こんなことが信じられるだろうか? でもじっさい
今朝の十時に、妾はあの人の書斎へはいって、書棚からミロッセの『コンフェッション』を探していた。すると、何という偶然の一致だろう。ちょうど、その書物を[#「書物を」は底本では「着物を」]ぬき出すとたんに、オパール色の一通の封書が妾の
封筒と同じ色のレターペーパーに、紫のインキで次のように書いてあった。
あなたは洪水のようにお手紙を下さるのね。きっと貴方 は朝から晩まで妾の手紙ばかり書いていらっしゃるのでしょう。妾、ただ読むだけでへとへとになっちゃうのよ。ポストをあけてみると、きっと貴方のお手紙がはいっているんですもの。でも妾、貴方のお手紙をよむのはそれはそれは愉快だわ、貴方のお手紙はいろいろなことを考えさせるんですもの。どんな書物を読むよりもためになるわ。そして、貴方が妾を愛していて下さることはよくわかるわ。妾だって貴方を愛せるかも知れないわ。そして現に愛しているかも知れないのよ。貴方は奥さんやお子供さんのあることを恥じていらっしゃるのね。ちゃんと妾にはわかるのよ。そしてあなたの心の動きを非常に興味をもって見ているわ。でも仕方がないじゃありませんか、そんなこと。貴方の頭でどんなに考えたって解けっこのない問題ですもの。妾ならもう何も考えないことにするわ。そして妾自身何も考えていやしないわ。妾には考えたって苦しんだって貴方の影響を脱する力はないんですもの。妾は貴方の百倍も貴方を愛しているんですもの。
四月十一日
四月十一日
貴方のTより
妾のN様妾はもう少しで、
また手紙が来た。あの恐ろしいオパール色の手紙が。妾は
みんな妾が悪いんです。妾は見栄坊なんです。妾はこの上なく自尊心の強い強情っ張りなんです。でも、貴方 の前には妾の自尊心なんぞは、霜柱が朝日の前で威張ってみようとするようなもんですわ。妾は妾の心と身体との全部を貴方に提供します。妾にはもう妾自身の意志も欲望も力も無いのです。貴方の意志が妾の意志です、どうぞ思う存分になすって下さい。貴方に責めさいなまれることですら、貴方に唾 をはきかけられて蛆虫 のように軽蔑されることですら、妾には限りなき喜びなんです。もう淋しいことは何も言って下さいますな。貴方は万能のジュピタのように妾に何でも命令して下さい。妾は、貴方の命令になら、羊のように従順にでもなります。生まれたばかりの嬰児 の四肢をもぎとって煮え立つフライパンの中へ投げこむほど惨忍にもなります。
T子より
世界でただ一人のN様世間の女はいろいろな
妾は、何も知らぬふりをして、手紙をあの人の書斎のデスクの上へおくことにきめた。あの人は七時少し過ぎに帰ってきた。妾は一緒に食膳にむかいながら、あの人の様子に念入りに注意をくばっていたが、あの人は全く常の通りに冷静だった。妾はその落ち着き払った顔を熊手か何かでかきむしってやりたい程の欲望をじっと抑えて、食事をすました。
あの人が書斎へはいって扉をしめると、妾は大急ぎで、しかし
昨日もあのオパール色の手紙が来た。だが妾はもう開封しなかった。あの人を少しでも疑うなんて、あの人をふみつけにすることにもなるし、妾自身の愚かさ、醜さを妾自身に証明することにもなるのだから。
しかし、今日、またポストの中にあの封筒を発見した時は、どういうものか、妾は頭の中が
貴方はせっかく会って下さって何も
それは妾が完全に貴方を理解しつくしているからのことです。そして、貴方を深く強く愛すればこそ理解できるのですわ。理解の上に愛が生ずるのではなくて、愛の上にこそ理解が生まれるのですわね。妾は、貴方に対して、世界の誰とだって愛を競うわ。
