黒岩涙香の名をきいて、いちばん先に思い出すのは彼が在命中の『
ジャーナリストとしての黒岩涙香は、非常に内容の豊富な、少ない数面に何から何まであまさずつめこんだ、マイクロコスモス〔小宇宙〕ともいうべき独特の新聞をつくることに成功していたと同時に、時には、まるで普通の新聞紙の型を破って、突飛な編集ぶりを示すことによって読者をあっと言わせた。南北朝
政論家としての黒岩涙香は、だいたい進歩思想家として一貫していたように思う。そしてだいたい政府攻撃の立場にたっていたようである。選挙の時など、彼の『万朝報』のスタッフを率いて応援演説に行くと、反対党は、彼の熱弁をおそれて戦慄したということである。欧州戦争の末期に、『万朝報』は、執拗に仏国出兵を主張した。これは仏国政府との間に妙な関係があったのだという説があった。いまだに私はその真偽は知らぬが、恐らくそれは事実だろうと思う。それにしても、私はその当時まだ欧州戦争のほんとうの性質――それが帝国主義国家間の略奪戦争であったという性質――を知らず、よほどフランスびいきだったので(これは弱いものにひいきするという人類に共通の心理からだったのか、連合国の正義人道のプロパガンダのおかげかはっきりおぼえていないが)、仏国出兵の主張にも共鳴したのであった。
思想家としては、天人論の著者として、彼の名は当時の青年の心に強い影響を与えた。一種の哲人主義の思想が、露骨な政権争奪以外に何の背景もない人たちの思想にくらべて若いインテリゲンチャの心をひいたものだと思う。
それでいて、この人は、ビジネスにも抜け目がなくて、決して金銭に超越している人ではなかったということである。そういう人はどこもあまりよく言われないのが通例であるが彼もその例にもれず、晩年にはあまり評判がよくなかったようである。しかし、新聞のエディターとして、また政界にも活躍しようとする野心をもっていたらしい人として、利益問題に超越してなどおれないことは、無理もない話であるのだが。
黒岩周六〔本名〕といえば、いま生きていたら、大亜細亜主義の
実際、彼は黒岩という世にも頑固な姓と、涙香という世にもやさしきペンネームとの持ち主であったように、性格や趣味も非常に多方面的であったらしい。中でもいちばん私に興味のあるのは、彼が、非常に賭博の研究家で、古今東西の賭博に関する知識は驚くべきものであったということ、そして単に知識が深いのみならず、実際にも賭博が非常に好きであったということである。S氏の話にもあると思うが(私はそばできいていたので)彼が講和会議へ随行したとき、欧州へ旅をして、まず第一に彼が憧憬のまととなったのは世界の賭博の本場であるモナコであったということである。そして汽車の中で、通訳として随行していたS氏にノートブックを幾冊となく買わせ、何をするかと思うと、帽子をぬいで、その中へ
明治文学史上、彼は彼の翻訳に見る一種の立体的な、説得力に富んだ文体を創造したスタイリストとして記憶されねばなるまい。それと同時にガボリオ、ボアゴベ等のごとき有名な探偵小説作家の作品を紹介し、近代的探偵小説を日本の文壇に移植した点で特筆大書する価値が十分にある。彼の作品を読んだ人は一様に記憶しているであろうか、彼の筆力には不思議な魅力がある。粗雑なようで
彼の小説をはじめて読んだのは十二三の時で、『怪しの物』というのであった。それから二度目は、今から十年ほど前のことで『有罪無罪』をきっかけに、一二ヶ月の間に、手に入る限りの彼の作品は全部読んだ。すっかり病みつきになって、貸本屋に彼の本がなくなると、古本屋や夜店をあさりあるいて探したものだ。それでも彼の本がなくなると、もう宇宙間に読む本がなくなったような淋しさをおぼえたものである。とりわけ今になっても面白かったと思うものは、鉄仮面、死美人、非小説、
涙香が死んでからしばらくしてから、珍本を
木村毅君で思い出すのは、同じく私のクラスメイトで、町田歌三君が、涙香の書物を出版していた扶桑堂の主人で、同君は、自分で縮刷本の表紙の図案なども書いていたのだった。その町田君も昨年逝くなった。
近く同君のためにも友人仲間で追悼会を催したいと思っている。