい。そして神のめぐみをさずけてやって下さい。もうクリスマスの集まりの方々も見えるでしょうから、それまでに是非……」
 牧師がまだ返事もせぬうちに二人のいた部屋のドアがすうっと開いて、二人の女が入口からはいってきた。二人の女は無言のまま部屋の隅に立っていた。牧師の顔は、それを見ると麻のように蒼くなった。
「お前は……」と牧師が怒気のために息づまりながら何か言い出そうとすると、男はしずかに口を開いて牧師を睥睨へいげいしながら言った。
「いま私が申し上げた、不幸な私の恋人です。平和な私の町へ伝道に来て、神の名によりて道を説きながら、清らかな少女を毒牙にかけた憎むべき牧師の第一の犠牲者です」
 牧師は棒立ちになったまま口がきけなかった。
「後ろにおられるのは、同じ手段でその色魔の手にかかった第二の犠牲者です。よく顔を上げて見なさい。どうです。まともに二人の顔を見ることができんのですか?」
 この時、隣室でばたんと物の倒れるような音がした。牧師はぎくりとして思わず音のした方を見た。男はおもむろに起ち上がってその方へ進んで行った。扉をあけると一人の女が床の上にうつぶしになってすすりないていた。
貴女あなたは……?」と言って顔をのぞきこむと、女は真っすぐに起ち上がって言った。
「すっかり、ここで承りました、何もかもわかりました。わたしは、この悪人のために第三の犠牲者になるところだったのでございます」
「犠牲者はこの三人だけではありません。この非倫な牧師は信者に懺悔をしいて秘密を告白させては、相手の弱点をにぎり、それをたねに脅迫して、獣欲をほしいままにし、私財を蓄えていたのです。皆さん、皆さんはどなたも神の救いにすがろうとして、かえってこの背徳漢はいとくかんのわなにかかられたのです。神と信者との間から、こういう邪魔物をとり払うのはほんとうに神のご意志にそうものではありませんか。
 今夜のクリスマスの集まりは、あなた方お三人で司令なさい。これから集まってくる方々のうちにも、この男の悪辣なわなにかかって苦しんでおられる方が少なくないに相違ありません。それらの人たちの面前で、この男は、自分で懺悔ざんげをする番です。あなたは、たったいま懺悔によって罪は消滅すると私に言いましたね。もうぽつぽつ信者のかたが見えるでしょう。今のうちによく話の筋道を考えておきなさい。いちばん重い罪を懺悔するのですよ」





底本:「平林初之輔探偵小説選※()〔論創ミステリ叢書2〕」論創社
   2003(平成15)年11月10日初版第1刷発行
初出:「令女界 第六巻第一号」宝文館
   1927(昭和2)年1月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年10月28日作成
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