昨夜、公園のベンチの上で、妾たちの唇と唇とが触れあったとき、妾はすぐその場で断頭台へつれて行かれて、二十秒以内に
妾はもう完全に貴方に支配しつくされているんです。妾のこの手紙の文字さえ貴方の筆跡にそっくりになってきたでしょう。妾は妾の心の中に貴方の心をしっかりと感じています。そして未来永劫に感ずるでしょう。どんな障害をも乗りこえて、私たちは
すべてあなたのものより
すべてわたしのものへ妾は読み終わると眼がくらみそうになった。その瞬間妾は人間が眼をもって生まれたことを
あの人を奪われたが最後、むろん生きている意味がなくなってしまうのだ。
子供は可愛い。でも子供への愛だけで妾の生命がつなぎとめられるかどうかわからない。しかし、あのバンプをのこして、おめおめと死ぬことができるだろうか。けっきょく死んでゆくものは敗北者なのだから。
妾はこの前と同じように、あの人が帰って書斎へはいると、すぐに鍵穴へ眼をあてて中をのぞきこんだ。息は殺していたが、胸の大きな
あの人はこの前と同じように封をきって、やはり一分間足らずで読みおわって、机の上へ
自分の夫が、自分以外の女を思って
妾は昨夜のうちに何もかも決心した。しかし、朝、何事もなかったように、いつもと同じような顔をして起きてきたあの人の顔を見ると、妾はつい気おくれがして、何も口へは出せなかった。
しかし、あの人が出てゆくと、すぐに
正午過ぎにまたオパール色の封筒が来た、妾はそれを開封するのが恐ろしかった。しかし開封せずにはいられなかった。
奥さんが、妾の手紙をお読みになったらしいんですって? 開封したような形跡が見えるんですって? 貴方 は、それではいつまでもかくしていらっしゃるつもりだったの? かくしてしまえるつもりでいらっしゃったの? 「僕は貴女 の奴隷です。貴女は僕の女王です」この言葉はそれでは口から出まかせの嘘だったのね。奥さんにかくれて、退屈しのぎに妾を相手にしていらっしゃったのね? 世の中には有り得ることと有り得ないことがあります。妾おかしくて[#「おかしくて」は底本では「おかくして」]しょうがないわ、貴方はそんなにびくびくしないで、みんな奥さんに妾の手紙を見せておしまいなさい。奥さんの言葉で妾を思いきれるなら、さっさとそうして頂戴! 何もかもうちあけて奥さんに許しを乞いなさい。その方がもちろん誰のためにもいいことだわ。妾のことなんかちっとも心配ないのよ。妾はもう、そうなればせいせいするだけよ、でも、妾、はっきり予言しておきますが、貴方は妾の今考えている通りになるにちがいないわ。今日は、この手紙をご覧になったら、何もかも奥さんに白状しておしまいなさいね。妾の手紙もみんな見せておしまいなさい。
T子
N様あの人はやっぱり妾のことを考えている。やっぱり人間だった。はじめから考えていた通りの、しっかりした、正しい、神様のような人だった。
妾は、久しぶりで
あの人が書斎へはいると、いつものように妾は鍵穴から中を
あの人は、やはりいつものように手紙を読みおわってから、ゆっくり
あの人は封筒の中から一々中味を抜きとって、それをデスクの上に重ねた。みんなオパール色の、同じサイズのレター・ペーパーだったので、よく揃った。あの人はそれから、椅子に腰をかけて、
この仕事がおわると、あの人は、また巻煙草に火をつけて、ゆっくりと煙を吐き出してから、デスクの上の呼鈴を押した。
下で女中の返事が聞こえた。妾はとつぜん鍵穴から眼をはなし二秒ほどその場に電気にでも打たれたようになってじっとしていたが、女中が階段を上がってくる
「随分ひどい煙ね。少し開けましょうか?」
返事がなかったので、妾は、右手のフレンチ・ウィンドーを、片側だけ斜に外へ押した。
