探偵小説は、英米では、ポー、スティーブンソンにはじまり、コナン・ドイルによって、近代小説の一つのカテゴリーとして、その存在を確立した。
仏国では、ガボリオ、ボアコベらが十九世紀中葉に、既に純粋な探偵小説作家として一家をなし、ガストン・ルルー、モーリス・ルブランの現在に及んでいる。
その他、探偵小説の語義を拡大して、犯罪文学という風に解するならば、世界のすぐれた小説のほとんど全部に、探偵小説の要素は含まれている。
そこで探偵小説の価値については自ら二つの見解が対立するようになった。一は、探偵小説に独自の価値を認めないで、ただ一般の文学として秀れたものであって、その中に探偵小説的要素を備えたもの、例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』のごときを探偵小説の模範となす見解であり、一は探偵小説を他の一般の小説から区別された独自の存在として、それ自身に特有の価値を付し、ドストエフスキーの作品よりも、ルブランの「ルパン」物とか、コナン・ドイルの「ホームズ」物とかを探偵小説としては上位におこうとする見解である。
私の見解はほぼ後者に傾いている。というのは、探偵小説という一つのカテゴリーが、現在では既に動かすべからざる存在だからである。これは私の趣味からそう言っているのではない。私はむしろ、探偵的というような特殊な価値よりも、もっと広い芸術的な価値に富む作品を好むのであるが、探偵小説が独自の存在権をもつとすれば、探偵小説をして探偵小説たらしむる特殊の価値を重視しなければならないという理論的要請を無視するわけにゆかないからだ。サイダーと紅茶とを両方とも飲み物であるからといって、二つの価値の優劣を同じ尺度できめるわけにいかないのと同じ道理である。
仮に佐藤春夫が小説家として非常にすぐれていて、時に探偵小説的作品も書くけれども、それは探偵小説としてはあまりすぐれていないとする。また大下
これに反してルブランの「ルパン」物などになると、材料の真実性は希薄だし、描写の迫真性も乏しく、読んで私たちの魂の奥底にふれるようなところは滅多にないが、それでいて探偵小説としては実に面白い。
では、探偵小説の独自の価値とは何か? 私は大まかに次のような諸条件をあげることができると思う。
一、筋の
だが探偵小説においては一貫した、変化にとんだ筋があるということは絶対に必要である。そして筋が自然性に富んでいるということよりも、筋が論理的に整然と構成されているということがいっそう必要である。したがって探偵小説において取り扱われる世界は現実の世界であることを必要としない。ただポッシブルでさえあればどんな事件でも探偵小説の筋の中へ織りこまれて、効果をもち得る。
二、サスペンス 一は探偵小説のみならず、すべての大衆的小説にほぼ通有の条件であるが、読者にサスペンスをもたせるということ、そして読者を最後の数頁まで、でき得べくんば、最後の数行まで、五里霧中に彷徨せしめるということこそ探偵小説の独自中の独自の条件である。これは必ずしも、ある犯罪を描いて、その犯人を最後まで読者に知らせないということだけを意味しているのではない。犯人の見当はついてもよいし、またはっきり犯人がわかっている場合でもかまわない。そういう場合には、犯罪の動機や方法、もしくはその捜査、発見の手続き、そうしたもののうちのどれか一つをサスペンスとしてのこしておかねばならぬ。つまり読者を中途でこれでみんなすんでしまったのだと思わせてはならないのだ。これからどうなるかという期待を最後までつないでゆかねばならないのである。最近の作家では
三、トリック トリックは必要である場合とない場合とがある。これぞというトリックなしに最後まで読者にサスペンスをもたせることができれば、それに越したことはないが、現実の事件にはそうした場合はほとんどないから、まず多少の伏線を示しておいて、最後にトリックであっと言わせるということが多くの場合必要になってくる。ことに短編の探偵小説では、トリックはほとんど生命だといってもよい。かつて邦訳で読んだ誰かの小説に三月三十一日の夜
四、テンポ 探偵小説であるから、テンポの速いということも一つの条件である。そこでは外的事件の進行が大切なのであって、それと関係のない細々しい描写は、それがどんなに文学的に
五、消極的条件 以上にあげた条件をみたすためとはいえ探偵小説における推理過程は、常に現代の知的水準を突破してはならぬ。ポッシブルというのは、現代人の知的水準においてポッシブルであるということを意味する。H・G・ウェルズの世界は探偵小説としては不適当である。アーサー・リーヴのケネディのように今日の科学でまだ発見されてもいず、近い将来に発見されそうもない機械を盛んに使用することは興味を削減する。
またトリックにしても、あまりに凝りすぎて尋常な読者にはとうてい
またテンポにしても、必要な推理過程を省略して、飛躍しすぎることは、読者を興味索然たらしめる。セクストン・ブレイクの小説のごときは、ハイスピードである点は申し分ないが、推理が、断続的、飛躍的で、糸をほぐしてゆくようなすがすがしさを感じることができない。一言でいうとすべての条件には限界があってそれを踏みこえると反効果をもつようになる。
以上、私は主として探偵小説の技術的方面の問題について多少論じてみたが、その商業的方面について、最後に一言しておこう。
西洋の小説のシリーズ物などを見ると、トルストイとガボリオとが一緒にならんでいたり、コナン・ドイルとヴィクトル・ユーゴーとが背中あわせしたりしていることは珍しくない。
ところが日本ではまだ、創作物においても、翻訳物においても探偵小説はまだ一般の小説から隔離されて、一段下級な文学作品であるかのごとく取り扱われている。創作物だけがそうであるなら、日本の創作が貧弱だからという理由で説明がつくが、翻訳物もそうであるというに至っては、ただそれだけでは説明できない。大衆小説と芸術小説とを不自然に分かったのと同じ偏見が、ここにも支配しているのであると見なさねばならぬ。
改造社の『世界大衆文学全集』中には探偵小説はだいぶ取り入れられているが、しかしこれは「大衆文学」というカテゴリーの中で初めて椅子を与えられているので、『ファウスト』や『ミゼラブル』とならんで、コナン・ドイルの『アドベンチャー』や『メモアール』が収録されているのとはわけがちがう。
最近、探偵小説集が洪水のように市場に現れたのは一面、読者界の