「そこへかけなさい!」
あの人は無愛想にそばにある
「これを読んでみなさい」こう言ってあの人は手紙の綴じ込みを妾の前へ押した。
妾は、無言で(こういう時には何とも返事のしようのないものだ)読み出した。
約百枚のレター・ペーパーを読むのに妾はかれこれ三十分かかった。前に妾が読んだのは、二人のラブ・アフェアの一部分の飛び飛びの断片に過ぎなかったのだが、いま一まとめに綴じこまれたこの書類を、順序をたてて読んでゆくと、一つの熱狂的なロマンとなって、妾の胸をしめ木にかけるように、これでもか、これでもかと圧迫した。妾はできるだけ自制しようと努めたけれど、しまいの方になると、のべつにハンカチをつかって涙を拭かねばならなかった。
あの人はその間横をむいて
――あの人は、あの女からこの手紙で命令された通りのことをしているのだ――この考えは実にだしぬけに、妾の意識にひらめいたのであった。どうしてその時まで気がつかなかったのかいまだに妾にはわからない。
「僕はこの女を愛しているんだ」あの人は妾が手紙を読み
「どうにも仕方のない運命だから諦めて、おやすみ、考えたってよい思案の出ることじゃないから、今この場でふっつり諦めて、このろくでなしの、野良犬のような僕を許して下さい!」
妾はもうそれ以上、鋼鉄の機械か何かから出てくるような、無慈悲な言葉をきいていることはできなくなった。両手でハンカチを眼にあてて、妾はだまって下へ降りて行った。
昨夜はむろん妾は一睡もできなかった。涙がとめどなく出てくるかと思うと、急に涙が乾いて、憤怒のために眼がつり上がってくる自分を感じた。妾は気が狂うのではないかと思って、その時はっとしたのをおぼえている。
妾は夜が明けるのをまって起きぬけに、あの人の室へはいって行った。あの人はまだ、ベッド・サイド・ランプをつけたまま眠っていた。枕元に青い表紙の洋書が開いたままになっていた。背を見ると、金字で The Recent Development of Physical Sciences と書いてあった。昨夜あんなことがあったのに、そして妾をこんなに苦しませておいて、平気で、本もあろうに、物理学の本を読んでいるなんて、この人の心臓の血は温かいのだろうかと妾は疑った。そしてぐうぐう
「眠っちゃいないんだよ」その時あの人はぱっちり眼を開いてだしぬけにこう言った。「一秒間も眠れなかった。僕を殺しにきたのかね?」あの人は片っぽの眼を少し細くしてつけ足した。妾は非常な
「そうそう、それだ、僕の待っていたのは!」とあの人はがらりと言葉の調子をかえて言った。「今くらい僕はお前の顔の美しかったのを見たことがない。今くらいお前の心の緊張したのを見たことがない。今くらい、僕に対する愛でお前の心がはちきれそうになっていたのを見たことがない」あの人は落ちつき払って、少し口元に微笑を
妾はその時は、あの人の言葉をうそともほんとうとも判断することができなかった。だが、数分間たつと、すべての事情が朝日にとける霜のように氷解してきた。そして実を言えば、あの人があんなことを言わないでいてくれた方がよかったと思ったくらいだ。安心しきって、心の張りがすっかり
ああ妾の生活は、まるで
ずいぶん罪な人ね。でもそのくらいなトリックで安心するなんて、奥さんもずい分あまい方ね。だけど貴方 のなさったことはほんとうに賢明だったと言っていいわ。無益に人を苦しめるのは罪ですからね。最後のときまで犠牲者を安心させてあげるのは、せめて妾たちの義務だと思うわ。
妾こんなことを空想しているのよ。貴方と妾とがどうせ汽車か何か乗り物にのってどっかへ行くでしょう。もう東京へは二度とかえってこない決心でね。いずれそのことは奥さんにもわかるでしょう、一昼夜のうちには。その時分にはまだ妾たちは汽車に乗っているでしょう。どうせ行くとすれば遠いところでしょうから。その時は夜の十二時頃と仮定しましょう。妾は奥さんのことを思ってきっと泣くにちがいないわ。
そうすると貴方は妾を泣かせまいとして色々慰めて下さるでしょう。そのくせ貴方自身も心の中では妾の百倍も泣いていらっしゃるくせにね。妾たちは泣きながら闇の中を揺られてゆくのです。汽車の中には、どうせ一昼夜も乗れば辺鄙 なところでしょうから、妾たちの外には誰も同乗者はいないでしょう。妾たちはきっと抱擁 するでしょう。そして貴方は妾に奥さんのことを思わせまいとして、妾は妾が奥さんのことを思っていると貴方に思わせまいとして、しかも互いに相手の思っていることをよく知りあいながら汽車に運ばれてゆくのよ。
そのうちに貴方が、妾のために何もかも忘れておしまいになる瞬間が来るでしょう。妾もその時は貴方のために何もかも忘れてしまうわ。二人の心持ちの動きは言いあわせたように一致するでしょうから、妾そんなことばかり今空想してるのよ。それはそれは淋 しいのよ。そして何とも口で言えないほど、筆でかけないほど、幸福だわ。
では左様なら。ここのところへ接吻 しておくわよ。
妾こんなことを空想しているのよ。貴方と妾とがどうせ汽車か何か乗り物にのってどっかへ行くでしょう。もう東京へは二度とかえってこない決心でね。いずれそのことは奥さんにもわかるでしょう、一昼夜のうちには。その時分にはまだ妾たちは汽車に乗っているでしょう。どうせ行くとすれば遠いところでしょうから。その時は夜の十二時頃と仮定しましょう。妾は奥さんのことを思ってきっと泣くにちがいないわ。
そうすると貴方は妾を泣かせまいとして色々慰めて下さるでしょう。そのくせ貴方自身も心の中では妾の百倍も泣いていらっしゃるくせにね。妾たちは泣きながら闇の中を揺られてゆくのです。汽車の中には、どうせ一昼夜も乗れば
そのうちに貴方が、妾のために何もかも忘れておしまいになる瞬間が来るでしょう。妾もその時は貴方のために何もかも忘れてしまうわ。二人の心持ちの動きは言いあわせたように一致するでしょうから、妾そんなことばかり今空想してるのよ。それはそれは
では左様なら。ここのところへ
T子
N様これは昨日さめかかった興奮を新たに燃え上がらせるためのあの人のトリックなのだろうか。それとも昨日の言葉は、妾を一時ごまかすための、口から出まかせの嘘だったのだろうか? 妾は手紙をひろげて、つくづく筆跡を見た。だがいくらしらべてみても、あの人の筆跡のようでもあり、またそうでないようでもあるとより言いようがない。あの人が自分の筆跡をごまかすためにわざと書体をかえて書いたものともとれるし、相手の女の筆跡がほんとうにあの人の筆跡に似てきたものだともとれる。
妾は今となってはあの人にそれを問いただすこともできない。そして、あの人が何と答えようと、それを信ずることもできない。そしてあの恐ろしい手紙に記してある最後の日を待っているより他はないのだ。その日は来るのかも知れないし、また来ないかも知れないのだ。相手の女は、実際すぐそばにいて明日にもあの人とどこかへ行ってしまうのかも知れないし、全くこの世に実在しない、あの人の頭の中でこさえた
影なら影ではやく姿を消してしまえばいい。実在なら実在で、はっきりとその姿を現してほしい。
妾はあの人の顔を見るのが、あの人と一緒にいるのが恐ろしくなってきた。あの人自身が、正体のつかめない無気味な影のような気がしてならない。